カグラとエミリア
カグラとなり、桜の化身そのひとでなくなってしまっていても龍神は一途に桜の化身を愛していた。龍神が望んでいたのは彼女の“安寧なる死”。その望みは、彼の本来の寿命を延ばしたのだろう。
―――『還ろう、愛しい桜の化身よ。あなたも我も、既に時を終えている。ただ、その者たちの想いが楔となって絡め取られてしまっただけ』
彼もまた、想いだけで存在していたもの。だから、最後の力を振り絞ってくれたのだろう。
「この笛も多分、彼女たちに呼ばれたんだと思う」
懐に入れていた横笛を取り出して撫でると、小さな生き物はパチリ、と目を開いてくんくんと鼻を近づけた。汚してはいけない、と咄嗟に思い、小さな生き物から遠ざけると怒ったように小さな手で太ももをぺしぺし、と叩かれた。地味に痛い。
「この笛、アスランのところで買ったんだってね。あそこは意志ある物が集う場所。だから、コレも待ってたんだ。今日という日が来ることを。だってこれはカグラの待ちわびていた青年が持っていた笛だったんだから」
いまだ笛を狙っているのか小さな生き物の眼差しはゆるぎない。カグラではなくなったにしろ、そういう名残は残っているのだろうか。狩衣に興味をもっていない、ということはこれは関係なかったのかな、と少し思ったので衣装についてはふれないことにした。
「笛の音が届いたことによって、カグラの中のヒトの女性の心は揺れた。そして、それが合図になった。女性の心と桜の化身の絡まりにほころびが生じた。だからこそ、龍神はやっと桜の化身に会えたんだよ」
―――『我らは、正しい時の中に還らねば…』
彼らの還る場所はどこなのか―――…。それは泡沫の中に消えてしまった。
「桜の化身は龍神と共に―――…。そして、ほどけた先には、ヒトの女性が残された。後は見ていた通り、“彼”が迎えに来た」
もうジッとしている小さな生き物と一緒に笛を見つめる。
「笛の音は、確かに彼女に届いていた。もしかしたら、あの笛の音は、青年が彼女と一緒に逝くための約束そのものだったのかもね」
彼女を亡くしてから欠かさず笛の音を届けていた青年。
水に呑まれるまできっと彼女を想い続けていたのだろう。
彼が笛を吹くというその行動は彼女をその場に引き留めたかった表れなのか。それとも、彼女が彼を呼んでいたのだろうか。
「私の国では、神様を祭るために楽を奏でることがあるの。それを【神楽】というから、カグラも知らないうちにそう名乗っていたんじゃないかな」
笛の音が彼女たちの救いになったのなら、あの青年もなにかしらの力を持っていたのかもしれない。わざわざカグラが【月の君】と言っていたくらいだから。
「彼らは、月に還ったのかもしれないね。この子も上を見上げていたし、今日は満月だし。月兎使が導いてくれるなら、もう迷わないでしょう」
エミリーから聞いていた名前がまさか月の使者そのものだったなんて驚きであるが。
―――《新しき月の主様、しばしこの二人を月の神の元へ誘いますれば、傍を離れること、ご容赦くださいませ》
あれは誰に言ったのか、疑問は残ってしまったけれど。それはこの話には関係ないだろう。
「これが、あの人たちの物語。私の夢も、断片的ではあるから深くまではわからないのだけど、全容はこんな感じじゃないかな。―――つらい想いを、させてしまったね」
風がそよぎ、若葉が歌を歌う。
エミリーは、泣いていた。彼女は声無き声を聴いてしまう。きっと、彼らの声も聴こえていたのではないだろうか。
「今日は四つの夢が終わりを告げた。そう…―――ようやく、終わったの。だから、エミリー。彼らの想いを覚えていてね」
「―――っ、はいっ…」
健気な返事だった。次から次へと溢れでてくるその涙は月の光が反射して、とてもきれいに見えた。
彼女なら、忘れはしないだろう。―――“カグラ”のことも。
「シエル、エミリーをお願い。私は後で戻るから。この子ともうちょっと話をしなくちゃ―――…」
シエルの瞳がこちらを案じているのを感じるが、危ないことはもうないだろう。
私よりもエミリーの立場の方が大事である。人目につかぬよう、ひっそりと戻る必要があるのだから。
ゆっくりと立ち上がって、小さな生き物を抱え直す。身体が鉛のように重いが、そうも言っていられない。葉桜になった桜の木に歩みを進める。
「ルナさま…」
「エミリー、行こう」
「お兄さま…」
兄妹がこの場を離れる気配がする。内心でシエルに感謝する。しかし、急に腕の中のぬくもりがするり、と抜け出した。
「あ――――」
*******
「お兄さま…わたくし、夢って素敵なものだって思っていました」
―――夢でもカグラに会える。ルナ様は、知らない人の夢にも渡っていける。
それはいろいろな出会いがあったということ。それは、エミリアにとっては羨ましいことだった。そして、優しくて綺麗に微笑む彼女を見て、素敵な夢に囲まれているに違いない、とどこかでそう思っていた。だが、実際は―――。
「ルナさまは…いつもこんなお気持ちだったのでしょうか…」
今日聞いた話はどれも衝撃的で、エミリアの心を大いに揺さぶった。
友人であるカグラの真実。そして、四者の想いの強さ。それらはエミリアの気持ちを圧倒するのに十分で―――そしてどれもが消えていったものなのだと思うと胸がすごく締め付けられる。
(それでも、ルナ様はお泣きになることはなかった)
いつもと変わらず優しく微笑んで、彼らの想いを忘れないで、と。ただそう言って。
「わたくしがお役に立てることなんて…何も…」
―――キュイッ
自身の無力を嘆いていると、足元にふわふわの何かが絡みついた。それは緩く撫でるように優しいものであった。
え、と思い視線を下げると、ルナに運ばれているはずの小さな生き物がこちらを見上げるように見つめていた。
「あなたは…」
―――キュ、キュ、
エミリアの足元でくるくる回った後、急いでルナの元に戻ったかと思うとまたエミリアに向けて戻ってきた。その口には花のついた枝を咥えていた。
「サクラの、花…」
先程教えてもらった本当の花の名前。カグラの、花―――…。
「わたくしが、頂いても…?」
―――キュイッ
その鳴き声は小さいながらも元気で、エミリアはそっと木の枝に触れた。
―――またね。
「え?」
それは、誰の声だったのか。涙も止まってしまうほど、驚いている間に、小さな生き物はさっと身をひるがえし、今度こそルナの元へと走って行った。
(―――あぁ…)
再び、涙がこみ上げてきた。
またがあるのか。
あれで終わりではなく、まだ続いていてくれるというのだろうか。
『のう、姫―――…』
あの声を、今でも思い出せる。
少し退屈そうに佇んでいた美しいひと。自分に向けて発せられるその声音が慈しささえ感じるほど優しかったのを、エミリアは知っていた。
彼女の声が心に留めて置けるように、桜の花が揺れる枝をしっかり胸に抱きしめたのだった。




