第四章 過去の邂逅6/11
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カイが介護などと口にしたためか、気を利かせてくれたメラニーが、マリエッタの身の回りの世話をよくしてくれた。もっともそれは、喉も乾いていないのにお茶を入れたり、凝ってもいない肩を揉んでくれたりと、いまいち要領を得ないものであった。
しかしそれを一生懸命にしてくれるメラニーの気持ちが嬉しくて、マリエッタは終始頬を綻ばせていた。連日の調査により溜まっていた疲労もすっかりと消えて、メラニーのためにと申し出た休息の時間が、思いがけずマリエッタの体と心を癒してくれた。
メラニーとの時間は瞬く間に過ぎていき、午後一時を回った。予定通りに神聖樹の調査に向かおうとするマリエッタを、メラニーが玄関口まで見送りに出る。玄関口で手を振る少女の、その眩しいほどの笑顔に、マリエッタもまた笑顔を華やがせて、手を振った。
そして今、マリエッタは地上世界にある街中を一人歩いている。街中に出てからも、マリエッタはメラニーの笑顔を時折思い出しては、ふっと頬を綻ばせていた。だが彼女はそんな自分自身に気付くたびに、浮かべた笑顔に僅かな渋みを混ぜる。
「まったく……私は何をしているのでしょう」
街中をぼんやりと一人で歩きながら、マリエッタは誰ともなしにそう呟いた。
神聖樹を過去の姿に戻して、失われた土地を奪い返す。それがマリエッタの目的だ。彼女がそれをなそうとするのは、アレクシアの土地不足による問題を解消するためであり、地下世界を管理するヴァルトエック家の次女であるゆえの責務によるものだ。
だがその神聖樹の調査も、すでに七日が経過して八日目に入っている。未だに手掛かりもないこの現状で、無駄な時間を過ごしている余裕などないはずだ。少なくとも、この地上世界を訪れたばかりのマリエッタならば、そう考えていただろう。
だというのに、マリエッタは大事な調査を中断して、メラニーと過ごす時間を優先した。それは七日前の自分では考えられないことだ。多少親しくなったとはいえ、一人の幼い少女とヴァルトエック家の責任を、天秤に掛けること自体が愚かと言える。
それにメラニーは――
(……私の目的を達成したと同時に、消えてしまうのですよね)
マリエッタの胸がチクリと痛む。この痛みは当然理解できる。魔法により生み出された幻とはいえ、幼い少女を犠牲とすることに、何も感じないはずもない。だがそれが、アレクシアで暮らす人々の幸福に匹敵するかと問われれば、首を縦に振ることなどできない。
だというのに――
(そう……私は悩んでいる。この地上世界を消してしまうことに……)
それを躊躇いながらも認める。
自身に起こった心境の変化。その原因とは何なのか。考えられる要因の一つは、やはりメラニーの存在だ。人見知りの気質があるメラニーだが、一度心を開いてさえくれれば、少女は人懐こい笑顔を見せてくれるようになる。この七日間を少女と共に過ごしたことで、自身の中にあるメラニーの存在が、大きくなり過ぎてしまったのだろう。
だがそれだけではない。マリエッタがヴァルトエック家としての責務を果たすことに、躊躇いを覚えてしまう理由として、根本的な原因がもう一つある。それは――
マリエッタは頭上を振り仰ぎ――
無限に広がる空を眺めた。
「……本当に……何度見ても綺麗……」
マリエッタはそうポツリと呟いて、照り付ける太陽に、金色の瞳を僅かに細めた。
三百年以上前。まだ人類が地下に移住するより昔。人類は空を飛ぶことをよく夢想していたらしい。マリエッタはそれを聞いた当初、その気持ちがまるで理解できなかった。上空に浮かび上がるなど、ただ危険が増すばかりで、メリットなどないと考えていたのだ。
しかし地上世界を訪れて、彼らのその気持ちがようやく理解できた。遮るものが何もなく、どこまでも広がりを見せる美しい空。この空を自由に飛び回ることができたのなら、確かにそれは気持ちの良いものだろう。閉塞された地下世界で暮らしている人類には、想像することすらかなわない開放感が、そこにはあるはずだ。
そしてそれを想像できるようになった時点で、マリエッタは以前の彼女ではなくなってしまったのだろう。誰しもが閉塞された地下世界に息苦しさを覚えている。だがその息苦しさの正体を本当に理解できている者など、これまで誰もいなかったのだ。
(……もしも……もしもこのまま、この広い地上世界で生きていけるのでしたら―――)
そう心内に呟いたところで――
空を見上げて歩いていたマリエッタに、正面から誰かがぶつかった。
「あ……申し訳ありま――」
慌てて視線を下して、謝罪を口にしようとしたマリエッタだが、そのぶつかった人物を見て、彼女は言葉を途中で止める。彼女の目の前には、黒いコートを着た男――
カイ・クノートが立っていたのだ。
どうしてカイがここにいるのか。それが分からず、ぽかんと目を丸くするマリエッタ。そんな彼女に、カイがポリポリと黒髪を掻きながら、怪訝に眉をひそめる。
「……よそ見して歩いたら危ねえだろ。まあそれは良いけど、何だってお前がここに?」
「なぜって……それはこちらの台詞です。どうして貴方がここにいるのですか?」
