第二章 神聖樹10/11
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「……あの……クソ馬鹿どもが……」
強制停止させられた車の後部座席で、カイは表情を強張らせて毒づいた。軽く車内を確認すると、同じく後部座席にいたルーラも、運転席のマリエッタも、表情を蒼白にしてはいるものの、大きな怪我はないらしい。フロントに激突した街灯の位置が、席の設けられていない車の中心であったことが、幸いしたのだろう。
ハンドルを握り絞めたマリエッタが、口を戦慄かせて呆けたように呟く。
「わわ……私のマリリン号が……」
「お前……持ち物に名前をつけるクチか?」
カイの呟きに、マリエッタが正気を取り戻したのか、頬を赤くして咳払いをした。するとここで、ひどく慌てた様子のルーラが後部座席を飛び出し、トランクに回り込んだ。
「ティム! リリー! ササ! 大丈夫か! 怪我はしてないだろうな!」
ルーラのひどく震えた声に、すぐさまトランクの中から返事が返される。
「む……うむ。どうやら大事ないようだ」
「……同じく」
「あたしもゴギガンドベルグムツも平気だよ」
「――ミャアア」
その三人と一匹の声に、ルーラの蒼白の表情に赤みが戻っていく。強張らせていた表情を徐々に弛緩させていき、口元に笑みをこぼれさせるルーラ。だがすぐに彼女は、何かを自制するように笑みを打ち消して、代わりにその表情を怒りの色に染め上げた。
「お前たちは……どれだけ心配を掛ければ気が済むんだ! 今度ばかりは許さんぞ!」
「いやしかし……しっかりと活躍を――」
「黙れ! 何度も何度も私は――」
喚き立てるルーラと子供たちに嘆息するカイ。後部座席の扉――フレームが歪んでまともに閉まらない――から外に出ると、声を荒げるルーラに近づき、その頭を軽く叩いた。
「落ち着け、ルーラ。説教は後だ」
「また……カイ! 子供を甘やかすなと――」
「そうじゃねえ。見てみろよ。どうやらまだ、連中を振り切れてはいないらしいぞ」
瞳を鋭くさせるカイに、ルーラも表情を引き締めて、カイの視線の先を見据えた。
カイとルーラの視線の先に、一台の黒塗りの車と、その車に並んで立つ灰色髪の男――カルロス・ボイスの姿がある。そしてさらに、そのカルロスのすぐ横には――
水色の粘液を押し固めたような人型の物体が、輪郭を揺らめかせて立っていた。
「なんだあの化物は……? まさかあの液状の化物もブリードなのか?」
「多分な……こうも立て続けに貴重なブリードをお目にかかれるとは……涙が出そうだ」
皮肉に笑いつつ意識を集中させていく。
黒塗りの車。そのトランクが開いていることから、恐らくそこに液状のブリードを収納していたのだろう。高い戦闘力を誇るブリードは、警備兵の武器として試験的に運用が進められている。その試験体の一つを、カルロスが持ち出してきたのかも知れない。
(あんなものまで用意してたってことは、やっぱ話し合いなんざ通用しねえだろうな)
そのカイの心中を裏付けるように、カルロスが手を横なぎに振るい、声を上げる。
「連中を拘束しろ!」
カルロスの指示を受けて、液状のブリードがこちらに迫りくる。カイとルーラは一瞬だけ視線を合わせると、近づいてくるブリードに向けて、ほぼ二人同時に駆け出した。
液状のブリードの動きは決して速くない。カイはルーラより僅かに先行すると、左腕に意識を集中していく。ブリードとの距離が詰まり、粘液の右腕を突き出すブリード。カイはその腕を掻い潜ると、左手をブリードに触れさせて、集中した意識を解放する。
対象を過去へと引き戻す魔法。カイに根付いた異形の能力。それを行使して、ベリエスの時と同様に、無力な子供にまで敵の成長を逆行させる。そのつもりだったが――
「――ッ……こいつは!?」
咄嗟に魔法の使用を思い留まる。すると伸ばしていたカイの左腕が、ブリードの両手に掴まれた。舌打ちをしてブリードの手を振り払おうとする。しかしその直後、グニャリと輪郭を崩したブリードの両腕が、まとわりつくようにしてカイの左腕を包み込んだ。
「――くそ! 何だよコレは!」
生温かい液状の物体に左腕を包まれて、背筋に悪寒が走る。カイは鳥肌を立てながらも、ブリードの拘束から脱しようと、左腕を全力で引いた。だがどれだけ力を込めようとも、左腕にまとわりついたブリードの粘液から、左腕を引き抜くことはできなかった。
焦燥を浮かべるカイに、嘲りの視線を向けたカルロスが、淡々と語り掛けてくる。
「それは対象を拘束するのに特化したブリードだ。一度掴まれれば人の力で振りほどくことは不可能。そのまま動きを封じることもできるが、圧力を強めれば――」
カルロスの言葉が終わる前に、ブリードに掴まれた左腕に、多大な圧力が掛けられる。ミシリと音を立てる自身の左腕に、カイが苦悶の表情を浮かべた、その時――
ルーラの振り下ろした刀が、カイの左腕を包み込んでいた粘液を切断した。
ブリードの拘束を逃れて、素早く後退するカイ。左腕に付着している粘液を右手で引き剥がす彼に、抜刀したルーラがすぐさま駆け寄り、眉をひそめて言う。
「カイ……大丈夫か?」
「無事は無事だが……お前の振り下ろした刀が指先を掠めたぞ」
そう呟いて苦笑する。ルーラがクスリと笑い、だがすぐに表情をキッと引き締めた。
「魔法はどうした? なぜ使用しない」
「使おうとはしたがね……どうにもあのブリードは、生まれたばかりらしい。要はあいつに無力な子供時代なんてないわけで、過去に引き戻しても意味がないってことだ」
「……つまり物理的に倒すしかないということか。しかし――」
ブリードを見据えるルーラ。彼女の刀に切断されたブリードの両腕が、何事もなかったかのように再生された。感情のない瞳をこちらに向けるブリードに、カイは嘆息する。
「どうも、物理攻撃も期待できそうにねえな」
「そのようだな。どうする、カイ?」
ルーラに尋ねられて思案する。
どうやらこのブリードは、その体が液状であるためか、たいして素早くはないらしい。知能も低いようで、逃げ出そうと思えば難しくはなさそうであった。ただし――
(リリーの足だと……少し際どいか。車はぶっ壊しちまったしな)
そう思い悩んでいると、背後から「カルロス!」と声が聞こえてきた。ブリードに注意を払いながら背後を見やる。そこには、肩を怒らせたマリエッタが立っていた。
「どうして分かってくれないのです! 私はアレクシアを救おうとしているのですよ!」
「それをすべきは君ではない。君はヴァルトエック家として自分の価値を知るべきだ」
苦々しく歯を食いしばるマリエッタ。彼女としては、その価値を理解しているからこその行動なのだろう。それを否定されたようで、悔しいのかも知れない。
だがそれはそれとして――顔をしかめるマリエッタを見て、カイはあることを閃いた。




