Alice in the dark.
※残酷、不快な表現があります。こども好きな方は、読むのをおすすめしません。
また、申し訳ございませんが、この作品へ感想をいただきましても返信はいたしません。最初から感想欄を閉じていなかったことをお詫びいたします。そして感想をくださった方に心よりの感謝を捧げます。
ハッと気がついたとき、わたしはちょうどティーカップに口をつけようとしていたところだった。蝋燭の明かりがいくつも灯る室内は薄暗く、どこか陰気だった。わたしが身につけていたのはとても手触りの良いフワフワした黒のシフォンドレスで、この部屋にあるものも皆、一級品であるのがひと目でわかる。そのすべてが暗い色で統一されていた。
ガレの花瓶、ボーンチャイナ、チッペンデールの椅子……それなのに、わたしにはわたしのことがわからなかった。
ここはどこ? わたしは誰?
どこから来て、どこへ行けば良いの?
「誰か……誰かいないの?」
わたしはカップを置いて窓へと歩いていった。重いカーテンを開いてびっくりする。それは窓ではなかった。
「鏡……」
そこに映るのはわたし。まっすぐな金の髪、碧い瞳。白い肌の女の子。わたしが首をかしげると彼女もちょこんと頭を倒した。ゴシックな黒いドレスに包まれた中で一ヶ所だけ鮮やかなのは紅を塗ったように真っ赤な唇だった。
『アリス……もう、目が覚めたのかい?』
「……誰っ?」
近くで囁き声がした。鏡の中には誰かがいるようには見えなくて、振り向いて探そうとすると、真後ろにその男はいた。思わず悲鳴を上げてしまう。
白を基調とした三つ揃え以外は、暗色を身に纏った男。ダークチョコレートの肌に黒い髪、目の覚めるように美しい紫水晶の瞳がわたしを見つめていた。
『驚かせてしまってすまない、可愛いアリス。さあ、お茶会の続きをしよう。一緒に美味しいお菓子を食べて、本を読んだり、ぬいぐるみで遊ぼうね。ここには君が気に入るものばかりが揃っているよ、君が退屈しないように、楽しめるように、色々と考えて用意したんだ。アリス、さぁ、こっちへおいで』
わたしはもう一度鏡を覗いた。そこに彼は映っていなかった。
「あなたは、悪魔なのね」
『……そうとも。私は悪魔、君のしもべだ』
悪魔はわたしの手を取って、深い闇のように嗤った。手の甲に落とされる口づけは、まるで何かの契約のよう。わたしは逃げたかったのに、逃げることは許されなかった。力強い腕に囚われて、わたしは叫び出したいのに声も出ず、彼のなすがままだった。
* * * * * * * * * * * *
彼はわたしに、彼の主人であるように振る舞わせた。彼にお茶を淹れさせ、着替えを手伝わせ、移動するときは彼の腕に抱きかかえさせた。そうしている間は、彼はおとなしく紳士的だったから。
同時に彼は、わたしが余計な詮索をするのを嫌った。彼が気に入らない言葉を口にすると、鋭い視線が飛んでくる。わたしは盲目のまま、おままごとの日々を続けた。そんな中で、知り得たことがいくつかある。
ひとつ、この館には玄関がない。
ふたつ、この館には窓がない。
みっつ、この館には開かない扉がいくつかある。
たくさんある部屋には役割があり、それらはわたしのためにあるものばかりで、彼のための部屋はなかった。図書室、音楽室、温室、お昼寝のための部屋、衣装部屋、ぬいぐるみで埋め尽くされた部屋……でも、開かない部屋がいくつかある。
悪魔は言った。
『鍵のかかっている部屋は、決して覗いてはいけないよ』
わたしは何とかしてその部屋に入ろうと決心した。悪魔はずっと館にいるわけではない。その隙に、わたしは入ることを許された部屋のあちこちを探し、とうとう鍵の束を手に入れた。
「これがあれば……わたしの記憶や、ここから出るための方法について、何か掴めるかもしれない……」
悪魔はわたしに優しかったけれど、わたしはどうしても自分を取り戻したかった。今のわたしは足元以外、全部が欠落したとんでもない高所に目隠しのまま置き去りにされたも同じ。拠り所もなくどこへも行けない……。
横柄に振る舞いながらその実、悪魔の従順なしもべなのだ。そんなのは、嫌だ!
* * * * * * * * * * * *
鍵のかかった部屋のひとつにやってきたわたしは、何度か試してその鍵穴に合う鍵を見つけ出した。カチリと軽い音。期待を込めて開いた先は深いワインレッドのカーテンで、わたしはそれをそっと引いてみた……。
「きゃっ!」
そこにあったのは赤、赤、赤……床一面にぶちまけられたおびただしい量の血液と、無惨に転がった犬や猫の首、肢、体、内臓、そして、尻尾……。酷い臭いに込み上げてくるものがある。わたしはすぐに引き返した。ぬるっとしたものに足をとられ、転びそうになったものの、カーテンに掴まって事なきを得た。ああ…………どうしてこんな部屋が!
