審判の時
「シオン、覚えているか? 善悪なんて人の定義によって変わると俺が言ったことを」
アルは、どこか嬉しそうに、全身から血を噴きだし、見ていられない姿のままにシオンへと暖かい視線を向けた。
「決して……女神様の考え方はおかしいことじゃないのさ、女神様は自分の定義した世界を救うという正義を掲げて俺を殺そうとしただけ。正直、女神様が俺を殺そうとしたことについては驚いたが……変なことではないのさ」
「でも……それじゃあアル先生があまりにも!」
「俺はいいのさ、言っただろう? 俺の前では何もできない……期待はしていたがね」
アルはそう言うと、肩に突き刺さった巨大な斧をゆっくりと抜き去った。
そして、見た者のほとんどが恐怖で顔を歪めてしまう。斧を抜き去った瞬間、アルの肩は、血が噴き出したことすらなかったかのように、服さえも元通りに戻ってしまったからだ。
それを見たラムエは「そういう運命じゃなかったか……なるほどな」と笑みを浮かべ、ニルファは変わらず悲しそうにその光景を見届けた。
「それぞれの掲げる正義や悪は違い……それぞれで違う善悪を定義されては困るから、ルールというものが存在する。故に、異なる善悪を定義する者がぶつかったところで、どちらかが悪いなんてことは決してない……だが、例外はある」
「例…………外?」
その答えが気になり、シオンは首を傾げる。
「ぶれることだ」
直後、再びアルは、溢れ出んばかりの殺気を全身から放った。
肌で感じ取るだけでも足元が崩れ落ちそうだったにも関わらず、今度は大気が震え、アルの足場に亀裂が入るほどのエネルギーが籠められた殺気。
無論、その殺気を前に立っていられる者はおらず、殺気をぶつけられなかったシオンとニルファとルミナとラムエを除き、全員が激しくなった動悸で呼吸もままならないまま、腰を抜かして倒れ込んだ。
「流されると言った方が早いか? 自分の掲げる正義に反していることに気付きながら……他の誰かに流されて、平然と悪意を働く……『自分の意志ではない』と言い訳しながら。俺は……そういう自分の意志を貫けない連中が大嫌いでね」
そう言って、アルはキールとダグラスを睨みつける。
「俺を殺そうとするのは大いに結構。俺を殺すことは多くにとっての正義だ……しかし、今一度聞きたい、無関係な者を巻き込んだのは何故だ?」
問いかけに、ダグラスは答えられなかった。あまりの恐怖に、口が動かなかったからだ。
「き、きき貴様を倒すため……ために……ために!」
そんな中、キールが小刻みに歯を打ち鳴らしながら答える。
「俺に挑み、倒すというのは無関係な者を殺さなくてもできたはずだ。お前は……俺を殺すという大義を盾に、それが悪であるとわかりながら、最も効率よく、俺から全てを奪える方法だと私利私欲のために…………殺したんだよ。言葉通り、欲に流されてな」
アルはそう言いながら、次々に自分の身体に刺さった矢や武器を引き抜いていく。先程抜かれた斧と同様にアルの傷は、なかったかのように戻っていった。
その光景があまりにも意味がわからず、見ていた騎士団たちは「なんで……ど、どうして?」と目を泳がせて混乱する。
「お前たちも、その行為に疑問を抱きながら、ハルバード家の命令だから、王国の命令だからと流され、悪いのは命令したものだと流されて無関係な者たちを襲った」
次に、アルはその場に居た騎士団たちに視線を向ける。その指摘にリアは、反論のしようがなかった。まさしく、その通りだったから。
「そして最後に…………あんただ」
最後に、アルはファティマへと視線を向けた。
かつてぶつけられたことのない怒りに、ファティマは腰を崩したまま目を見開いて、身体をびくつかせる。それは、これまでは「女神様」と愛嬌を込めて優しく接してくれていたのが一瞬でわかるほどの殺意だった。
「俺は……あんたに期待していたんだ」
直後、アルは本当に残念そうにファティマを見据える。
「俺の知っている身勝手な神とは違って、誰かのためにと、あんたは必至になろうとしてくれていた。全ての人間が……他者のために生きる時代が来るはずだと信じていた」
「わ……私は」
「前にも言ったが、善悪がそれぞれで異なる世界で、争いが無くなるなんてことはありえない。ありえないことなんだ。でも……あんたはそれでもと俺の助けを求めた。だから……俺は無謀で、素敵な挑戦をしようとするあんたを手伝ってやろうと思った」
アルは、これでもかとファティマに瞳を向け続ける。
怒りと絶望と憎しみと悲しみの籠った、見続ければ、心が深淵の闇に飲み込まれてしまいそうな瞳を。
「でも……やっぱりあんたも、俺の知っている神々と変わらなかったよ。そこにいるハルバード家の連中となんら変わらない……世界を管理しているだけの特別な力を持った、ただの人だ」
そして、耐えきれなくなったのか、ファティマは思わず視線を逸らしてしまう。
「あんたは矛盾だらけだ。もしかしたら世界が滅ぶかもしれないからと、俺を危惧するのは当然だ。でも……あんたは信じたはずじゃないのか? 信じたから、俺を頼ってくれたんじゃなかったのか?」
「わ……私は、私は!」
「なあ…………あんたは本当に、他者のために生きる時代が来ると思っているのか?」
言い返せず、焦燥した顔つきで俯いたまま、ファティマは黙ってしまう。
「あんたはあまつさえ、命は平等と宣いながら、俺を倒すことが絶対の正義だと……他者の命を軽んじた。俺を倒さなければ世界は滅びるという魔法の言葉を言い訳にして、流されてな」
「なら……なら私はどうすれば良かったのですか⁉」
「その答えを、あんたは既にわかっていたはずだ。あんたは不安に負けたのさ……神であり、一番折れてはいけないはずのあんたが」
信じれば良かった。最初に自分が信じた者を。一度信じた自分を。
それなのにファティマは、世界を失うという恐怖から、それができなかった。
そしてそれは、人であればなんら不思議なことではない。誰もが起きえる感情の揺れ、信念の揺らぎ、これでいいはずだと誤魔化しながら突き進もうとする迷走。
「あんたは……この世界の神にふさわしくない」
これが、他の世界であるならば、アルもただ呆れるだけで放置していただろう。
だがここは、アルの住む世界。アルの故郷。
そんな世界で、信用に足りない神に任せようと思うほど、アルは優しくはなかった。
「さて、幕を引こうか?」
気付けば、アルは元通りの無傷の姿へと戻っていた。
そしてその場にいた全ての者が認識する。
この男は、何をしたところで勝てる存在ではないのだと―—これから、絶対に逃げられないだろう死が訪れることを覚悟しながら。
次回更新は2/09です




