海底から望む景色は
昔から夢見てきたことがある。
その夢を形作ったのは、母だった。しかしそれはあくまで一人の女性がそう名乗っていただけであり、彼女に母親らしく扱われた記憶はおそらく無い。もっとも、「母」という存在について多くを知っている訳ではないけれど。
彼女も、単なる遺伝子提供者でしかない、と言っていたのだから、僕の方にだって子供らしくする必要はないだろう。
感情は、一人の人間に対してのものでしかなかった。
懐かしいことを思い出して眼を細める、そんな昼下がり。あの人は今、どうしているのだろうかなんてセンチメンタルに浸ったりして。
なんとも穏やかな午後だった。
世間一般には時間帯は太陽の位置で決まるらしいから、本当は午後で正しいか分からない。ここの時計が午後を示しているので、そう言うしか無いのだけど。
平穏の理由は、どこかの空調設備の調子が悪いとかいう一大事による。その地区の人にとっては御愁傷様だ。しかしこちらからしたら万々歳。おかげさまで午後のプログラムはあらかたつぶれた。
柔らかい風が吹いた。こちらの空調は問題ないらしい。
風を心地よく思う僕と反対に、隣の少女は思いきりしかめっ面をする。曰く、「人工的で生温い」だそうな。
人工的と自然的の違いが分かるなんて、何ともうらやましい限りだ。そう思いながら、少女を見る。
「……何よ」
「いや、何も」
少女は全体的につるりとしていて、生物感に欠けていた。これは僕でも分かる。
何度も殺されかけたらそうなる、との弁。いわゆるファンタジーの中で生きていそうだなと当時は思ったものだけど、遺産相続でもめた結果という事情をあえなく知った。生活感にあふれた何かを非生物的な彼女に見いだした代償は理不尽な興ざめ感。そういうのは、いらなかった。
もしかしたら非生物的、という単語は賞賛を意味しないのかもしれない。しかし間違いなく、少女は人体模型の一つよりは綺麗だ。口に出したら首を絞められること間違い無しだが、これでも褒め言葉が見つからない中でがんばったと思う。
特に彼女の髪、漆黒は素晴らしい。が、漆というものを見たことが無かったので前言を撤回した。烏の濡れ羽と賞したいところだが、それもどだい無理な話だった。
外から来たというこの少女は語り部その二であり、僕の班員であり、友人に定義される。最後は『多分』。一体全体どういう考え方をしているのか、なかなかに理解しがたいのだ。
そうして数秒間、彼女について何度も繰り返した考察を繰り広げる。毎度お決まりの時間つぶしだ。
彼女がしびれを切らす。
「だから、用があるなら言ってみなさいってば」
待ち望んだ台詞は呆れを含み、眉は僅かに寄せられている。けれどもその声音は、いつもよりずっと柔らかい。なるほど、休息が嫌いな人間はやはり少数派なのだろう。
「いやいやたいした用件は無いんだよ」
いつもとちょっとだけ違う昼下がり。建造物な地平線の先に映るのは、いつも通りの深い深い色。
僕も彼女も、今日は少し機嫌が良かった。
「ただ、外の世界に出て行こうか、って言おうかなと思っただけだ」
何気無いふりを装って僕は呟く。
彼女は無言のまま、眼を見開いた。
広い広い海の底で、小さな研究施設のその一角で、閉鎖的な静寂は案の定いつもと変わりない。
その中で、僕はまぎれも無く空想十割で構成された波の音を幻聴した。
「ああ、そうなの」
温く淡白な声音で無情な返信。
「わたしはいや」
ばっさりぐっさり。僕の心は傷ついた。
誘いを断れるのは想定内だ。だけど憎々しげに顔を歪めて、真っ正面から見つめられつつ唾棄されるなんてあんまりだった。
ここから先、どうやって話を進めようかと困り果てたときに、後ろから新たな声がした。
「あれ!? 断っちゃうの?? もったいないなあ……」
そこには笑顔の少年少女約一名。
年齢性別ともに不明な語り部その三は、素顔のままにピエロめいた笑みを浮かべていた。
「やあ、久しぶり」
アルトとテノールの間の声で、明るく呼びかけられる。
「でた若白髪」
彼女は露骨に嫌な顔をした。機嫌は今まさに、本日最底辺。非常にまずい雲行きだ。
「うわぁ……ボク、嫌われちゃってるよ」
大げさな身振り手振りで、白髪まじりの頭を抱える。一貫として笑顔のままなのだから、ピエロメイク説はあながち間違いでもないのでは、と考えた。