「どうしても何も……ここら辺は俺が見回ることになっていただろうが」
カイが当然のごとく口にしたその言葉に、マリエッタは「へ?」と、はしたなくも間の抜けた声を漏らした。金色の瞳を瞬かせる彼女に、カイが呆れたように嘆息する。
「お前……今朝の話を全然聞いてなかったろ。同じ場所を同じ人間が見回っていたら見落としがあるかも分からねえから、担当エリアを変えようって、そう決めたじゃねえか」
「そ……そうでしたか。それは申し訳ありません。ではあの……私の担当エリアは?」
躊躇いがちにそう尋ねるマリエッタに、カイが思案するように、視線を僅かに上げた。
「……ああっと……どうするかな……時間ももう中途半端だしな、とりあえず今日はもう施設に戻ったらどうだ? 明日から本格的に見て回るってことでよ」
「そ……そういうわけには参りません!」
カイからの提案に、マリエッタは一歩前に進み出て、そう声を上げた。彼女の反応が予想外なのか、「な……何がだよ?」と困惑を見せるカイ。その彼の胸に人差し指を押しつけながら、マリエッタはギロリと金色の瞳を鋭く細めた。
「私は今朝、貴方に約束したはずです。午前中の休息は、午後にきちんと取り返すと。ヴァルトエック家の人間として、一度口にした約束を反故するわけにはいきません」
「んなこと言ってたか? だがどっちにしろ時間もねえし、無理することねえんだぞ」
「カイ……貴方もしや私を世間知らずの女だと思い……侮ってはいませんか?」
「別に……そんなこと思ってねえよ」
マリエッタの剣幕に押されるように、カイが一歩後退する。だがマリエッタはすかさずその開いた距離を詰め寄り、金色の瞳の中でギラギラと眼光を瞬かせた。
「いいえ。そうに違いありません。そのような侮辱は許しませんよ。私のプライドに懸けましても、本日予定されていた担当エリアの調査は終わらせて見せます」
「んな変な意地を張ってやられるより、きちんと時間を掛けてやってもらったほうが、こっちも助かるんだよ。だから……おい、そう詰め寄ってくるんじゃ――っと!」
マリエッタに詰め寄られ、背中をのけぞらせていたカイが、一歩後退しようとしたところで、踵を石畳のでっぱりに引っ掛ける。カイの体が後方に傾き、あわや転倒するというところで、カイが左手を大きく振るい、咄嗟にバランスを立て直した。だが――
「――あっ」
カイの振るった左手が、偶然後方にいた少年の、その手にある紙コップを弾き飛ばした。紙コップが地面に跳ねて、中に入っていた透明な液体が周囲にぶちまけられる。
「ちょっと……何をしているのですか!?」
マリエッタはカイに苦言を述べると、すぐさま紙コップを弾かれた少年に駆け寄った。カイもまた「んなこと言ってもよ」と苦い顔をして、少年に振り返る。
突然の出来事に、驚きからかポカンと目を丸くしている小柄な少年。マリエッタは少年の背丈に合わせて僅かに腰を屈めると、眉尻を落として謝罪の言葉を口にする。
「申し訳ありません。どこか怪我をしてはいませんか?」
「わりい……落としちまった飲み物はちゃんと弁償するからよ」
「……あ……いえ……」
呆然としていた少年が、マリエッタとカイに向けてニコリと微笑む。
「……怪我はありませんよ。落とした飲み物もただの水なので弁償とかも大丈夫です」
「ただの水?」
カイが小さく首を傾げる。確かにただの水を持ち歩くなど珍しいかも知れないが、味の付いた飲み物を苦手とする者もいるため、そこまで疑問に思うことではないだろう。
「すみません。ボク先を急いでいるので……ほんとに気にしなくていいですから」
そうぺこりと頭を下げて、少年がそそくさと通りを小走りに駆けていく。走り去っていく少年のその背中をしばし眺めて、マリエッタはカイに「もうっ!」と唇を尖らせた。
「注意してください。もしもあの子を殴っていたらどうするんですか?」
「だから悪かったって。反射的にバランスを取ろうと左手を振っちまったんだ」
「まったく……あら? カイ。貴方、左手が濡れているのではありませんか?」
マリエッタのその指摘に、カイが自身の左手を見下ろす。彼の左手にはめられた白い手袋から、水滴がぽたぽたと垂れている。カイが小さく息を吐き、眉間に皺を寄せた。
「紙コップを殴りつけた時だな。くそ……コートの袖まで濡れちまってるじゃねえか」
「つくづく何をやっているのですか? 貴方も意外と間が抜けているのですね」
「いやだから……もとはといえばマリエッタ、お前が変に詰め寄ってくるからだろ?」
言い訳がましく反論してくるカイに、マリエッタはしばらく表情を渋らせて――
「……ふふ」
吹き出すようにして笑った。
突然笑い出したマリエッタに、カイが怪訝そうに眉根を寄せる。カイに困惑の視線を向けられながらも、マリエッタは唇を指先で押さえて、小さく肩を揺らし続けた。
ひとしきり笑い終えると、マリエッタは眉をひそめるカイに、ニコリと微笑み掛ける。
「すみません。焦っている貴方を見て、なんだか可笑しくなってしまって」
「んだよ、その理由は?」
「……あの……もしよろしければ」
マリエッタは微笑みを苦笑に変えて、カイにこう尋ねた。
「二人で少しお話ししませんか?」




