甘い香りに誘われて
「まあ、君が男だったとしても、スペシャルを扱いこなせていない状態でわざわざ命を落としに行くのはもったいないぜ? どうせなら扱いこなしてから挑戦すればいい」
「扱いこなして……いない?」
その自覚がないのか、少年は不服を訴えるように眉間に皺を寄せてアルを睨んだ。
「飛行能力の最大の長所は体制の維持にある。足場を崩されても、敵に吹き飛ばされても、体制を浮遊で維持して敵を常に正面に置けるのは飛行能力を持つ者だけの特権だ。なのに……さっき背中を見せてビュンビュン飛んでいるように見えたが?」
しかし、次に受けた指摘が図星だったのか、苦虫を噛み潰したかのような顔で視線を逸らす。
「あなたはいったい……何者ですか? そもそもここは世界樹の聖域、一般人が立ち入って良い場所じゃないはずです!」
「おまいう」
少年の頭の上で口から煙を噴きだしながら、ロップイがヤレヤレと呟く。
飛行能力を持っているが故に、少年は通常では通れないはずの道を通ってここまできていた。
「僕は誰にもばれずに特訓するために……それに学生兵士が聖域に忍び込んで特訓するのは珍しくなんか…………と、とにかく! こんな場所に当然のようにいるあなた方はただものじゃないのでしょう? よろしければお名前を……!」
「俺はアルデロン・アルハザード」
「アル……ハザード⁉」
知っている名だったのか、少年は引きつった顔で目を見開き、後ずさりした。
「あなたのことを知っているみたいですけど……何をやらかしたのです?」
明らかに怯えた顔つきの少年を前に、ファティマが訝しげにアルへと問いかける。
「アルハザード家のことを知らずに行動を共にしているのですか⁉ 離れてください……その男は危険です! 王国が唯一、その領地を野放しにし、近付くことすら禁忌とした貴族……それがアルハザード家、ユシール王国の民であれば誰もが知っていることです!」
アルの素性が知れるや否や、少年は実は気に入っていたのか頭の上で放置されたままだったロップイを掴んでアルへと投げ返した。
しかしアルはそれを受け止めずに華麗に回避する。
「あなた……貴族だったのですか?」
「貴族でもなければメイドのいる家になんか住めないだろ? ちなみに子爵だ」
どこか納得がいったのか、ファティマは「なるほど」と頷いた。
「ご主人は縛られるのが嫌いでな。ごたごた言ってくる王国連中を一度徹底的にボコったんだ」
草木に身体を埋めた状態で、ロップイは特に気にしていないのか煙草を吹かす。
それを聞いたファティマは、そもそもギャングと知り合いの時点で悪い噂が流れても仕方がないかと、この時点で一人で納得してしまう。
「おいおいちゃんと説明しろよ? 俺が悪者みたいじゃないか」
「実際はどうなのですか?」
「親父とおふくろが行方不明になったんで俺が家督を継いだんだが、ご存知の通り……家にいないことが多くて、爵位を返上して領地を返せと王国の連中が言ってきたんだ」
「それで、あなたは王国に何をやったのですか?」
「領地を取られたら帰る家がなくなるだろう? まあ他にも色々理由があって……それは困るんで無視していたら城から騎士が百人くらい押し寄せてきてな? 丁重にお帰り願ったら今度は千人で押し寄せてきてな?」
「その千人はどうなったのです?」
「二日ほど我が家の周囲でお泊りいただいた後、帰られた。それ以降来なくなったが」
つまりはその千人を完膚なきまでにボコボコにして丸二日間動けなくしたということである。
命を奪わずに千人を相手に勝つというのは生半可な実力では不可能な所業であり、ロップイの説明が何一つ間違っておらず、たった一人を相手にそうなった騎士のプライドはずたずたになっただろうとファティマは憐れんだ。
「完全にあなたが悪者じゃないですか」
