月にかえる者
※洪水の話題が出ております※
ご不快に感じられる場合もございますので
読み進めれる時はご注意ください。
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雨が降っている。その残響が、この耳に残っている。
そう、あの日に、終わって───始まったのだ。
この暗くて永い夢は──……。
カグラは、どこまでも続く闇を見つめていた。
そして、ふと上を見上げた。
「月が、昇る…」
何度目の夜だろう。
今度は、あの月の傍にかえれるだろうか……。
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最近の日課を果たし、夜になった。
今日は満月の日。大きな月が顔を見せている。あと少ししたら真ん丸の月になるだろう。ルナの元の世界の月よりもとても近く大きく見える月だからか、なんとなく月が満ちかけているのが見える。
もう、見慣れてしまった近さだ。もとの世界に戻ったら、あの月は遠くなるんだろうな、とふと気づいたが、それは今は考えないようにした。
ルナは、今日を約束の日とした。
自分に魔力や聖力というものはないからわからないが、満月はおおいなる力を秘めていると言われる。
それはアリシアから小耳にはさんだ話であったから記憶は曖昧なものではあるが、こうも距離が近いと神々しい気が放たれている感じがしなくもない。
そんなルナは、本日は甚平に着替えようと計画していた。
ドレスを脱がしてもらい、お風呂から上がったらすぐに着替えようと、持ってきてもらうつもりで、双子の侍女に事前に話はしていた。
だが、現実は容赦なかった。
「……私の、甚平は?」
こちらを、と双子の侍女から手渡されたのは以前エリー母さんが着ていたシャツとズボンによく似ているものだった。
シャツは彼女のようにフリルはなく、装飾といえば腰に巻く帯があるだけだ。
いずれも黒色で、上品な光沢さえ放っている。
シルク製なのか、肌触りがとても良く、明らかに高級な雰囲気が現れている。自身が求めていた、くたくたの布ではないことに早くも戦慄しつつ、侍女らに問うとにっこりと微笑まれた。
あ、この流れってもしかして…。と思い至った瞬間、彼女らは言った。
「エミリア様よりご依頼を承っておりました」
「ドレスでもなく、ワンピースでもなく、ルナ様が動きやすいものを、と。馬上用かとも思ったのですが、その限りではないと仰せでした」
色を黒に統一している辺り、華やかな場面で着ることは想定されていないとしても、これは私の気持ちがついていかない。丁重に断ろうとすると、まぁまぁまぁ、と強制的に宥められ、押し切られた。
侍女たちは本当に逞しい。観念して袖を通すと、かっちりしているように見せかけて案外ゆったりとした肌触りだった。
長い髪を今日は一つに括ってもらい、準備は完了した。
服も髪も黒色だからか、これなら闇に紛れるな、とどうでもいいことを考える。
私よりも、エミリーの方が心配ではあるが。
「ルナ様、エルヒ王妃よりこちらを…」
「ありがとう」
細長い筒状の布袋に入れられたものと、大きな衣装を受け取る。
これがないと、始まらないのだから。
***********
今日は静かな夜だ。あの娘が来る気配はない。
カグラはゆったりと夢と現実のはざまを揺蕩うように泳いでいた。
ふと、誰かの声がカグラを呼んだ。
〈カグラ〉
〈出てきて、今日は満月よ。一緒に見よう?〉
―――あぁ、この声は…。
待ちわびた人の声ではないけれど、今日ぐらいは出てやってもいい。
そんな気持ちになるぐらいは興味がある少女の声。
カグラは揺蕩うのをやめて、意識を外に集中した。
***********
外は、思いのほか月の明かりが大きく思えた。
「カグラ、こんばんは」
