プロローグ
世界は閉塞されている。
それは少年のみならず、全人類の共通認識だろう。世界は閉塞されており、圧迫されており、沈殿している。ゆえにその世界で生きる人間もまた、閉塞されており、圧迫されており、沈殿している。そのような世界に、誰もが息苦しさを覚えていたはずだ。
これは何も精神的な意味だけではない。物理的にも確かに、人類が住む世界は閉ざされていた。四方は岩石に囲まれており、頭上には無機質な岩肌の天井が蓋をしている。
人類の世界は――地下にある。
少年が生まれてより、これまで生活をしてきたこのアレクシアは、人口数万人ともなる比較的大きな街だ。当然ながらそれだけの人口を抱える街の面積も巨大であり、その街を内包する地下空間もまた、さらに巨大なものとなる。彼も正確には分からないが、ドーム状のこの地下空間は、直径で十キロ、天井までは百メートル以上はあるだろう。
その広大な地下空間で十二年間、少年は暮らしてきた。それだけに、少年はこの地下世界に多少の息苦しさを覚えつつも、不満などを覚えたことはなかった。四方を岩石に囲まれているとはいえ、少年の行動範囲においてそれが障害となることなどないのだから。
だがしかし今――
少年はその閉塞された地下世界に――
初めて恐怖を覚えていた。
(くそ……くそ――!)
少年は心内で毒づきながら、街の通りを駆けていた。オレンジ色の街灯に照らされた街並み。少年にとって見慣れたはずのその景色が、底のない闇を覗かせる不気味な怪物に変貌していた。少年は竦みそうになる足を堪えて、さらに駆ける足を速めていく。
(くそ……こんな――こんなことって……)
少年は駆ける速度を緩めずに、自身の右手に視線を落とす。少年の右手には、小さな手が握られていた。少年は自身の右手から、その小さな手の主へと視線を移動させる。
小さな手の主は少女であった。
少年に手を引かれて走る少女。その表情はひどく強張っており、顔色は血の気が失せて蒼白であった。少女がどのような感情にあるのか。それは聞かずとも容易に知れた。
直後、少女のさらに背後から破壊音が鳴り響く。振動する地面に足を取られないよう苦心しながら、少年は少女の背後へと視線を移した。
そこには街を蹂躙する森の姿があった。
(街が……森に食べられている)
全力で通りを走りながら、少年は背後から迫りくる森に背筋を凍らせた。
街の通りに立ち並ぶ建物と舗装された石畳。それら強固な人工物を、紙屑のように破壊しながら、少年の腰回りよりも太い幹が地面から次々と生えてくる。
水面に波紋が広がるように、街を押し退けて領域を拡大していく不気味な森。その浸食速度は決して速いわけではないが、恐怖から空回りする足で振り切ることは、容易ではなかった。少年は膨張していく森に呑み込まれないよう、必死に足を前に投げ出す。
通りには少年と少女の他に、迫りくる森から逃げている人の姿が無数にあった。すでに大半の避難が完了しているためか、その人の数は決して多くはない。だがその者たちが上げる悲鳴や怒声、言葉にならない絶叫は、少年の焦燥をより駆り立てた。
石畳を突き破り生えた幹から、無数の枝葉が伸ばされ、建物を完膚なきまでに破壊する。その砕かれた建物の欠片に打たれながら、少年は頭上を見上げた。背後の森から急速に伸ばされた枝葉が、頭上に大きな緑色の天蓋を作っていく。そのあまりにも巨大な笠は、まるで街全体を呑み込んでしまうような、強い圧迫感を伴っていた。
考えたくはない。だが考えざるを得ない。少年は心内で苦々しく呻く。
(逃げ切れるのか……この地下世界で)
すでに一分以上、全力疾走を続けている。だが不思議と疲労は感じない。今ならば、何分だろうと何時間だろうと、休むことなく逃げ続けられる気さえした。
だが何時間、何日と逃げ続けたとして、果たして森から逃げ切ることが、できるだろうか。地下世界は閉塞されている。終端が存在する世界だ。どれだけ長時間と逃げることができようと、どん詰まりのある世界では、いずれ森に呑み込まれるのではないか。
(考えるな……今は逃げることに集中しろ)
脳裏にもたげた不安を振り払い、少年は瞳をギリリと引き締めた。ひとたび理性の手綱を離してしまえば、濁流に呑み込まれるように、恐怖に支配される。ゆえに少年は努めて平静であろうとした。
(何よりも俺がここで諦めたら……妹まで死ぬことになるんだ)
自身の右手に握られた少女の運命。それを手放すわけにはいかない。少年はそう決意を固めると、右手に掴んだ少女を再び見やる。迫りくる森の恐怖に、表情を強張らせている少女。その小さく震えている少女の黒い瞳を見据えて、少年はふと心内で呟いた。
(……泣いていないんだな)
