第二章 神聖樹2/11
======================
第五層主要都市アレクシア。その五つに分かれた区画の内、中流階級以下の住宅が軒を連ねる南区。アレクシア人口のおおよそ五割が暮らしているというその南区の、北側に位置するとある一画。そこに、五年前に廃業した飲食店の建物が存在していた。
その飲食店の建物は、見るからに廃墟然としていた。外観には無数の細かいヒビが刻まれており、至るところに飲食店ならではの黒い油の染みが浮かんでいる。さらにその建物は路地の奥まった場所にあるため、街灯も少なく周囲には薄い闇が常に湛えられていた。
そんな誰もが近づくことを避けるだろう、暗澹とした雰囲気を漂わせる建物から――
快活な子供の声が鳴り響く。
「クッキー美味しいね。何枚でも食べられちゃうよ」
「ほらほら動物さんの形だよ。可愛いよね。これはキリン? それとも異星人?」
「あああああ! おい、リリー! 一度に二個同時に掴むのは国際法により禁止されている非道な行為だぞ! 今すぐに過剰取得した物品を俺に譲渡することを要求する!」
「ダメだよ、ティム! これは戦争なんだよ! 戦争に汚いも綺麗もないんだよ! 敗者に口なし! 歴史とは勝者の都合により改竄された空想に過ぎないんだよ!」
「……ふむ、納得した。って、うぉいササ! 何を黙々とカボチャ頭に物品を次々と詰め込んでいるんだ! 頭の中に溜めこんで、後でゆっくりと食する算段と見たぞ!」
「……ふぁうもふ」
「ちゃんと食べてたか。すまん。あとラルク。食物を鼻から摂取するのは非効率だぞ」
「鼻が……鼻が痛い! まるで鼻の中にクッキーが侵入したかのような痛みだ!」
「事実そうだ」
テーブルとは名ばかりの、床に置かれた木の板に山盛りにされたクッキー。それを大勢の子供たちが、空腹に飢えた野犬のごとく、我先にとがっついている。各々たわいのない会話を交わしている子供たちだが、特に奇抜な衣装を着た三人、ドラキュラ伯爵のティムと獣娘のリリー、カボチャ頭のササの声は、一際目立って聞こえていた。
そんな彼らを遠目に眺めて、金髪の女性が嘲るような笑みを浮かべる。
「たかだか菓子程度で、何と浅ましい姿でしょうか……品性を疑いますわね」
そう女性が呟いた直後、ポテンと女性の頭にゴムボールが撥ねる。
カイ・クノートは黒髪をポリポリと掻きながら、ピンと背筋を伸ばして腕を組んでいるその金髪の女性を、横目に一瞥した。先程から周囲をもの珍しそうに眺めている彼女だが、何かに触れようとする素振りはない。この建物に入る時、扉に触れることさえ頑なに拒絶していたことから、恐らくこの建物の清潔性に疑いを抱いているのだろう。
(まあ廃墟を勝手に使ってるだけだしな、綺麗かと言われればそうじゃねえけど)
だが本来、客人ならばそのような素振りは隠すものだ。少なくとも、半月に一度ていどしか出されないお菓子に、笑顔を浮かべて歓喜する子供たちを眺めて、浅ましいなどと暴言を吐くことは避けるはずだろう。
「ねえ金色のお姉ちゃん。誰なの? 暇だったらさ、あたしとお人形さん遊びしない?」
しかし、三つ編みの女の子にスカートの裾を引っ張られているこの女性を、そのような一般的な基準に当てはめることは、誤りなのかも知れない。
なぜならこの女性は、地下世界を支配するヴァルトエック家の次女――
マリエッタ・ヴァルトエックなのだから。
「ああ……鼻水が止まらない……でもティッシュ切らしてるし……あ、ちょうどいい」
ヴァルトエック家は、地下世界の土地の大半を保有しており、さらに生活の基盤となる行政をも主体となり運営している。ゆえに平民に過ぎないカイからすれば、ヴァルトエック家は別次元の存在であり、スカートでハナタレ小僧に鼻をチーンとかまれているマリエッタ・ヴァルトエックが、浮世離れしていても可笑しくないといえる。
「お姉ちゃん。あたしのサインあげるね。かわいいクマちゃんも描いてあげる」