安心したように微笑む小さな王女に思わず小さなため息が出る。
「小さな王女。おぬしは人前で姿を現してはいけないのではなかったか?」
「バレなきゃいいですわよ、ってお母さまも仰ってくださったから大丈夫よ」
こんな調子でたまにここに来る日向のように温かな少女に目を細めてしまう。
「今日の満月はきっと特別なものになるわ。だから、一緒に見たかったの」
「奇特な女子だ」
だが、今日はなんだか胸騒ぎがする。不思議とイヤな感じはしない。
「この前、ルナ様とお食事をしたの」
「そうか」
「あのね、その時にルナ様の世界に伝わるお月さまの話をしてくださったの。ある日、おじいさまとおばあさまのところに竹から生まれたお姫様の話。カグラは知ってる?」
「知らぬ」
「題名は『かぐや姫』という物語なの。ある日おじいさまが竹を取りに行って…」
小さな王女が話す物語はたどたどしくて、何度も躓きながらも最後まで話を終えた。
一度しか聴いたことがないと言っていたが、なかなかの記憶力だと思う。
「――――そうして、最後はお月さまにかえったそうよ。あちらの世界に行くと、地上での記憶がなくなるんですって。わたくし、それを聞いた時にとても寂しい気持ちになったわ」
「――――何故じゃ?」
「だって、かぐや様も、おじいさまもおばあさまももっと一緒にいたかったと思うの。でも、かぐや様の記憶がなくなったら、もう帰ってこれないでしょう? 一緒にいれらないの、わたくしはイヤです」
「月に還るのにも、理由はあるじゃろう。ずっと一緒にはいられぬ理由もあるように、な…」
「それは、どうゆう…?」
その時だった。遠くの方で、笛の音がした。
聞き覚えのある、懐かしい音だ―――。
小さな王女も音に気付いたようで、立ち上がって音の方へ視線を向けた。
音が近づき、それを奏でている者の姿を見て、カグラは目を瞠った。
「―――月の、君…?」
丁度、月と闇のはざまで顔は見えない。
でも、この音はあの人のものだ―――。
知らず知らずのうちに、カグラの足が進む。桜の花びらが、風に吹かれて高らかに舞う。
しかし、数歩も進まぬうちに、あの龍の声がした。
あの人を包むように、彼はとぐろを巻いてそこに佇んだ。
「おぬしは…」
龍の姿を見たカグラは瞬時に怒りを抱いた。
―――あぁ、あの人と離れることになってしまった原因。
―――あぁ、愛おしい人…何故…。
―――この龍さえいなければ……!
蘇るのは、家々が川に飲み込まれていく情景。
いつもは澄み切った川が雨と風に同調するかのように荒々しくうねり、土を巻き込み木をなぎ倒し、家々を飲み込んでいった。
笛の音が、止んだ。
そう、あの日から笛の音が途絶えた。
あの人が、いない───こんな世界に連れてこられた…!!
「また、その人をわらわから奪うか…!」
「待って! カグラ!」
幼い王女の声が聞こえた。激情のままに、龍をほふろうとした手を、掴まれた。
「離せ、小さき者」
「待って、カグラ。聞いて」
「聞く? 何を? あやつが統べる川を氾濫させなければ。あの人は、また笛を聞かせてくれたのに。あの人の音を消した者の声を聞けと?」
「ううん、カグラ。そうじゃない、そうじゃないの…! だってあそこにいるのは──……!」
龍は頤を少し上げ、カグラを見据えて目を細める。
《──還ろう》
厳かな、けれども切実さをも感じさせる声色。
龍が、ゆっくりと語る。
《還ろう、愛しい桜の化身よ。あなたも我も、既に時を終えている。ただ、その者たちの想いが楔となって絡め取られてしまっただけ》
「な、にを───……」
その言葉が最後まで紡がれる前に、カグラの回りに水の雫が散らばる。それは少しずつ川のように連なり、カグラを包む。
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───遠くの方で、笛の音が聴こえる。