自分の部屋に戻ってきたわたしは、靴に血が着いているのを見つけた。どうやっても取れない赤。あの部屋はいったい、何だったのだろう。作り物にしても趣味が悪い。
むわっとした息が詰まりそうな空気と、吐き気をもよおす不快な臭い。鉄錆のような……あれはもしかして血の臭いだったのだろうか。いったい誰が、どうしてあんなことをしたのだろう。
「可哀想な子たち……」
わたしは呟き、そして思い出した。わたしもかつて、可愛い仔犬を飼っていたことを。優雅な猫もいた。父と母と、動物たち。わたしは彼らと遊び、たくさん抱っこした。柔らかくて温かな毛並み。わたしは犬や猫と暮らしていたことがある。
館に帰ってきた悪魔は言った。
『アリス、靴はどうしました?』
「飽きたので、どこかに脱ぎ捨てたわ。新しいのを買ってちょうだい。可愛らしい靴でなくては嫌よ」
『……もちろんだよ、アリス。私は君に忠実なしもべなのだから』
血のついた靴はクローゼットの奥に隠した。彼は上手く誤魔化されてくれたみたいだった。今度彼が出かけたら、別のドアを開けなくっちゃ。
* * * * * * * * * * * *
次の機会はわりとすぐにやってきた。彼が出かけてすぐに別の部屋の鍵を開けた。ドアを引くとまたしてもカーテンが視界を遮っている。赤いカーテンをくぐると、さあっと風が渡ってきた。そこは深い森の中の湖だった。
青い空と針葉樹が鏡写しになっている。その中に浮かんでいるのは白いドレスのお人形さん。顔を下に向けてプカリと浮いている。
赤い靴のお人形さん。まるでよちよち歩きの赤ちゃんみたい。
金色の髪のお人形さん。くるくる巻き毛の可愛い子。
……わたしにも妹がいたわ。
まん丸のほっぺはすべすべで、抱くと甘い匂いがしたの。よく笑う子で、わたしを見上げる目がお空の色をしていたわ。わたしはあの子が笑うのを見るのが大好きだったの。
あの子はどこへ行ったのかしら?
わたしは靴を脱いで水へ入っていった。
お人形をひっくり返すと、目玉は汚く濁ってしまっていた。
「可哀想な子……」
わたしは彼女を湖の底へ沈めた。
館に帰ってきた悪魔は言った。
『アリス、服はどうしました?』
「一度、服を着たままでお風呂に入ってみたかったの。不思議な気持ちだったわ。引っかけて破いてしまったから、そのまま捨てたの。さぁ、服を着せて? うんとヒラヒラしたのがいいわ」
『……もちろんだよ、アリス。私は君に忠実なしもべなのだから』
脱いだドレスには小さな爪がくっついていて取れなかった。まるで生まれたての貝殻みたいな爪が。白くて、少し透けていて。悪魔はゴミ箱の服を見たかしら? 今度彼が出かけたら、別のドアを開けなくっちゃ。
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それからしばらく、悪魔はずっと館にいた。わたしはすっかり大人になっていた。そもそも、最初に目覚めたときに幾つだったのかも分からない。少女であることは確かだったけれど、それが実際に何歳だったかまでは断言できない。
わたしは美しくなったと思う……。
日毎、鏡を覗き込むと映るわたしは、以前の不安定な美しさから比べると咲き誇る薔薇のよう。悪魔が愛するのも当然の美貌……でも、それはいつまで保つのかしら?
* * * * * * * * * * * *
三つ目のドア。
もう手慣れたもので、わたしはさっと鍵を合わせて開けた。緋色のカーテンがかかっている。施錠されている部屋はここと、あともう一ヶ所……。
深呼吸をしてわたしはカーテンをくぐった。
「……ここ、は?」
懐かしい部屋だった。どこかのお屋敷の立派な寝室で、子どもの頃のわたしは、その部屋の暗い色調のせいか日が翳ってからはここが少し怖かった。大好きなパパとママの寝室。
わたしの目の前には、二人が仲良くシルクのシーツの中で眠っている。そう、眠っているの。万が一組織が焼け残っても検出されない程度の睡眠薬で。
火元はベッドのすぐ側にあるパパの灰皿。消えていなかったタバコが落ちて、就寝中に焼けてしまうの。わたしはちょうど外出中で、二人きりの夜に。
直接の死因は煙に巻かれての窒息死。
骨に傷がついていなければ、誰にも分かりっこないわ。
「ああ……なんてこと」
「ママ……? 起きてたの?」
「こんなことをして……可哀想に……」
わたしは悲鳴を飲み込んだ。
やめて。
やめてやめてやめて。言わないで。
「なんて、可哀想な子……」
「やめてよ!」
だって、だってだってだって、パパとママが悪いのよ! わたしの邪魔をするから! あの人と引き離そうとするから!
