第三章 空のある世界9/11
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マリエッタ・ヴァルトエック。彼女はこれまで子供よりも、大人と接する機会のほうが遥かに多かった。ヴァルトエック家の人間として生まれた彼女は、平民が通うような学校には行かず、一流の講師を招いてマンツーマンでの教育を受けていたためだ。
だが子供が苦手というわけではない。父親に連れられた会食には、彼女と同様に両親に連れられた子供を、目にすることもある。その中には当然、自身より年下の子供もいた。
会食中であろうと、父親は仕事の話を構わずにした。無論のこと、将来ヴァルトエック家を担う者の一人として、マリエッタも基本的にはその話に耳を傾けている。だが父親と話をしている相手の子供が退屈している姿を見て、遊び相手になってやることもあった。
自分の中では、それなりに手応えがあった。こちらの軽い冗談に笑い、また軽い冗談を返してくる子供に、マリエッタは自身が子供の扱いに長けているのだと、自負していた。
しかしそのマリエッタの自信は――
粉々に打ち砕かれた。
「ちょっとおおおおおお! 何をしているのですか、貴方はああああああああ!」
マリエッタは絶叫すると、店先でポテトチップスを頬張っているティムに、全速力で駆け寄った。声を荒げたマリエッタに、ティムがポテトチップスを咥えつつ平然と言う。
「愚問だな。疲労したがゆえ塩味を補給しているのだ。浸透圧効果で喉がカラカラだ」
「それは分かりませんが――とにかく、そのお金は一体誰が払うのですか!?」
「あざーす」
「やはり私ですか!? 何を勝手なことを……って、何やら服のポケットに大量のお菓子が……しかも返品をさせないためなのか、全部包装紙を破いているという用意周到さ!」
「既成事実とはこうして作られるのだ」
「威張らないでください! ああもう、他の商品に手を伸ばさない! 仕方ないのでこれは私がお支払いしますが、今後一切はこのような真似は止してくださいね!」
「善処しよう」
ティムの物言いにカチンとしながらも、マリエッタは店主にお金を支払う。子供の菓子程度の金額など彼女にとって何でもないが、それでも腸は煮えくり返る思いだった。
「さすがヴァル……何たら家だ。気前が良いことだな。それとも俺に恋をしたか?」
「それだけはあり得ません。まったく……貴方がたはヴァルトエック家に対する敬意が足りないのです。そもそも買い物するにもお金を渡していないというのが――」
「あああああ! 駄目なんだよミィ!」
マリエッタの声を遮り、リリーの甲高い声が聞こえてきた。素早く背後を振り返り、声の出所に視線を向けるマリエッタ。彼女の視線の先には、慌てたようにパタパタとその場で足踏みをするリリーと、少女の胸に抱かれている翼の生えた子猫、そして――
赤い炎に焼かれる店があった。
「ま……まさか……なんてことを――!」
蒼白になりながらも、リリーのもとに駆け寄るマリエッタ。リリーのすぐ横に立ち止まり、少女の目の前にある店に視線を向ける。どうやらそこは雑貨店のようだが、店内に並べられた棚の一つに赤い炎が張り付き、その姿をメラメラと大きく膨らませていた。
店の奥から店主らしき男が現れて、手にしていたバケツの水を、炎に掛ける。幸いにもまだ本格的に燃え広がる前だったため、炎はそれであっさりと消し止められた。
だがしかし、棚に陳列されていた商品の多くが、炎と水で無残な有様となる。
ちょっとした頭痛を覚えつつ、マリエッタは恐る恐るリリーに尋ねた。
「……リリーさん。何があったのか説明してくれませんか?」
「えっと……ミィがまたくしゃみをして……そしたら火が出て……店が燃えたんだよ」
悲しいほど予想通りの答えに、マリエッタは頭の痛みがさらに増すのを感じた。しばし呆然としていた店主が、その表情を憤怒に染め上げて、こちらへと大股で近づいてきた。
「――てめえ! このガキが――」
「お支払いします! 駄目になった商品と建物の修繕費の全額を――いいえ、倍の値をお支払いします! ですからどうか、お怒りを鎮めてください! お願いします!」
店主が何かを言う前に、マリエッタはそう捲し立てた。なぜヴァルトエック家の自分が、平民であるこの男に頭を下げなければならないのか。そう思うも、全面的にこちらに非があるため仕方がない。彼女の必死の謝罪に、店主も渋々と怒りを収めた。
雑貨数十点と建物の修理費。それを店主に渡し、溜息を吐くマリエッタ。この程度の金額ならば、彼女に取ってはまだ許容範囲ではある。しかしそれでも、言わねばならない。
「……リリーさん。ペットを飼うならばもう少し責任感を持ってもらいたいものですね」
「……ごめんだよ。マリエッタお姉ちゃん」
しょぼんとしたリリーに、マリエッタも少々バツが悪くなり、小さく溜息を吐く。
「……分かって頂けたのでしたら、それで構いません。それにしても、ただの買い物でこうも苦労させられるとは……手が掛からないのはササ君だけ――」
するとここで突如、背後から突風が吹いた。地面に倒れそうになる体を堪えて、慌てて背後を振り返る。彼女の視線の先には、|空中に足を浮かせているササ《・・・・・・・・・・・・・》と――
彼の背負うリュックサックから突き出す、巨大なプロペラがあった。
回転するプロペラの浮力で宙に浮いているササに、マリエッタは冷めた口調で尋ねる。
「……あの……ササ君? 貴方は一体何をしているのでしょうか?」
「すみません。機械の調子が悪いようで意図せずに……すぐ止めますのでお待ちください」
ササがそう平然と答える。プロペラの回転により吹き荒れる強風に、周囲にある店の商品が次々と飛ばされていく。その光景を呆然と視界に映しながら――
マリエッタは自身の財布にあるお金の残額を、頭の中で数えていた。