あぁ、そうだ──……。
あの笛が、合図だったのだ。
龍と人々に謳われた桜の精が会える愛おしい時間の始まり。
逢瀬は一時のこと。それでも、わたくしは幸せだった。
『―――あぁ、迎えに来てくださったのですね…流星様』
《長らく待たせてしまった。やっと、解けたのだな。では、いこう。我らは、正しい時の中に還らねば…》
『はい、どこまでも。今度は、離さないで下さいまし』
《あぁ、もちろんだとも》
龍の頤を抱えるように彼女は額を龍に寄せる。
口付けを落とすように彼女はゆっくりと目を閉じた。
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水は空を目指して昇る。桜の花と水が互いに交差して、月を目指して還っていく。後には少しの霧雨と桜の花が地上に舞い降る。
「……カグラ?」
小さな王女は、木の傍らでその様子を見ていた。
カグラを取り込んだ水はなくなり、カグラがいたその場所には、一人の少女が横たわっていた。
この世界では、母のコレクションでしか見たことのない薄い布と帯しかその身に来ておらず、ゆるやかに一つの組み紐で髪を括っている女性がそこにいたのだ。
「お兄様、あの方は?」
水の渦に巻き込まれないように兄のアルフレッドがエミリアを抱え込んでいた。
エミリアは不思議そうに彼女を指さして兄に訊ねる。
「エミリー、まだだ」
静かに、と兄は固い声音でエミリアを制した。
エミリアもそれに倣って口をつぐむ。
静寂が漂うその中で、草を踏む音が倒れ伏している少女にゆっくりと近づく。
その人影は、ぼんやりと月の光を受けたかのように淡く光っているように見えたが、どうやら青年のようだった。不思議な形の帽子をかぶっているが、その柔和な面差しはよく見えた。ルナ様と同じように、彼らは黒髪で、男性ははっきりとわかるほどの黒目であった。
彼は彼女に近づくと丁寧な仕草で彼女を抱き起こす。やがて、少女は瞼を震わせ、その黒い瞳を現した。
「……あなた?」
かすかな、今にも消えてしまいそうなうつろな声音は少女のものだろう。彼は彼女が声を発したことに安堵したように微笑み、少女の伸ばした手を彼が握り返す。
「うん、そうだよ。やっと……」
「……長い、夢を、見ていたの」
「うん」
「暗くて、寂しくて、でも少し優しい夢」
「うん…」
「あなたの笛、ちゃんと聴こえてた」
「うん――――…」
少女の言葉に青年は一つひとつ丁寧に答える。お互いの声が聴こえていることを伝え合うかのように。
限りある時間を愛おしむように。
「―――次は、迷わずにいけるかな…?」
「今度は一緒だから大丈夫だ」
その言葉が合図のように、月から光が道のように差し込んだ。
白いウサギがぴょこんとどこからともなく現れ、葉っぱに鈴をつけたものを持って二人に頭を下げた。
「あのウサギ、お姉さまの帯飾り…?」
エミリアは戸惑いもあらわに小さな声で呟く。その声は彼らには聞こえなかったようだ。
白い体躯につぶらな赤の瞳のうさぎは口に葉っぱを咥え、男性に視線を投げた。
《私の名前は【天兎使】。新しき月の主様、しばしこの二人を月の神の元へ誘いますれば、傍を離れること、ご容赦くださいませ》
ひとつ会釈するようにを首を縦に振って、ウサギは二人を先導するように月に向かって駆けていった。
二人もまるで吸い寄せられるようにウサギについていった。
二人が渡り切ったのだろうか。姿が遠くになり、一層、月の光が眩さを増し、次の瞬間には消えた。
後に残ったのは、花が散り、青葉をつけた桜の木と、二人の様子を見ていた兄妹。
そして――――――。
「お姉さま!」
黒く長い髪を一つに括り、母のコレクションにあった狩衣を羽織ったルナがそこに居た。
ルナは月を見て、ゆっくりと手を伸ばす。
「長い夢は、これでおしまい」