少年と少女はこれまで、兄妹も同然に育てられた。ゆえに少年は、少女がひどく泣き虫であることを知っている。少年と一つ歳が離れており、今年で十一歳となる少女だが、小さな喧嘩だろうとすぐ大泣きする彼女に、少年はこれまでよく困らされていた。
その少女が恐怖に顔を歪めながらも、一筋の涙も流していない。それは少年にとって幸運であった。泣くという行為は、大量の酸素と体力を消耗する。この切迫した状況において、その行為は明らかに致命的となる。
少女もそれを理解しているがゆえ、溢れる涙を堪えているのかも知れない。そう少年は考える。だがすぐにその考えを否定した。小さく震えている少女の乾いた瞳。そこには、恐怖とはまた異なる、感情の闇が湛えられていている気がしたからだ。
(泣かないんじゃない。泣けないんだ。彼女は――している)
心内の呟きを濁しつつ、少年は静かに奥歯を噛みしめた。兄妹も同然に生きてきた少女の心に、取り返しのつかない傷が刻まれてしまったことを、少年は沈痛に理解した。
少女に言葉を掛けてやりたい。だが適切な言葉を思い浮かべることができなかった。何よりもその余裕がない。少年は歯噛みしながらも、再び前方に視線を向けた。
その時――少女がつんのめるようにして転倒した。
少女の左手を強く握りしめていたため、転倒した少女に引っ張られて、少年の足もまた止まる。咄嗟に少女に視線を戻す。仰向けに地面に倒れている少女。その彼女の足元には、石畳の地面を突き破り生えた根があった。
どうやら根に足を引っかけて、転倒してしまったらしい。痛みに顔を歪めながらも、すぐに上体を起こそうとする少女。だが蓄積した疲労が噴出したのか、明らかに動きが鈍重だ。少年は絶望的な心地で、少女の背後に視線を移した。
そこには――少女に容赦なく迫りくる森の姿がある。
「――ちくしょう!」
少年は少女の左手を離すと、少女に迫りくる森の前に立ちはだかった。少女の息を呑む気配が背後から伝わる。地面が爆発したように砕けて、巨大な幹が眼前にそそり立つ。そして慄く少年に向けて、巨大な幹から急速に伸ばされた枝葉が、先端を尖らせ迫りくる。
「俺の妹に――近づくんじゃねえええ!」
迫りくる枝葉に向けて、少年は左手を振るった。同年代における喧嘩で、少年は負けたことがない。だが当然ながら、街さえも呑み込もうとする不気味な森に、喧嘩自慢の子供が太刀打ちできるはずもなく、少年の左腕は伸ばされた枝葉に容易に呑み込まれた。
「が……ああああああああああ!」
激痛が少年の脳を焼いた。枝葉に包み込まれた左腕が、枝葉の内部でズタズタに引き裂かれていくことを、痛覚のみで理解する。皮膚の内側に収められていた血管や骨が、肉から引きずり出されて、容赦なく破壊される。その初めて覚える冷たい喪失感に、少年は喉が張り裂けんばかりに声を上げ、自身の意識が遠のくのを感じた。だが――
「い……いやああああああ!」
背後から聞こえてきた少女の悲痛な叫び声に、少年は遠のきかけた意識を、ギリギリのところでつなぎとめる。左腕に絡みついた枝葉を見据えながら、少年はベルトに下げていたナイフを素早く抜き取り、左腕の枝葉に向けてその刃先を突き立てた。
「うがあああああああ!」
声を荒げながら右手首を捻り、左腕に絡みついた枝葉をナイフで引き千切る。まだ太い枝が絡みつく前であったこともあり、少年は枝葉の拘束を脱することに成功した。
だがすでに少年の左腕は、枝葉が肩口まで密集して絡みつき、容易には引き剥がせそうになかった。左腕からの焼けるような痛みも治まりそうにない。左腕に絡みついた枝葉の隙間から滲んで滴り落ちる赤い血。少年は額に大量の脂汗を浮かべつつ――
背後の少女に振り返った。
呆然とした面持ちで地面に座り込む少女。少年は多少の苛立ちを覚えながら、右手のナイフをベルトに収めて、すぐさま少女へと駆け寄った。少女の腕を掴んで強引に立たせてやり、少年は少女に口調を強めて言う。
「何してるんだ! 早く逃げるんだよ!」
「……もう……あたし動けないよ……」
少女が黒い瞳をきつく閉ざして、頭を振りながら震える声で呟く。
「……もういいから……ひとりで――」
「ふざけるな!」
少女の声を遮り、少年は瞳を尖らせた。
「俺は姉さんからお前たちのことを任されたんだ! 守るって約束したんだよ!」
少年のその言葉に、少女が閉ざしていた黒い瞳を再び開け、少年を見つめた。
「……カイお兄ちゃん」
「行くぞ! ルーラ!」
少年は少女の腕を掴んだまま、彼女を引きずるようにして駆け出した。すでに周囲は石畳から生えた樹々に囲まれており、不気味に伸ばされた枝葉が、獲物を求めて頭上をうごめいている。周囲を必死に警戒しながら、左腕を枝葉に包まれた少年は――
少女を連れて森を脱出した。