第一章 怪盗ハロウィンズ9/9
カイのその言葉に、ルーラが黒い瞳を一度大きく見開いて、だがすぐに瞳の大きさを戻して頷いた。そしてカイの指示に従い、子供を連れてこちらから距離を空ける。
ルーラと子供が十分に離れたことを確認すると、カイは頭上の獅子を見据えて、左腕を胸の高さまで持ち上げた。戦う姿勢を示したカイに、ベリエスが嘲笑を投げる。
「シュレディンガーちゃんと戦うつもり!? 人間が猛獣に敵うわけがないでしょ!」
「……テメエにひとつ良いことを教えてやるよ。魔術師ってのはな――」
左手を強く握りしめて意識を集中する。
「魔法が使えるんだぜ?」
直後――頭上の獅子が巨大な炎を吐いた。
素早く後方に跳ねて炎の脅威から逃れる。カイが地面に着地したと同時、頭上にいた獅子が高速に降下してきた。肉厚の鋭い爪と牙を剥いて迫りくる獅子。脆い人間など一瞬にしてズタズタに引き裂いてしまうだろうその凶器を見据えながら――
カイは獅子に向けて左手を突き出した。
瞬間――獅子の全身から眩い光が放たれる。
「――ちょっ……何よこの光は!?」
周囲を白く塗り替える光の中で、ベリエスの困惑した声が聞こえてきた。地下世界では滅多に見ることがないだろう、眼球を焼くほどの強い光。それは瞼を半分閉じているカイでさえ、頭痛を覚えてくるほどの強烈なものであった。
五秒ほどの時間が経過して、獅子から放たれていた光が突如消失する。誰もが瞼をきつく閉じて、周囲の明るさに眼が慣れるのを沈黙して待った。そしてさらに五秒が経ち、警備兵やスーツ連中、そしてベリエスがゆっくりと瞼を開いて、その視線を巡らせた。
そして彼らが一様に目を見開く。
「……これは……どういうこと?」
ベリエスの呆然とした呟き。だがその彼の問いに応えは返されない。彼だけでなく、警備兵やスーツ連中を含めて、同様の疑問を脳裏に浮かべていたからだろう。
ブリード。複数種の配合により生み出された新種。翼の生えた獰猛な獅子。その姿が忽然と消えていた。否。その表現は正確ではない。正確には獰猛な獅子が――
翼の生えた可愛らしい子猫に変化していた。
目を丸くする警備兵やスーツ連中、そしてベリエス。背中の翼をパタパタと羽ばたかせて宙に停滞した子猫が、しばらくしてから地面にゆっくりと着地した。地面に着いてすぐ毛づくろいを始める子猫。その様子を見やり、カイはかざしていた左手を静かに下す。
「わあ! この子ってば可愛いんだよ!」
毛づくろいをする子猫を見て、リリーが頬を紅潮させて駆け寄ってくる。子猫を慎重に抱きかかえる少女を一瞥した後、カイはこちらに近づいてくるルーラに視線を移した。
「連中が呆然としているうちにさっさと逃げようぜ。今ならそう難しくねえだろ」
「……そうだな。この隙なら――」
微笑みを浮かべたルーラが、カイの提案にこくりと頷いた、その時――
一発の銃声が鳴り響いた。
浮かべていた笑みを打ち消して、銃声の鳴った門前に視線を向けるカイとルーラ。陣形が崩されている警備兵の、その人垣の奥に見える門前に――
拳銃を構える五人の警備兵の姿があった。
「なっ――馬鹿な! 拳銃だと!?」
ルーラが目を見開き狼狽の声を上げる。
ルーラが驚くのも無理はない。拳銃の所持は警備兵だろうと基本的に許可されない。例外的に拳銃の所持が許されているのは、警備兵でもごく一部――一等警備兵だけだ。
だが一等警備兵の主任務は、要人警護である。地下世界において最重要となる任務に就く彼らが、通報を受けたからと捕り物騒ぎに駆けつけるなどあり得ない。
しかし拳銃を所持している以上、彼らが一等警備兵であることは疑いない。そして彼らの視線が、一様にこちらに注がれていることからも、彼らの目的が自分たちにあることも明らかだ。その事実に困惑しながらも、カイは必死に状況の分析に努める。
(連中の目的が何か知らねえが……拳銃が相手となると……さすがに分が悪い)
自分とルーラだけならば、或いは捌くことは可能かも知れない。だが子供たちを連れてとなると難しい。どうやら先程の銃声はただの威嚇であり、こちらを狙ったものではないようだが、彼らの目的が分からない以上、下手な手を打つわけにはいかない。
ルーラも同じ考えなのだろう。表情に困惑を浮かべながらも、下手な抵抗をするつもりはないようだ。ぞろぞろと門から庭園に入ってくる一等警備兵。彼らの登場に、三等警備兵やスーツ連中、そしてベリエスもまた、動揺から目を瞬かせていた。
そして――ここで女性の声が鳴る。
「なかなか見応えのある催しでしたよ」
その声が聞こえたとほぼ同時、門の前に一人の女性が姿を現した。
それは若い女性だった。年齢は十代後半。腰まで伸ばした艶やかな金色の髪に、陶器のように滑らかな白い肌。やや目尻の垂れた金色の瞳に、ぷくりと膨らんだ薄紅色の唇。服装はよく目にする女性的なワンピースなのだが、その服の生地やさりげなく身に着けている装飾品が高価な物であることは、一見して知れた。
門から庭園に、ゆっくりと歩を進めてくる女性。拳銃を油断なく構えている一等警備兵を悠然と横切り、こちらから五メートルほど離れた距離で、彼女がぴたりと立ち止まる。
女性の登場に困惑をさらに深めるカイ。それは女性の正体が分からないから、ではない。女性の正体を知っていたからこそ、彼は女性の登場にひどく困惑していた。
そんなカイの困惑など気付く様子もなく、ティムがきょとんと目を瞬かせる。
「む? 誰かと思えば……今回の仕事の依頼主ではないか?」
「本当だね。あれ? 待ちきれなくて、ここまで来ちゃったのかな?」
ティムに続いて、子猫を胸に抱きかかえたリリーが、不可思議そうに首を捻る。ティムとリリーのこの言葉に、カイは改めて金髪の女性を見やり、心内で確認する。
確かにこの金髪の女性は、ベリエス・ガイサーに騙され奪われた金細工の像を、取り返して欲しいと依頼をしてきた女性だ。しかし依頼をしてきた時の女性の姿は、今のような高価な衣服ではなく、もっと一般人が着るような安物であったはずだ。
(あの恰好は俺たちを欺くための……変装だったってことか?)
だとするならば、依頼時に聞いていた身元も偽りのものだろう。果たしてこの金髪の女性は何者なのか。その疑問の答えは意外なところから判明した。カイやルーラと同様に、女性を呆然と見つめていたベリエスが、声を震わせてこう言った。
「貴方は……マリエッタ・ヴァルトエック様? どうしてこのような場所に……」
「――ヴァルトエックだと!?」
思わず驚愕から声を上げるカイ。ベリエスが掠れた声で呟いた名前。ヴァルトエック。それは地下世界において、知らない者など誰一人としていないだろう名前であった。
ヴァルトエック。それは事実上――
地下世界を支配している者の名前だ。
ヴァルトエックの名前に表情を強張らせるカイに、金髪の女性が柔らかく微笑んだ。
「怪盗ハロウィンズさん? 申し訳ありませんが貴方たちを――拘束させてもらいます」




