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『ぶく』という名の猫

作者: ツネタヨル

夕方の四時から五時の間に、この住宅地の様子は大きく変わる。

昼間は夏の暑さから逃れるためか路地に人の姿は少なく、

白いレースのカーテンがそよそよと舞う家々から

テレビドラマの再放送の台詞が聞こえてくる。

夕方には買い物に出かける主婦や

野球帽にアイスクリームを手にした夏休みの子供達、

外壁に吊るされた沢山の鉢植えに如雨露で水やりをする老婆達が挨拶を交わしている。

蝉時雨や風鈴の音色も重なり、町はそこそこの風情を提示してくれるが基本的に物静かな町だ。



私はこの町が午後の眠りから覚め、再び動き始める時間に出戻る事が多い。

朝が早い仕事の為、昼の三時にはお役御免となるからだ。

会社の中の人達に、あたかも心のこもったような挨拶を済ませ、

タイムカードをがちゃりと押し込み、銀色と水色のラインの入った電車に三十分程揺られ解放される。


駅前のスーパーで夕餉の買い物を済ませ、五分も歩くとだいたいこの景色に出くわすのが日常だ

住み着いたばかりの頃は、普通より少し早い勤め人のご帰還に、

主婦達から遠慮なく向けられる怪訝そうな視線が気になったが、

今では軽い会釈をする程度になっていた。


私は昔所帯を持った事もあったのだが今はもう止してしまっている。

双方がその手の暮らしに不向きだと言う事情もあったのだろうが、

早い話、三行半を突きつけられ、或る日出て行かれてしまったのだ。

なので本当は止したという表現ではなく、向こうから止されたのだ。

選択権など私には無かった。止された側だ。


しかしこんな陳腐な話は、いまやどこにでも転がっている日常会話だし特に注釈をする気にもならない。

誰もの想像通り、簡単なトラブル事例だ。



それからの私は一人暮らしだ。

家賃の安いワンルームマンションで生活レベルを落とし、

自分の事だけ考えていれば良い暮らしを楽しんだ。

好きな時に食事をし、好きな時間に家に帰り、好きな時間に眠る。

毎朝の会社というボンクラとの待ち合わせだけに留意していれば

二日酔いだろうと寝不足だろうと好き勝手に過ごせる時間を得た。

すべてがどうでも良かったし、気に入っていた。

お一人様万歳だ。


その街の夜の歴史を編む細い横町では小さな赤提灯に寂しがり屋達が毎夜の様に集まり酒を飲む。

基本的には男性客が曇った目つきでテレビを見上げあーだこーだ言うだけの集いだが、

中には女性客一人でも気軽に立ち寄れる店が数件あり、やや色めいた会話が産まれる夜もある。

しかしそこは妙な村意識が働くコミュニティーが故、

そのコマをひとつふたつと進めるには大きな決意と義務の必要な面倒な出会いばかりだったので、

ほとんどの夜の住人達は、目の曇ったままのやもめのままで居た。

とにかく私は数年間、皆と同じように目を曇らせ横町のやもめ住人となっていたのだ。




さて、

今、私はこじんまりとした戸建て借家の二階からこの地球の天体ショウを見ている。

昔の長屋を空から特大のナイフでケーキカットする様に二間幅の見事な等分にスライスし、

戸建てと呼びながらも隣と所番地が同じというまさに鰻の寝床な住宅でだ。

二階には畳二畳ほどの物干し台があり、

入居時の賃貸情報に『広めのバルコニーあり!』と書かれこの物件の売りとされていた。

そのバルコニーに椅子を出し、夏の夕暮れを眺めるのがここ最近の楽しみだ。


この家を選んだのには理由がある。

それは猫のためだ。決してバルコニーの為にではない。

階段があり、広さのある暮らしが猫には良いだろうと、

先月条件が整ったために引っ越して来たのだ。


私と同居する猫は真白い毛並みで目の色が左右とも違う。

左の目が黄色で右の目がブルーだ。

後に調べると猫好きな人たちの間ではオッドアイと呼ばれている珍種のようだが、

劣勢遺伝という話もあり、体調を崩し易いとも聞いた。

今のところはぴんぴんしている。


この猫との出会いについて書いておこう。


