第四章 過去の邂逅8/11
「ヴァルトエック家の人間ならば、一番に地下世界のことを考えるべきなのでしょうね」
「……どうしたんだ? マリエッタ」
「……少し後悔しています。私はこの地上世界に来るべきではありませんでした」
マリエッタのその告白に、カイが「まあ……な」と曖昧に頷きを返す。
「確かにこんなところに閉じ込められれば、そう考えるのも無理ねえことだけどよ」
「……いいえ。そうではないのです。むしろその逆なのかも知れません。これまでのように、地下世界に閉じ込められたままであれば、私は恐らく変わらずにいられたのでしょう」
自身の言葉が要領の得ないものであることは、マリエッタも理解していた。だが彼女の様子から何かを感じ取っただろう。カイが口を閉ざして、無言に彼女の言葉を促した。
カイのその優しさに感謝しつつ、マリエッタは心内に溜まっていた想いを吐き出した。
「この地上世界を訪れてからというもの、私はこれまでにない、多くのことを経験しました。ヴァルトエック家の人間として地下世界を管理する。そのために必要な経験だけを積み重ねてきた私にとって、地上世界での経験はどれも新鮮で……驚くものばかりでした」
膝に落としている手のひらをきゅっと握り、マリエッタは穏やかな口調で言葉を紡ぐ。
「まず驚いたのは、カイ……貴方がたとの施設での共同生活です。これまで私の周りには、ヴァルトエック家の人間である私に、敬意をもって接する者ばかりでした。もちろんそれは当然であり、私もそれを誇りにしてきました。だというのに、貴方がたの私に対する振る舞いは、その敬意がまるで感じられず……正直不愉快なものでした」
マリエッタはそう呟くと、すぐに力なく頭を振り「しかし……」と言葉を続けた。
「数日のうちに慣れました。そしてこうも思うようになります。貴方がたが私をヴァルトエック家の人間として扱わないのならば、私もヴァルトエック家の人間として振る舞う必要がないのではないかと。そう考えた時……ふと肩の荷が下りたような気がしたのです。そしていつしか私は……貴方がたとの生活に、安らぎを覚えるようになりました」
ここでマリエッタは、ゆっくりと金色の瞳を閉じた。閉ざされた瞼の裏に、黒髪をボブカットにした、幼い一人の少女が映し出される。こちらに微笑み掛けてくれるその少女の幻影を見つめながら、マリエッタは自然と口元を綻ばせた。
「何より……まだ幼いメラニーは、ヴァルトエック家がどういう存在かを知りません。であるにもかかわらず、彼女は私に素敵な笑顔を見せてくれます。私をヴァルトエック家ではなく、一人の女性であるマリエッタ・ヴァルトエックとして、親しみを抱いてくれています。そのことで……それだけのことで、私はこれほどに心が満たされているのです」
ここで一度、言葉を区切る。長い時間を掛けて息を吸い込み、同じだけの時間を掛けて息を吐き出す。閉じていた瞼を開いて、マリエッタはその金色の瞳を――
頭上にある空へと向けた。
「……なんと美しいのでしょうか」
どこまでも続く無限の空。閉塞されていない世界。天井のない空間。キラキラと輝く太陽に金色の瞳を細めつつ、マリエッタは空に流れる雲を視線でなぞる。
「この空も……初めはどうとも思いませんでした。むしろ、頭上に何もないことが落ち着かず、気味が悪いとさえ思いましたよ。しかしそれもまた、すぐに慣れてしまいました。慣れてしまい……魅了されてしまったのです。この閉じ込めるモノのない広い空に」
髪を撫でた風に一度言葉を止めて、マリエッタは大きく深呼吸する。
「……これほど開放的な気分は初めてです。これほど空気が美味しいと感じたのは初めてです。これほど世界が愛おしいと思えたのは初めてです。地下世界しか知らない私たちは、そこにあるものだけが全てだと、無意識に考えます。常に感じているはずの息苦しささえも、まるで空気のように、存在して当たり前のものとして受け入れます。そのある意味での鈍感さは、生きていく上で重要でしょう。しかし私は――地上世界を知ってしまった」
空から視線を下して、マリエッタはカイに振り返る。口を閉ざしてマリエッタの言葉に耳を傾けてくれているカイ。その彼の黒い瞳を、マリエッタは真正面から見つめた。
「正直にお伝えします。私は地下世界に戻るのが怖い。この地上世界を知ってしまった今、閉塞された地下世界に戻り、その息苦しさに耐えられるか自信がないのです。ヴァルトエック家の人間として振る舞えるのか自信がないのです。もしも可能なら私は――」
その言葉を伝えるのには、大きな決断が必要であった。しかし一度堰を切った言葉は、マリエッタの抱いた躊躇など意に介さず、流れるようにして口からこぼれ落ちた。
「この地上世界にいたいとすら考えています」
「……だがマリエッタ。それは――」
カイの言葉を手のひらで制して、マリエッタは自らその言葉を口にする。
「分かっています。地下世界の土地問題ですね。確かにそれは由々しき問題です。ですが……私が出しゃばらずとも、いずれ父が解決してしまうでしょう。元より神聖樹を過去の姿に戻すという私の策は、私の独断によるものですから」
ここでマリエッタは、申し訳ない気持ちから眉尻を落とし、小さく頭を振る。
「それと……孤児院の子供たちのこともあります。カイにとっては、そちらのほうが地下世界の問題より重要なことでしょう。正直に申し上げまして、彼らについては幸運を祈ることしかできません。しかしどちらにせよ仕方のないことではありませんか?」
マリエッタは、我ながら言い訳がましいと思いつつ、僅かに口調を強める。
「神聖樹が見つからなければ、私たちは地上世界に残らざるを得ません。ならばそれを考えても仕方のないことではないですか? それに魔法により生まれたとはいえ……カイも恩人であるクリステルを、消滅させるのは忍びないはず。クリステルもメラニーも、この地上世界も、消滅させることなく残すことは、それほどに誤りでしょうか?」
マリエッタは一息にそう話すと、一呼吸の間を空けて――
「皆でこの地上世界には留まれませんか?」
そう口調を落として締めくくった。




