お狐さまと屋台ちゃん
登場人物:九尾の狐と女子高生
ドレミーレド ドレミレドレー
「あっ、チャルメラさん!」
ある冬の寒い日。屋台のチャルメラが聞こえて、私はお狐さまにシーッと合図した。
ドレミーレド ドレミレドレー
「ね、聞こえる。もうチャルメラさんの時間だ」
小さな音のメロディーが聞こえてくる。ということは、あともう少しで帰らないと。
これが神社で聞こえ始めるのは夕方六時を過ぎてから。神社の真下を通るのは六時半になる。だから私にとっては、これが冬場の帰宅時間の目安。
「チャルメラさん?」
お狐さまが不思議そうに小首をかしげた。
知らない? チャルメラさん、毎週水曜日にこの地区に屋台出しに来てるの。
チャルメラって、ラーメンの屋台で吹いてる楽器の名前なんだって。だからチャルメラさん。本当はもっとちゃんとした名前、あるんだろうけど。こっちのほうが好きなんだ。
「……っていっても、私は屋台見たこともラーメン食べたこともないんだけどね」
得意げに説明したあとで、ちょっとはにかんで付け加える。
私の説明を聞いたお狐さまは、「チャルメラさん」と口の中で言葉を転がして、「面白い響きだね、キャラメルみたいだ」とくすくす笑った。
たしかに、チャルメラとキャラメルってちょっとわかるかも。
私もつられてくすくす笑い。
「あの音程、昔はよくリコーダーで吹いてたんだ。簡単で覚えやすかったから」
そう言って、リコーダーを演奏するジェスチャーをしながら、「ドレミーレド」と歌う。
「美味しそうだよねえ、屋台なんてさ」
「そんなに気になるなら、買ってもらえばよかっただろうに。それとも何か食べられない理由でも?」
「昔は私の家、ああいうの食べちゃ駄目だったから。お父さんが厳しかったの。そのせいで外食も全然したことなくて……。お母さんと二人になってからもなんとなく言い出しづらかったし、中学にあがって、お母さんから外食してもいいよって言われたんだ」
それから今まで食べてこなかったのは――まあ、惰性みたいなものだけど。
「なんなら下に来たとき買ってこようか? 私も食べてみたいし。お狐さまはラーメン、食べたことある?」
「ずっと前に食べた気もするけれど……もうよく覚えていないな」
「じゃあ決定。たぶんもう十分くらいで来ると思うから、そのときね」
「ああ。楽しみだ」
こうして今日が、私のチャルメラさんデビューの日になった。
喜ぶお狐さまの頭を撫でながら、私はラーメンの具材トッピングはできるのかな、と想像する。
やっぱり定番のチャーシューかな。あ、でも味付け卵もいいかも。メンマは多めで。だけどあんまり食べると晩御飯に響くよね……。
うーん。
悩んでいると、ぺったりと私にすり寄って甘えているお狐さまが目に入った。
そうだ、お狐さまと半分こにすればいい。あんまり遅くまでここにいるわけにもいかないし、試食の量にはちょうどいいくらいだろう。
「いいよね、お狐さま?」
「お前の好きなように」
よし。
屋台はどんな見た目かな。さすがに今どき木製リアカーってことはないだろうし……軽トラの改造車みたいな感じ? この地区を回り終えるのもあっという間だから、結構スピードの出る屋台なんだろうけど。
「そういえばお前、食したことはないにせよ、見たことすら一度もないのかい? 屋台もあちこちを回っているんだろう」
私の想像を遮ったのは、お狐さまのそんな言葉。
「ああ、それは私が避けてたからだよ。食べられないのに見るもんか、って思ってたし、それに……」
一瞬、なんと表現しようか迷う。私の答えを待って、お狐さまが首をかしげる。
「……見えないほうが、ロマンじゃない?」
しっくりくる言葉を探して、最後はそんな言い方をした。
形がないもの、見えないもの、知らないもの。たとえばチャルメラさん、たとえばプレゼントボックス、たとえばオーロラ。知らないフルーツをかじるみたいな、緊張と興奮。
そういうのって、ロマンじゃない?
「それなら俺も」
「現れないほうが良かった、なんてなしだからね」
私が先に皮肉を封じると、お狐さまが目を丸くした後、ゆっくりと破顔した。
「お狐さまにロマンなんて求めてませんから、そういうのいい加減禁止! たまに顔出すたびにそんなの言われる私の身にもなってよね」
まったく! 相手がいなくて寂しいのはわかるけど、来るたび来るたび皮肉だか冗談だかわからない言葉をかけられるなんて、そんなのちっとも面白くないんだから。
私が珍しくお狐さまを諫めると、これまた珍しいことに、お狐さまがちょこんと頷いてくれた。
「ああ、うん、……はい」
「よろしい」
私が納得したところで、タイミングよくチャルメラさんの音が聞こえた。今度は真下。
「じゃあ、この話はおしまい! 私ラーメン買ってくるから、逃げずに待っててね」
お狐さまの頭をひと撫でして立ち上がると、名残惜しそうに尻尾の一つが足に伸ばされた。
「すぐ戻ってくるって」
よっぽどラーメンが待ち遠しいのか、残りの尻尾もゆらゆら揺れている。
今から食べてると、きっと帰りは遅くなるだろうけど、たまには許してもらおう。
なんたって、お狐さまがこんなに嬉しそうなんだから。
「もちろん。ちゃんと冷める前に持ってきておくれ。いってらっしゃい」
おとなしくなったお狐さまが、私にお見送りの言葉をかける。いってらっしゃい。そんなことを言われたのは初めてだ。
お腹のあたりがくすぐったいような、不思議な感覚。
「うん」
立ち上がって、私は鳥居をくぐった。スキップしそうに軽い足取りで。
きっとチャルメラさんのラーメンには、プレゼントボックスみたいにラッピングされた、オーロラみたいに七色の、なにかロマン以上の宝物が詰まっている。そんな予感がする。
「お狐さま、いってきます」
でなきゃ石段を下りる私が、こんなに幸せなはずがない。