去年の秋、生まれたての三匹の兄弟猫が段ボールの中に毛布を敷かれ捨てられていた。

九月の終わり、まさに夜達はそろそろ本腰を入れて冷え込んでやるぞと意気込む頃合いだ。

私は小さな神社の鳥居の下に置かれたその鳴き声をどうしても無視する事が出来ず、

後先考えぬまま段ボール毎部屋に持ち帰ったのだ。

夜には例の横町でサッカーのワールドカップ予選を観戦するという

なんとなくで、しかも破ってもまったく支障のない柔らかな約束をしてはいたのだが、

どうしてもその段ボールを放っておく事が出来なかったのだ。


私は猫の事など何も知らなかった。

猫と云うものは猫が好きと公言している人たちだけに扱える生き物であり、

興味を持たぬ者に猫との出会いなどはあり得ないと思っている節があった。

ましてやこんな産まれたての命3つなど、目の曇っためもめの手に負える代物ではない。

どうして良いかも分からずしばらく呆然としていると猫達は火がついたように泣き出した。


私は慌てて例の横町で猫が好きだと公言しているsに電話で相談する事にした。

sはサッカーが今始まったところだと言い、早く来いと言う。

君はあと何分でここに来れるんだと声を荒げ、好き勝手に電話を切ろうとした。

もう酔っているんだな。。。

私はヤツの会話の隙間になんとか潜り込み、猫という単語をsの耳にぶち込む事が出来た。


『すぐに身体を温めて動物病院へ連絡しろ』とsはサッカー応援のテンションそのままに言った。

いらないタオルをそれぞれ一枚づつ与え、電気ストーブの前に段ボールを置いた。

タオルで身体を包み順番にさすったりしてみた。

猫は命の限り叫んでいる。まるで私が何か犯してしまった罪を叱責するかのような強い口調で。

しかし考えてみれば捨てた人間も拾った人間もどちらも人間という事であれば三匹の想いは分からなくもない。

憎まれて叱責されてしかりだ。

しかし黒いブチのはいった子だけはあまり鳴かなかった。


動物病院をインターネットで調べすぐに電話をする。

動物の先生曰く『すぐにつれて来なさい』との事だったので、

新しい段ボールに移し替えた彼らを連れて(持って)帰宅で歩いた道を今度は逆に辿った。

動物病院の場所は毎日の道すがらにあり、

以前より犬と猫の描かれた看板を見ていたため迷わずに辿り着けた。

看板の犬はミニチュアシュナウザーのシルエットのみだが、

猫はイラストで描かれていてアニメタッチで大きなリボンを付けて左目でウインクをしている。

その統一感の無さは秀逸だった。


動物の先生は無機質な台の上に段ボールをすとんと置き、一匹づついろいろと調べた。

まるで生きていない物をいろいろな角度から見るように手際良くくるくると調べた。

『よく振ってお飲みください」

と書いてある缶ジュースを振るかの様に50過ぎの動物先生は猫を調べた。

二匹についてはミルクを与えるようにとアシスタントの女性に指示を出したが、

鳴かない一匹については首を振った。

その夜から私は二匹の面倒に明け暮れる事となった。



sは翌日やって来た。

電話でここの住所を聞き出すと自転車で缶ビールを持ってやって来た。

私は一匹はダメだったこと、動物病院はとても高額だったこと、

昨夜はすやすやと寝てくれたと思ったら明け方にまた叱責するように泣き出した事などを話した。

sは十一年連れ添った猫をおととし亡くし、暫くは生気を失ったガラクタの様になっていたそうだが

最近ではまた猫との暮らしを考えていたとの事で、私の話など聞く耳を持たずに猫を指先でなでたり

毛布の位置を甲斐甲斐しく直したりしていた。



猫達は段ボールの外の世界に興味を持ち始めた様でよちよちと這い出ようとするが

まだうまく歩けずにぼてぼてとタオルの上で転んでばかり居た。

おそらくまだ目もよく見えていないのであろう。


sが意を決めるまでそう時間もかからず、一匹(雌)の方は彼が引き取る事となった。

まるでsには始めからその気で来たような潔さがあったが、これも運命なのだろうと快諾した。

(そもそも私に断る理由はない)