「あああああっ!!」
燃え盛る部屋からわたしは逃げ出した。
悪魔は、帰ってこなかった。
* * * * * * * * * * * *
わたしが恋をしたのは若き貿易商、若き冒険家。彼のことパパは詐欺師だと言っていた。確かに、詐欺紛いの取引だってしたことはあるでしょう、でも、それだって法律上は問題なかったのよ。
彼がわたしに近づいてきたのはお金が目的だったんでしょうね。でも、残念ながらわたしには自由になる財産がなかった。だからこの恋は始まることすらなかった……はずだった。
でも彼は、わたしを選んでくれた。とてもとても嬉かった。「贅沢はさせてあげられないけど」という言葉と共に贈られた指輪は質素なものだったけれど構わなかった。周囲の反対を押しきって結婚したわたしたちは……わたしは幸福だった。
病めるときも、健やかなるときも
喜びのときも、悲しみのときも
富めるときも、貧しいときも
彼を愛し、彼を敬い、彼を慰め、彼を助け、この命ある限り、真心を尽くす……
彼の事業が思うようにいかなくなって、もう今にも会社がなくなりそうだというとき、わたしたちは両親に頭を下げて援助を請うた。
でも、家を出た娘に対し、彼らはにべもなく……あのときの彼の恨みのこもった眼差しは忘れられない。わたしは一度家に戻り、両親を説得した。良い返事は得られず、わたしは仕方がなく彼らを火にくべた。
わたしたちを邪魔する者は消え、お金が手に入り、彼の会社は上手く立て直せた。だというのに……だというのにそれを境に彼の気持ちが離れていっている気がした。わたしは今まで以上に彼に尽くし、綺麗に着飾り、彼の事業が大きくなるように社交に精を出した。
わたしが頑張れば頑張るほど、彼はお酒に溺れ、良くない集まりに顔を出し、他の女に慰めを見出だした。
「どうしてなの」
答えはなかった。
わたしは彼を振り向かせるために、さらなる美しさを求めた。富も、名声も、勝手に付随してきたけれど、そんなものは欲しくない、わたしが欲しいのは彼の心、彼の愛! 彼だけが欲しかった!
だから、わたしは悪魔と取引をした。
『記憶を取り戻したんだね、アリス』
「ええ、思い出したわ……すべてを」
部屋の隅の闇から溶け出してきたような黒い肌、異国の趣を宿した貌。わたしの悪魔……。わたしは寝台の上に寝そべりながら彼を迎えた。
『美しいアリス。彼の心を無理やり縛りつけ、君だけのものにした。その代償を、君は支払えなかった。だからここにこうして囚われの身になっている』
「そう。わたしは代償を支払うことができなかった。あなたと約束したのはわたしの最初の赤ちゃんだったわね。彼との赤ちゃん……わたしの可愛い娘。わたしにはどうしても、無理だったのよ……」
わたしは自分で自分を掻き抱いた。もういない赤ん坊の幻を抱き締めるように。あの温もり、あの重み、あの匂い。
「あんなに小さな生き物が、いっしょうけんめいにわたしを求めて手を伸ばして、ぎゅっと指を握ってきて……! あんなに頼りなくて柔らかくて可愛らしい生き物がいたなんて! 抱くとコトンと肩に頭を乗せてきて、わたしにすべてを預けて、全身でわたしを好きだって言っている、そんな可愛い娘を前にして、どうしても我慢ができなかったんだもの! …………本当に可愛かったのよ。妹だって、お母様が抱かせてくれないから、ずっとずっとずっと待ってたの。犬も猫もウサギも鳥も、みんなみんなわたしを好きなの。だからわたしも嬉しくって、だからぜんぶぜんぶぜんぶ欲しくなっちゃうの。あの目を見るとうっとりしちゃう、わたしを好きって言っている目。とてもとても幸せな気持ちになるのよ? あなたは愛されたことがないからわからないかしら? うふふ、うふふふふふふ、うふふふふっ」
お腹の底から笑いが止まらなかった。壊れ物みたいに繊細な娘の首をぽっきり手折ったときの感触を思い出して楽しくてたまらなかったから。
『可愛いアリス、君は何度記憶を消して繰り返しても、結局は扉を開けてしまうんだね。美しく無邪気な魔女……君の魂を閉じ込めたこの宝石箱が私は大好きだよ』
悪魔が嗤う。
『私に愛は理解できない。そしてそれは、君も同じだ』
手が、伸びてくる。
「やめて……閉じないで……」
ああ、ああ、わたしは知っている。
「箱を閉じないで!」
わたしの懇願は叶えられることはない。わたしは彼の玩具。
宝石箱についているオルゴール人形。
気まぐれに箱を開けられては同じことを繰り返す。きっとまたわたしの記憶は消されて、もう一度お茶会で目が覚める。いかれ帽子屋、三月ウサギ、そしてジャムポットにはヤマネ。
「どうかお願い、わたしを闇に戻さないで。ねぇ、お願いよ!」
『可愛いアリス。大丈夫、きっとまた会えるからね』
「嫌! ここから出して! 出してぇ!」
宝石箱はバタンと閉じられた。
さて、次に蓋が開くのはいつのことか。