「いやいや、確かに貴族らしい仕事はしていないが、王国への上納金は通常よりも多く収めていたんだぜ? まあ、王国連中はそれだけじゃ満足いかないらしい……元々伯爵だったのが階級を下げられて子爵だ。要はデカい面されるのが気に喰わないのさ」
王国が最も不都合に感じたのは、与えた領土の治安の悪化だった。
実際、アルハザード家はギャングに領土の管理を任せていることになるため、王国にとっては面白くない状態なのである。貴族でもないものに領土を好き放題されているのでは他に示しがつかないということから、アルハザード家の追い出しが始まったが――――現在に至る。
「君が思っているほど、俺はそんな危険な人物じゃないと自負しているんだがな?」
「僕は騙されません! とにかく僕だって学生とはいえ王国に所属する兵士の一人、アルハザード家の人間が帰ってきたということを知らせないと……!」
直後、少年は地面に小さな球を打ちつけた。
すると白い煙が噴き出し、一同の周囲一帯の視界が覆いつくされる。
「名前も言わずにビビッて逃げちまったが、いいのかご主人? 王国側に伝えるとか言ってたが」
残念そうに未だ身体を草木に埋めたままのロップイが呟く。
煙が晴れた時には、少年の姿はその場から消えていた。
「王国に知らされたところで、デカい面されないように警戒されるだけさ、別にいいだろ?」
「とりあえずあなたが問題児扱いされているのはわかりました」
「人聞きが悪いねえ女神様? 俺が周りにどう思われるかなんて関係ないだろう? 女神様がこれから俺をどう思うかが重要なのさ。さあ、そろそろ行こうぜ?」
草木に埋もれていたロップイの前足を乱暴に掴み取ると、アルは空へと放り投げる。
ほんの少し、少年との別れを惜しく感じているのか小さな溜め息を吐くと、ロップイは大きな耳をパタパタと動かして、アルとファティマの案内を再開した。
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「ここが…………あなたの暮らす家ですか」
「感想はどうだい?」
移動を開始してから約一時間、日が暮れてすっかり暗くなった世界樹の区画を抜け、世界樹へと続く入り口の門番の目をかいくぐり、二人はユシール王国の領地へと足を踏み入れた。
「どうしてこんな場所に?」
ここまで来る途中の街の景色を見てか、ファティマはうんざりとした顔で答える。
世界樹を円形の巨大な壁で囲い、その内側に建国されたユシール王国は、五つの区分に分かれている。
一つは、ユシール王国が発行する、特別な印章を持つ上流階級の者だけが足を踏み入ることを許された貴族区。
一つは一部の貴族の管理の元に、多くの平民が居を構える平民区。
一つは学校などの教育施設や、軍事施設が整えられたユシール区。
一つは先に挙げた三つの区分に入ることができず、ろくな働きができない者や、スペシャルの力が弱い者が押し込められる貧民区。
そして最後の一つ、国内の生産品だけではなく、他種族の商人が運んでくる各地の生産品も流通し、取引が行われる商業区。多くの他種族が国内に入れる区画のため、他種族とのトラブルが最も多く、治安が悪い区画とされている。
そんな商業区の中心に位置する場所に、二人と一匹は現在立っていた。
「こんな淫靡な場所に、どうしてまともな屋敷が建てられているのですか……」
「そりゃ、俺の家だからさ」
ロップイに案内されて辿り着いた場所は、商業区の中でも特に治安の悪い裏の世界、娼婦たちの甘い香りとギャングたちの殺気が入り乱れて、淫靡な雰囲気の漂う遊郭街の中心だった。
そこに、まるでそこだけ世界が切り離されたかのような、手入れの届いた緑豊かな広い庭と、百人が寝泊まりできるくらいの部屋はあるだろう立派なお屋敷が建てられていた。
唯一欠点があるとすれば、桃色や朱色の光を放つ周囲の建造物に覆われて、お屋敷も少し怪しい雰囲気を放っていることくらいだろう。
次回更新は12/02 18時更新予定です