sは『もう一匹はどうするのか?』と尋ねて来た。

私はそこまでは考えて居なかったが、飼うという決意もまだ無く、

たった一晩の彼らの命がけの叱責による寝不足で自信や責任みたいなものは崩壊していると正直に話した。

sは『わるいけど二匹は面倒みれないな、ぜひ君が飼うべきだ』と語気を強めそう言った。

私は病院の先生が言っていた『里親募集とかも出来ますからね』という言葉を保険としていたので、

sの強い言葉にそれを見透かされたのではと想い、少なからず動揺した。


sは猫をつれて帰るそぶりも見せずに帰り支度を始めた。

なんでも三ヶ月位は一緒にしておいた方が良いとの事で今日は連れ帰らないという。

なんでも子供のうちにじゃれ方を覚えておかないと大人になってから噛み付いたり引っ掻いたり

加減を知らない子になるらしい。

私は「それは困る、頼むから連れて帰ってほしい」と懇願するもそれは出来ないといい

明日また来るよとさっさと帰ってしまった。

私はまた彼らに叱責されながら病院で買ったミルクを暖めた。



sは背中に一本の黒いラインの入った子を選んだ。

名前ももう決めてあるといい翌日にはその子をシュニと呼んだ。

理由はなにか小難しい事を言っていたが忘れてしまった。

私はもう一匹を飼うつもりになれなかった為、名前はつけずにいた。


二匹は日に日に身体が大きくなるのと反比例し、あまり鳴かなくなった。

毎日、取っ組み合いをしているか、走っているか、眠っているのか、食べているか、

まぁその内のどれかだった。


そんな賑やかな三ヶ月間のうちに、病院でシャンプーやワクチンの注射などを済ませた。

sは『シュニの分は負担するよ、君の猫は君が払いなよ』とすっかり私の猫にしてしまっている。


しかし私は猫を飼う事にしたのだ。

決意を決めたのは極めて単純でゲスな理由があった。

ある夜夢枕に真っ白な猫が現れその姿がなぜか若い頃に一緒に過ごした恋人と重なったのだ。

『そういえばあの娘、猫に似ていたな』

単にそれだけ、たったこれだけの理由で私は白い命を預かる事にしたのだ。

以来、夢の中で再会する猫(昔の彼女)からは、たわいもない話を聞かせてもらっている。

学食がまずいとか、友人が海外旅行でスリにあったとか、

あたらしい靴を買ったら足の形に合わずに小指の横が痛いとか、

ドライヤーが壊れたとか。

それは懐かしい懐かしい景色の中で猫の話を聞いているのだが、

突然リアルな猫達に足を引っ掻かれ、眠りから覚まされてしまう。


動物とは言え名前をつけるのはやや緊張した。

考えすぎると決めかねるので直感で決める事にした。

まさか昔の彼女の名前もあるまいし、しっくりくるのを探さなくては。

そもそもこの白猫は雄なのだ。雌ではないのだ。

よって名前は男性らしい方が良いんじゃないかと考えた。


たまたま読みかけていたチャールズブコウスキーの文庫カバーが目にとまり、思い切ってぶくと名付けた。

目つきの鋭さがなんとなく似合いだなと思ったが、カタカナ表記ではなくひらがなを選んだ。

外国で拾った猫ならば外人、日本で拾ったならば日本人、

そんなイメージが私の中では根強い。だからせめてとひらがなにした。

ぶく、まぁいい名前のような気がして来た。



sは毎晩のように部屋にやって来てはシュニとぶくと遊んでいた。

手ぶらでは悪いからと食料やワインなどを買い込み、夕飯を一緒にする事が増えた。

私の静かな一人の暮らしは一変した。

シュニはとても臆病で、大きな物音がすると決まって部屋に備えついているクローゼットの中に隠れた。

ぶくはあまり気にしていないようだがシュニが走るのでそれを追いかけてクローゼットに走っていく。

そんな様を笑いながら、私とsは酔っぱらっていった。



「そろそろ離した方がいいかもな」

その年の暮れ、急にsはシュニを連れ帰った。

広くなったような部屋に残された私とぶくは、何とも言えない気分になった。

胸に穴があいたような、そんな陳腐な表現が似合う景色となった。



ぶくは部屋の中をうろつき廻り、あちこちの匂いを嗅いだ。

兄弟と離した私(人間)の罪を叱責するように強く鳴いた。

