私が一番欲しかった言葉
月夜に開かれた賑やかな舞踏会ーー紳士淑女がダンスを披露する中、伯爵令嬢であるロウェナ・キルガーロンはひとり、外の庭園で涙を流していた。
「すまない。婚約を破棄させてほしい」
「愛する人ができた。彼女と人生を共にしたい」
婚約者ーーいや、元婚約者であるカーク・ハドルストーンに言われたことを思い出す。
「どうしてっ…?」
呟くと涙がさらに溢れ出した。
初恋だった。それが一方的な片想いだったとしても。
分かってたのに。婚約は形だけのものだということも、彼が私を愛してないということも。彼に本当に愛する人ができたら、簡単に婚約破棄して私の前から去っていくかもしれないということも。
私はただ、そばにいたいだけなのに。
なのに。
ふと、自分に近づく足音が聞こえ、ロウェナは顔を上げる。
そこに立っていたのは、1つ年下の義弟のヒューイだった。
サラサラしたブロンドヘアーに青い瞳を持つ彼は、普段その整った美しい顔に人好きのする笑顔を浮かべ、令嬢たちを騒がせているというのに、ロウェナを見下ろすその表情は酷く冷たかった。
あぁ、そうだ。
ロウェナは思う。
義弟は私を嫌っているんだから。
ヒューイ・キルガーロンは私の義弟だ。
彼は優秀だった。勉学にしても剣術にしても、家庭教師や剣の師からもお墨付きを貰うほどだった。
それに加えて人柄も良く、義父母である私の両親との関係も良好で、使用人からも慕われていた。
次期伯爵家当主に値する器ーーそんな彼だったが、なぜか義姉である私には冷たい態度をとっていた。
普段は屋敷内ですれ違ったときの挨拶程度のやり取りはあったが、食事の時間をずらされる、話しかけても質問に対する回答しか返してくれない、などの最低限な付き合いしかなかった。
それも、人目につく場面ではの話。
実際、無視されたり、目が合ったら睨まれることもしばしばだった。
避けられるようになったのは、いつからだろうか。
ヒューイと出会ったのは、私が10歳、ヒューイが9歳の時だった。伯爵家当主である私の父が、家を継がせるために跡取りとして養子に迎え入れた少年、それがヒューイだったのだ。
当時一人っ子だった私は義弟が出来たことが嬉しく、ヒューイを構い倒した。
最初は無口で無愛想だったヒューイも、共に勉学に励み、遊び、ケンカをし、多くの時間を過ごすうちにすっかり仲良くなった。
ずっとこの良好な関係が続くのだと思っていた。
そして、私が13歳の時に、婚約者ができた。
相手は、1つ年上の侯爵家のご子息で、名をカーク・ハドルストーンといった。
なんでも、私の父と彼の父が同期の友人らしく、子供同士で婚約させるのはどうか、という話になったのが婚約の理由らしい。
その頃から、ヒューイは私を避けるようになった。一緒に過ごす時間が減り、会話も無くなっていった。
「ねぇ、どうして私を避けるの?私は、また仲が良かった頃に戻りたいのに」
痺れを切らした私は、ヒューイの腕を掴み、問い詰めた。
ヒューイは、冷たい目で私を見る。
「…何も分かってないのですね。僕はこんなに貴方のことを…」
そう言いかけてから、自嘲的な笑みを浮かべて、
「とにかく、もう貴方と関わる気はないんです。話しかけないでください」
そう言って私の手を振り払った。
背中を向けて去っていくヒューイの背中を、私は呆然と見ていた。
どうしてなの?そう問い詰めたかったが、また手を払われるのが怖くてできなかった。
それからは、私からも話かけなくなった。
急に避けはじめた私達を両親も心配するが、ヒューイの態度が変わることはなく、そのまま月日が流れていった。
晴れた日の午後。花と花の間を縫うように舞う蝶を見て、私はため息をつく。
「どうしたんだい?ため息だなんて」
「カーク様…」
私は婚約者であるカーク様と庭園でお茶を飲んでいた。
庭園では色とりどりの花が咲き乱れ、一層春の陽気さを表していた。
昔はヒューイと蝶を捕まえようとして庭を走り回ったな…なんて考えていたら無意識にため息をついていたらしい。
「あっ…ごめんなさい!ちょっと考え事をしてて…」
ため息なんかついたから退屈してると思われたのかもしれない。
「何か悩み事でも?」
カーク様は心配そうに私の顔をのぞき込む。
「いえ、何でもないんです。お気遣いありがとうございます」
そう言って笑いかける
黒い髪に黒い瞳。騎士のような鍛えられた体
私はカーク様に恋心を抱いていた。勿論、この婚約は親が決めたことだし、カーク様が自分に対して何の感情も抱いてないことも理解していた。
そうか、とカーク様が優しく笑い、私の頭を撫でた。
胸がズキッと痛む。
彼が優しいのも、私が「婚約者」だからであって、私を愛しているからじゃない。
自分の思いは一方的なものだと思うと、底知れぬ虚しさを感じた。
それでもーー私は思う。
それでもいつかはこの人に愛されたい。愛し合って生きていきたい。そう望んだ。
だが、その望みが叶うことはなかった。
「すまない。婚約を破棄させてほしい」
婚約してから4年がたった時の事。
私は17歳になっていた。
この日は私の住んでる地方で最も大きな舞踏会が開かれていた。
