第二章 神聖樹11/11
「ルーラ!」
詳細を語ることもなく、カイは彼女の名前だけを呼んで、踵を返して駆け出した。一瞬動揺を見せたルーラだが、すぐにカイの意図を察したのか、彼女もまた踵を返す。
カイはマリエッタに駆け寄ると、困惑している彼女の腕を掴んで、そのまま彼女を連れて、彼女の赤い車へと走った。カイのこの行動に、カルロスが慌てて声を上げる。
「くそ――逃がすと思うか! 追い掛けろ! マリエッタを連れて行かせるな!」
液状のブリードが駆け出す。やはりマリエッタの捕獲を優先しているようで、少し離れた位置を走るルーラを無視して、マリエッタを連れたカイへと、ブリードが迫りきた。
カイとルーラは互いに視線を交わすと、マリエッタの赤い車を挟み込むようにして側面に回り込み、そこで足を止めた。こちらの意図が分からないのか、カイに腕を掴まれたマリエッタが疑問符を浮かべている。カイは彼女のその無言の問いには答えずに――
開きっぱなしとなっていた赤い車の後部座席に、マリエッタを放り投げた。
「きゃああああ! 何をなさるのですか!?」
悲鳴を上げるマリエッタ。だが彼女の非難など一切気にせずに、カイは彼女の尻を無遠慮に蹴りつけ、彼女を車に強引に押し込んだ。接近してきたブリードが、マリエッタを捕らえようと、カイを無視して車の中を覗き込む。だがその時――
「のぎゃああああ! 痛い痛い痛い!」
カイとは逆側の扉から、ルーラがマリエッタを車から引きずり降ろそうとする。ルーラに首を引っ張られ――ルーラも焦っているのだろう――、悲痛な声を上げるマリエッタ。何にせよ車から降ろされた彼女が、べちんと地面に体を叩きつけられたところで――
カイは左手を赤い車に触れさせた。
瞬間――赤い車から眩い光が放たれる。
車から放たれたその光は、一秒も経たずに消失した。視界を瞬間的に白く塗りつぶした光に、僅かながら眩暈を覚えるカイ。掠れた視界が徐々に鮮明となり、彼の視界に――
街灯に衝突する前の、外装に傷ひとつない赤い車が現れる。
マリエッタの赤い車を、事故に遭う直前の過去にまで引き戻したのだ。カイは息を吐くと、車に触れさせていた左手を下した。そして閉じられた窓から車内を覗き込む。
車内には、マリエッタを追い掛けて車に乗り込んだ、ブリードが閉じ込められていた。
「なん……だと?」
呆然と目を丸くするカルロスに、カイは肩をすくめて軽い口調で言う。
「車の窓を開けられる程度の知能は、つけておくべきだったな。まあこのブリードの馬鹿力を考えると、閉じ込めておけるにしても、せいぜい十分やそこらだろうけどよ」
その言葉に対して、カルロスからは何の反応も返されない。だが特に返事を期待していたわけでもないので、カイは軽く肩をすくめて、のんびりと車を回り込んでいく。
カイの作戦は何も複雑ではない。マリエッタを囮にして、ブリードを車の中に閉じ込めただけだ。ただし車は事故で大破しており、扉をまともに閉じることができない状態であった。そのためカイは、ブリードが車に乗り込むと同時に魔法を使用して、扉がまともに機能する状態にまで、車を過去に引き戻したのだ。
地面に膝をついて息を荒げていたマリエッタが、近づいてきたカイを鋭く睨みつける。
「貴方がたは……私への扱いが酷いのではないですか? 首が取れるかと思いましたよ」
「文句は後で受け付けてやる。とりあえずブリードを車に閉じ込めている間に、ここから逃げるぞ。あとは……お前らも付いてこい。ルーラがしこたま怒ってくれるってよ」
「……うげ!」
トランクから出てきたティムが、苦い顔をして声を詰まらせた。その少年の背後で、リリーとササが何やらこそこそと話をしている。恐らくティムに責任をなすりつけるために、口裏を合わせているのだろう。したたかなその二人に、カイは苦笑を浮かべる。
「これからどうするつもりだ、カイ? 子供たちもいることだ。やはり家に帰るか?」
悩ましげに眉をひそめて、ルーラがそう尋ねてきた。彼女の疑問にはすぐに答えず、眉間に皺を寄せるカイ。思案するようにして腕を組むも――
その実、カイの心内はすでに決まっている。
「そうしたいところだが……あまり時間を掛けちまうと、カルロスの連中も体制を整えてくるだろうしな。気は乗らねえけど、俺はこのまま向かっちまおうと思ってる」
「……向かう? カルロスが体制を整えるとは……どういう意味だ?」
疑問符を口にしながらも、ルーラの表情には言いようのない不安が滲んでいた。すでにこちらの答えを察しているのだろう。不安定に震えるルーラの黒い瞳。その彼女の瞳を見つめながら、カイは彼女が想像しているだろう言葉を、彼女に告げる。
「俺は神聖樹のところに行くつもりだ」
カイのこの答えに、「え?」と驚きの声を上げたのはマリエッタであった。疑問を口にしたルーラは、彼の答えを聞いても何も応えず、口を閉ざして沈黙している。
しばらく経ち、ルーラが黒い瞳を悲しげに俯かせて、唇をゆっくりと開いた。
「止めても……無駄か?」
蚊の鳴くようなルーラの声に、カイは「悪いな」と苦笑して頷いた。
「神聖樹を過去の姿に戻す。この六年間、俺も考えなかったわけじゃねえんだ。だが神聖樹は警備兵に封鎖されて近づけねえし、何よりも日々の生活に手一杯だったからな」
「それでも……今までやってこられたんだ。何も今更そんな危険を冒さなくても……」
力なく頭を振るルーラに、カイは「そうもいかねえよ」と頭をポリポリと掻く。
「こんな泥棒家業が、いつまでも続けられるとは思えない。特に最近は派手に動きすぎたからな。変に顔と名前が知られちまったし、カルロスのような奴が本腰入れれば、簡単に潰されるさ。何より子供たちの将来を考えれば――やっぱ土地は必要だ」
「それは……私だって理解している。しかしだからと言って――」
「二年前に――」
思わずその言葉が口を突いた。咄嗟に声を呑み込んだルーラに、カイは続ける。
「人から金を盗んで日銭を稼ぐと……俺がそう話した時に、お前は今回のように俺の身を案じて、必死に止めてくれたな。だがそれで……俺は考えを改めたか?」
ルーラが俯けていた黒い瞳を大きく見開いた。逡巡するように左右に揺れるルーラの黒い瞳。彼女がその瞳を一度瞼の奥に隠して――
再びゆっくりと瞼から覗かせた。
「二年前と……同じか?」
「そういうことだ」
「……だったら」
俯けていた黒い瞳を持ち上げて――
「私が出す答えも……二年前と同じだ」
ルーラが力なく微笑んだ。