『環境に慣れるには出来るだけ一緒に居てあげたいからお正月休みは全部シュニに捧げる』

そう言っていたsも私と同じようにシュニに叱責され続けていたらしく、

世間がまともに動き始めた頃さんざんだったと電話で泣いていた。

前に共に暮らした猫はとても大人しい性格で、いつも寝そべって居るような子だったらしく、

シュニの寂しがり方や暴れ方は想像を超えていると嘆いていた。


ぶくもその状況はだいたい同じであったが、徐々に性格に穏やかさが見え始めた。

カーテンの隙間から差し込む木漏れ日の中に身体を上手く縮め、気持ち良さそうに目を細めていたり、

タンスの上に上がりソファで本を読む私を見下ろしてみたりと、

じっとしている時間が増えて来た。



しばらくsからの連絡もなくなり季節は卒業だの入学だのを言う時分にさしかかっていた。

そんな頃だ。sが逮捕されたと連絡が入ったのは。


電話口の向こうの弁護士だと名乗る男は、極めて事務的にこう言った。

sは会社の車を運転中、居眠り運転が原因で小学生をはねてしまったというのだ。

後方を走る車の運転手の証言で数十メートル前から蛇行運転をしていたらしく、

それが逮捕の決め手となった。

小学生は腰の骨を折る重体で余談を許さないらしく、sは居眠り運転の事実を認めているとの事だった。

弁護士はsさんからの伝言を預かっていると切り出した。

『あなたにシュニをお願いしたいとの事です』


私は電話を切るなり電車でsのマンションへ向かった。

彼の部屋に来た事は無かったので、弁護士に聞いた住所を

スマートフォンのgpsで検索しながら、迷い迷いなんとかたどり着いた。


四階建ての三階のカド部屋が彼の空間だった。

彼の部屋の扉は、主を無くした生活感の失われた冷たい空気に包まれている。

ここの中にシュニはいるのだろうか。

そう思いドアのノブをがちゃがちゃまわしてみるが

しっかりと施錠され開く気配はない。

弁護士に電話してどうするか聞いてみるべきか、そう思いスマートフォンを手にした時、

小さな視線に気がついた。


マンションから見下ろせる駐車場に停めてある誰かのセダンと誰かのワゴンの間の隙間に

背中に白いラインを蓄え、黒い首輪をつけたシュニの姿があった。

彼女は酷く汚れ痩せているようだったが、しっかりと私を見つめていた。

外を歩く猫になっていたのか、誰にも頼れなかったのだろうか。


私は階段を駆け下り駐車場に走り込むとシュニを呼んだ。

シュニは姿勢を低くし、目を見開き、警戒を緩めない。

かがんで数歩近づくも一定の距離に達すると逃げる姿勢を見せる。

決まった距離以上には近づかせないと言った彼女の決意が感じられた。


私は近くのコンビニでキャットフードを数種類買いこみ駐車場に戻った。

シュニ、、シュニ、俺だよ、わからない?

キャットフードを地面に置くと、ようやくよろよろと近づいて来た。

これが本当にぶくの兄弟なのかと思う程、シュニのやつれた姿に私は言葉を失った。

かりかりと罠のえさを口にするシュニを見つめ、そろそろかと思い私は手を伸ばした。

シュニは捉えようとする私の手をぎりぎりのところでかわし逃げた。

疲れきった身体からは想像出来ない程、まるであの日クローゼットの中に走り込むように

一目散にその場を離れたシュニはブロック塀の上で一度だけ振り返ると

私に声のない「にぁー」の口を開き塀の向こうへ消えてしまった。

そこからいくら探してもシュニの姿は見えなかった。


私は余ったキャットフードを手に自分の部屋へと帰った。

ぶくは何も知らずに呑気にあくびをし私のうしろを尾を立てながらついて歩き食事を催促した。

私はシュニの為に買った罠をぶくにあたえ頭をなでた。



私は今でも週に二度はあの駐車場を訪れるが、

あれ以来シュニの姿は見ていない。

だから私はsの頼みを果たせないでいる。


申し訳ない。


彼への手紙に素直にそう書いた。


今、sは交通刑務所にいる。



ぶくはこの夏また一回り大きくなった。

ぶくは外の世界を知らない。




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