何曲目かのダンスが終わった頃、私は「話がある」とカーク様にバルコニーに連れ出された。
そこで急に婚約破棄を告げられる
いきなりのことに驚愕を隠せない。
「…どうして?」
かすれた声で問いかけた。
心当たりがなかった。私は彼に嫌われるようなことをしてしまったのだろうか。
カーク様は気まずそうな顔をして、こう言った。
「愛する人ができた。彼女と人生を共にしたい」
愛する人ーーその言葉に、息が止まりそうになる。
「本当にすまない。勿論、家同士の付き合いは今までと変わらないし、君が望むなら慰謝料だって払う。だから」
許してくれ、と彼は言う。
私は俯いた。
もともと婚約は形だけのものだし、破棄するのは簡単だろう。
格上である侯爵家の彼が婚約を破棄したいと言うのなら、私は従うしかない。
私も惨めに泣きつくような真似はしたくなかった。
「…わかりました。手続きを、お願いします」
はっきりした口調で言うも、涙が溢れそうになる。
「では、ご機嫌よう」
そう言ってその場を後にした。
そうして今に至る。
月明かりに照らされたヒューイが私を見下ろしている。
泣いてるところを見られるとか、気まず過ぎる…
それもよりによって、私を嫌っている義弟に見られるだなんて。
私は急いで涙を拭った。
「なに、泣いてるんですか」
ヒューイはいつもより一層低い声で問う。
普段ヒューイから話しかけてくることなど皆無に等しいので、こんな状況でなければ会話に食いついただろうけど、正直、今は構わないで欲しかった。
「…関係ないでしょ」
そう思って顔を背ける
ヒューイはさらに近づいてくる
「あの男のせいですか?あの男のために泣いてるんですか?」
あの男とは、カーク様のことだろうか。
私は顔を上げて、ヒューイを見る。その顔は、怒っているように見えた。
「婚約破棄、されたんですよね?しかも一方的に」
私は首を傾げる。さっき話しているのを聞いていたのだろうか。
「…ヒューイ?」
様子がおかしい。ヒューイは普段、人前で感情を出したりしない。私の前ではたまに嫌悪感を見せるが、ここまであらわにしたことはなかったはずだ。
「ならば、もう気持ちを抑える必要はありませんよね」
ヒューイはそう言うと、私の手首を掴み、体を引き寄せた。
「きゃっ…」
いきなりの距離の近さに戸惑う。
久しぶりに至近距離で見た綺麗な顔、いつの間にかできていた体格差に急に彼が男であることを意識する。
「えっ…ちょっと…」
離れようとする私にヒューイは腰に腕を回し、頭を押さえ込み、噛み付くように口づけをする。
「…!?」
突然のことに頭が真っ白になる。
「んっ…う…」
唇を割るように舌が侵入してきて、口内をなぞられる。
息苦しくなるほどの刺激的な口づけに頭が回らなくなる。
ヒューイの唇が離れた頃には、呼吸が乱れていた。
「…ずっと、我慢してきたんですよ…?」
ヒューイの美しい手が私の頬を撫でる。
その彼の表情がひどく愛しげで。
まるで私への愛情が隠しきれない、とでもいうようなその様子に私は戸惑う。
カーク様にもこんな顔で見られたことがない。
「ヒューイは…私のことが嫌いだったんじゃないの?」
ずっと避けてたくせに。あの時、手を振り払ったくせに。
ヒューイは驚いたように目を見開く。
「嫌い…?なぜですか」
「だって、私のことを避けてたじゃない」
あぁ、とヒューイは皮肉げに口元を歪める。
「貴方がそばにいると、感情が抑えられなくなりそうだったからです。貴方に触れられると、理性が飛びそうだったからです…」
そっと瞼に口づけされる。
「…貴方に婚約者ができたときに気づいてしまったんですよ。貴方が好きだったことに。でも、貴方があの男といることで幸せになれるなら、笑っていられるなら、身を引くつもりでした。なのに」
ヒューイは声を一層低くして言う。
「あの男は貴方を蔑ろにした。なら、僕はもう遠慮したりしません」
殺意を感じるほどの冷たい表情に、一瞬呼吸が止りそうになる。
「義姉さん…いや、ロウェナ」
ふいに、真剣な表情で見られる
「愛してます…貴方のことを」
甘い声で告げられる。
愛してるーーその言葉に目を見開く。
「僕だけを見ていてください。その笑顔も、涙も、全て僕にください」
そう言って私を見つめる瞳から彼がどれだけ真剣かが痛いほどに伝わってきた。
思わぬ発言に胸が高鳴る
「ヒューイ…」
潤んだ瞳でヒューイを見つめる。
愛してるーー私が一番、欲しかった言葉だ。
私は自分が思っていた以上に強く、愛されたいと望んでいたようだ。
私が愛していたカーク様は私を愛していなかった。それがどうしようもなく虚しくて。
本当は、愛されたかった。求められたかった。
私は無意識のうちに感情を押し込めていたことに気づく。
「私も…愛してる」
そっとヒューイの背中に手を回した。
義理とはいえ姉弟での恋愛が許されるはずがない。それでも。
私は愛されることによるこの満ち足りた感情を知ってしまった。
もう、どうなってもいい。今だけはこれからのことを何も考えずに、彼に酔いしれていたい。
そう思って目を閉じた。