この人もまた、外のことをよく知っている人間だ。しかし積極的に語ることは無く、また配置区域が近いとはいえ別であるため、こうして顔を合わせることも少ない。
だけど僕は、昔から顔を知っており、付き合いは少女よりも長い。問題発言ぐらい、見逃してくれるだろう。見逃してほしい。
「さっきのは聞かなかったことに……」
「いやいやいや、するわけないって」
即座の否定。憎らしいほどの笑顔。
「こーんな楽しそうなことなのに、ねえ?」
「同意を示してほしいのならそれはできないわ」
彼(暫定)は少女に問いかけたが、相手にもされなかった。しかし追い払おうとしないあたり、彼女も本気で嫌っている訳ではないのだろう。
冗談めいた、僕の不穏な発言は空気にかすみかけている。
だから。
「じゃあ、改めて」
それだけで、もう図る必要性なんてなくなる。
「僕は君たちと、外の世界に行きたいんだ」
奥底にしまい続けた本音をぶちまけた。
彼女は真面目な顔で問う。
「なんで?」
僕は精一杯の誠実さを込めて、答える。
「それが一番、出られる可能性が高いと思ったから」
彼は通常通りのいたずら心を込めた言葉で呟く。
「君らしいねえ」
彼女はすっと立ち上がり、僕の目の前に立った。数秒間無言で眼を合わせる。
眼を見たら分かる、なんて嘘っぱちだ。僕は彼女が何を考えているのか分からない。ただ、何を言い出すつもりだろう、と緊張で少しばかり肺が閉めつかられるような感覚を味わうのみ。
「だったらわたしは、あなたを全力で阻止するわ」
その返答は前回よりも力強く真っ直ぐで、あまりに誠実すぎた。彼女の意思は固く、気味の悪ささえ覚えるほどにこやかな彼は傍観に徹している。
「ボクは敵ではないけど味方でもないからね」
彼の口癖が今は異様な圧力を伴っている。僕は苦笑するしか無い。
降りた沈黙に与えられたのは彼女の僅かな慈悲。
「……一応、聞いといてあげる。 なんで?」
今度の質問の意図は、本音の後半部分にかかっていた。
説得力は諦めて正直に。
「憧れ」
「少なからずわたしの責任か……」
彼女は額を押さえた。僕の好奇心に実直に答えた、それは確かに一因だ。
「それもあるけどね、ふと思ったんだよ」
疑念を彼女の耳に囁く。
夢を抱き始めた同時期に、芽生えた考えを。
「ここは、いわゆる牢獄なんじゃないかと」
彼女が規制ぎりぎりの範囲で語った、たわいも無い話が暗に示しているような気がしてならなかった。
「ええそうね」
間髪入れず、肯定。『だからなんだ』というように。彼女の肯定は相も変わらず無機質だった。それは僕の迷い含めて諸々を穏やかに否定しにかかる。
「わたしがあなたの誘いを断る理由はそれ」
「牢獄という言葉の『出れない』という部分、逆に容易く『入れない』もかねてる訳よ」
「わたしが外に出れば、あっという間に身内に背中を撃たれて終劇だもの。 こちらの方が安全に決まっている」
「ここが何だろうと構わない。 むしろ牢獄万歳よ」
つまるところ、僕は人選を間違えたということだ。奇妙なほどに、受け入れるのは早かった。
ため息。
「楽しそうに外のことを語るものだから、すっかり勘違いしていたよ」
「普通に生きていたら、楽しいことぐらいあるわよ」
人生の九割を過ごした場所に楽しい思い出も九割存在するのは道理というものか。
しかし彼女は大事なことを忘れている。
「でもそれは、僕を阻止する理由になってないけど」
彼女はバツの悪そうな顔をして、にやにや笑いをしながら楽しい観賞を決め込んでいた人は一層喜色を濃くした。僕はと言えば鏡が無いので分からないけど、おそらくいつも通りだろう。二人のどちらとも、違うのだけは確実だ。
「あなた、前聞いたでしょ」
とてもとても言いにくそうに、そう言った。
「外には私たちみたいのが沢山いるのかって」
「覚えてるよ。 確か君は『だったら大変なことになっているわ』とでも答えたんじゃなかったかな」
彼女は渋い顔で頷く。
「あれは、ね。 ある観点から言えば正解で違う観点からでは不正解になるの」
「君たちみたいなのは、沢山いるという訳か」
彼女の指している観点が何かは分からないけど、僕にとって都合が良くはないのだろうと察した。
それは、困る……のだろうか?