だがこの飲食店の廃墟で、なぜ地下世界を支配するヴァルトエック家の次女であるマリエッタが、お団子頭の女の子の落書きをケツに受けているのかといえば――
実のところカイもよく分かっていない。
怪盗ハロウィンズの仕事。ベリエス・ガイサー邸から金細工の像を盗み出すこと。その目的を達成し、多少想定外の事態がありながらも、ベリエスの屋敷から逃走しようとしたところで、一等警備兵を連れてマリエッタ・ヴァルトエックが姿を現した。
怪盗ハロウィンズを拘束する。
ヴァルトエック家の登場に困惑するこちらに向けて、マリエッタはそう告げた。なぜヴァルトエック家の者が、小物に過ぎない怪盗を捕らえに姿を現したのか。まるで想像することができなかった。だが何にせよ、警備兵に捕らえられるということは――
犯罪者として処分を受けるということだ。
(そのはずなんだがな……)
結果的にカイはこうして自宅に戻り、菓子を取り合う子供たちを呑気に眺めている。なぜそれが可能であったかといえば、マリエッタの鶴の一言によるものであった。
(落ち着ける場所でお話をしましょう。警備兵の皆さんはお帰りになって結構ですよ)
訳が分からない。それはカイだけでなく、マリエッタに連れられた警備兵も、同様であったらしい。だが困惑する警備兵を半ば強引に突き放して――
こうしてカイの自宅に、マリエッタが上がり込んでいる状況となっている。
顔面にゴムボールを当てられたマリエッタが、鼻をさすりながらこちらを見やる。
「不可解な顔をされていますね。打ち首にでもされると考えていましたか?」
「……少なくとも、ヴァルトエックの人間を自宅に招くとは想像してなかったな」
「ねえねえ、ちゃんとしてよ! お姉ちゃんが鬼なんだから、追わないとダメだよ!」
「貴方のような平民の家に、私が足を運んだこと、きちんと感謝してくださいね」
厚みのある薄紅色の唇を指先でなぞりながら、ポニーテールの女の子に背後から金髪をグイグイと引かれているマリエッタが、柔らかい微笑みを浮かべた。
またも頭部にゴムボールを跳ねさせるマリエッタを見据えつつ、カイは肩をすくめる。
「さっさとお暇してくれれば、きちんと感謝してやれるんだがな」
「随分な物言いですね。本来は貴方など、私に口を利くことすら許されないのですよ」
「でぃりゃああああ! せいせい!」
「だったらなおのこと早く帰れよ」
「もちろん、私もこのようなカビ臭いところに、長居するつもりはありま――ふぇんよ」
短髪の男の子に棒切れで鳩尾を叩かれているマリエッタが、そう昂然と話す。彼女の声が最後くぐもったのは、おさげの女の子が彼女の口の中に手を突っ込んだからだ。
坊主頭の男の子にバケツの水を掛けられながら、マリエッタが金色の瞳を細める。
「何より犯罪者と同じ空気を吸うなど――イタッ……苦痛そのもの。貴方のような――」
四方から投げられたゴムボールを頭に受けながら、マリエッタが金色の瞳に軽蔑の色を浮かべて、犯罪者に対する非難の言葉を淡々と口にする。もっとも彼女の言葉の大半は、彼女の耳元で拡声器越しに響いた子供たちの絶叫に、掻き消されていたが。
「――がでしょうね。ふふ。少し言いすぎましたか? ですが残念ながら、これが貴方がた犯罪者に対する世間の認識です。ゆめゆめお忘れのないようにしてくださいね」
「……ん? あ……ああ。覚えておく」
「結構。ではそろそろ、ほんだ――げほっ! 本題に入ら――がっ! 本題に――ぎびへええええええええ! ほ……本題に――ギブギブギブギブ! 本題に――」
腹部に蹴りをぶち込まれたり、角材で後頭部を打たれたり、銅線が剥き出しの電源コードを接触させられたり、ヘッドロックを仕掛けられたり、足の脛を集中的にトンカチで打たれたり、シンプルに頬を叩かれたりしたマリエッタが、妖艶に微笑み――
「――って、いい加減にしなさいよおおおおおおおおおおおおおお!」
突然に両腕を振り上げて絶叫した。