「あなた、わたしが断ったのを聞いて何を思った?」
「そうだね、潔すぎて困ったな」
「ほら、その程度なのよ」
彼女は僕に背を向けた。
「ここに残っているというのは程度はあれど、この場所が暮らしやすいということで、そういう返事をするというのは……あなたは全てを投げうって、二度と戻れないことを覚悟して、どんな形であっても外で生きようだなんて考えてないということ」
ただ淡々と、僕を見透かして述べる。そして僕は、納得を得る。納得したこと自体が、僕の夢は単なる憧れの域でしかないという事実を示していた。
「促進してしまった側としては、阻止するしかないじゃない」
『決まりだから』『いけないことだから』。そんな味気ない理由ではなくて、僅かに危なげな要素を含みながらの言葉は、彼女の誠実さを映していた。だから僕は、肯定する。生物的な今日の彼女を肯定する。
「そうだね、君は正しいよ」
仮にここが牢獄というべき場所だとしても、僕の幸せの十割はここにある。その十割を賭けてまで、外の確定的ではない幸福を求めるほどの情熱は『ある』と言うに値しなかった。
そうしてあっけなく、僕は夢を否定した。
◆◇◆◇◆
音は、筒の中に閉じ込められたように響く。この場所独特の反響は、どちらかといえば『快』の反対側に位置していた。
くすくすと、白髪まじりの若者は笑う。
「意地悪だねえ」
少女は心外だ、とでも言うように眉をひそめた。
「わたしはあの子のことを考えて言ったのに」
しかしその発言は、ちゃっかりと"あの子"の姿が見えなくなってからのものだった。
若者は無干渉を放り出し、声を上げて笑い出す。
「いやいやもう、さあ……君が言う?」
ふわりふわりと、浮くように歩く。
道化めいた動きで少女に歩み寄り、その顔を覗き込んだ。少女の瞳に、感情の色が映る。
「外に出たくて仕方が無い君が、ねえ」
「何のことだか」
平然と肩をすくめて言った。
「冗談はやめてほしいものですね。 第六研究室長さま」
「あらら、ばれてた?」
「とっくに」
「そっかそっか。 へへ」
なぜか嬉しそうに笑みを浮かべる様子を、少女は理解できないとでも言いたげに見つめる。
「で、実際のところは何で阻止したの」
「それは、命令ですか」
「命令と言えば、答えてくれるのなら」
少女はかすかな吐息を漏らす。
「『あなたはヒトの形をしていない』なんて、言えるわけがないでしょう……?」
少女は悲壮に、若者は明朗に、わらう。
「おやさしいことで」
「……どうも」
感慨の乗らない相づちに、若者はあわてて腕を振った。
「いやいや褒めているんだよ。 てっきりボクはさ」
——無邪気に外を求められるあの子が羨ましくて、
無条件に外に憧れを抱けるあの子が眩しくて、
覚悟無く言い放つあの子が疎ましくて、
出て行けると信じ込めるあの子が妬ましくて、
身が引き千切れそうな思いで諦めた外をあっけなく諦められるあの子がどうしようもなく憎らしかったからだと、
そう思っていたんだけどねぇ?
小さな声は、少女の耳を浸食する。明るい笑みが、少女を照らす。
「ああこれだから、ボクはこの場所を離れられない」
若者は次の論文の題材に、『脱走計画における被験者の心理』に思いを馳せた。その瞳はまるで恋する乙女のようであり、人体模型のパーツのようでもあり、真っ黒な海の底のようだった。
少女は動かない。水圧に圧し潰されたかのように、非生物的なまでに。
ただ、生温い風を送る空調機の音だけが異様に響く。