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扉の秘密

 困った。これは困った。

 ルナは頭を抱えて今の状況について考えた。


「寝ちゃった場所が噴水の中だったんですって、説得力あるかな…」


 第三者から聞いて明らかに訝しまれる内容でしかないのは重々承知だが、現実はそれだ。

 あの水の龍に呑み込まれたことでうっすらと予感のようなものはあったが、まさか本当に目覚めたらびしょ濡れになっていたなんて誰が想像しただろうか。

 目覚めた場所が噴水の縁ではなく、水中をたゆたうように仰向けになっていたのだから驚きも度を越えている。よくぞ死ななかったと未だドキドキする胸を押さえて、取り合えず噴水の中から脱出する。

 ドレスが重い。少し耳に水が入っている感覚も気持ち悪い。

 申し訳程度にドレスの裾を絞るも、重さはさほど変わらなかった。

 陽はもう間もなく沈もうとしている。乾かそうとしても暑い時期ではないので今更無理だろう。


「あ、メモは…」


 隠しに入っていただけに、水が完全に染み込み、もはや文字すらそこにないことが一目でわかる状態だった。もう、諦めるしかない。ルナはひとつため息をついて、元来た道を戻る。

 このドレスももしかしたら王妃からの贈り物かもしれないと思うと申し訳なさがこみあげてくる。あの双子の侍女に関しては表情こそ出さないだろうが落胆するであろうことは目に見えている。

 ドレスを着るようになってから汚さないようにと細心の注意を払ってきたつもりだが今回ばかりは防ぎようもなかった事実があるにせよ、これは心から謝らなければなるまい。

 覚悟は決まったと同時に象牙色の扉の前に着いた。

 取っ手を持ち、両手で引っ張った。


(―――ん?)


 開かない。もう一度力を振り絞って引っ張ってみる。ビクともしない。

 何故開かないのか。そういえば、とルナはあることに気付いた。


「私、帰るときは自分で開けたことない…」


 言葉にして初めて実感する。

 思い返せば、帰るときは常にシエルが隣にいたし、扉は一人でに開いていた。


(もしかして、あちら側からしか開くことができない…?)


 前髪から水が滴り落ち、胸元の布地に吸い込まれていく。

 入ることができるから出ることもできると思っていたのだが…。

 いやいや、と思い直し、今度は身体ごと扉を押してみる。―――変化はなかった。


「押しても引いても開かないって、そんなことある?」


 実際問題あるのだが、そうこぼさずにはいられなかった。

 どうしよう、出られない。

 もう間もなく陽が沈むというのに、私は何をしているというのか。出られないって。

 傍目から見たら実に滑稽ではなかろうか。


(…何か、やり残したことがある? 見落としていることとか…)


 それは違う気がする。カグラのことはまだ準備がそろっていないから今は時期じゃない。

 水の龍から手がかりをもらったのだからそれは確定だ。

 他の出口を見つけなけばならないのか。そもそもここは本当に自分が入ってきた扉なのか、ルナは軽い混乱の中、開かない扉を前にぐるぐると思考を巡らせていた。

 その時だ―――。


《下がりなさいな》


 頭の中で聞き覚えのある声が響く。

 ルナは素直にその場から退いた。するとどうだろう。あんなにも苦戦していた扉がこれまた勝手に開いたではないか。

 目を見開くルナを見て、声を届けた女性は不敵に微笑んだ。


「アリー母さん」


「まさか出られないなんて、驚かすんじゃないわよ」


 その顔は絶対に驚いてない。むしろ予想の範疇だとでも言いたげな愉快そうな表情をしている。


「早くこっちに来なさいな。何があったのか知らないけど、びしょ濡れじゃない。そのままの格好で何分いたのよ」


 突然のアリー母さんとの再会なのだが喜ぶタイミングを完全に逃したようだ。

 言われるがまま前進し、扉をくぐる。それと同時に「おかえりなさいませ」と双子の侍女が頭を下げたのが視界に映る。


「ただいま。あのごめんなさ―――」


「う、うわああぁ…!」


 ルナの謝罪は弱弱しい悲鳴にかき消された。悲鳴の方向を見やると、そこにはにっこり微笑むロビンと顔を両手で覆っているサハラがいた。何でここにいるのだろう。サハラに至っては何をしているのだろう、とよくよく見てみると彼の耳が真っ赤だということに気付く。


「だからあっち向いとけって言ったでしょうが」


「ははっ、彼はこういうのには慣れてませんからね」


「み、見てません。俺は何も見てませんから…!」


「あんたも、ちょっとは恥じらって出てきなさい」


 さっき早く出てこいって言ったじゃないか、という言葉は寸でのところで飲み込んで無難に「ごめんなさい」と謝っておいた。おかしい。私はドレスを濡らしてしまったことを謝りたかったのだが。

 女のルナよりも男のサハラが異常に恥じらっていることに複雑な気分を味わう。

 ドレスが濡れているとはいえ、下着が透けていることはなく、むしろ幾重にも布を重ねているから外見的にはそこまで恥じらう要素はないと思うのだが、ここではどうやら違うらしい。


「ちゃっかり見たくせに。だから万年補佐なのよ、あんた」


「このように初心うぶで純粋な補佐も貴重だと僕は思いますがね」


「あの、俺のことけなすのは自由にしていいですけど…! 彼女を着替えさせるなり水気を取り除くなり早くしてあげたほうがいいんじゃ…ていうか、さっきからあんまり彼女喋ってないですけど大丈夫ですか?」


 完全に置いてけぼりです。というより、どこか頭がぼうっとする感覚さえする。

 扉が開いてホッとしたのもあるのだろうか。前髪からまた一滴、水が落ちる。


「…直接魔法をかけたら負担になるわね。―――風よウインディ


 アリー母さんが左手を払うように動かすのと同時に温かい風が身体を包んだ。

 一呼吸の間にドレスや髪が乾き、身体が軽くなった。

最後に頬を撫でた風に乗って楽しげな幼い子の笑い声が耳に届く。一瞬だったが蛍の光のようなものが視界に映ったようにみえた。


「ありがとう…」


 自然と口からこぼれた言葉に、アリー母さんが目を見開いた。


「驚いた。あんた、あの子達が視えたの?」


「えっ!?」


 何故かルナよりサハラが先に驚きの声をあげた。


「ちょっとだけ。視えたって言っても小さな光だけで、一瞬だったし…」


「ほぅ、それは興味深い」


 サハラの次はロビンが身を乗り出すようにルナに詰め寄る。

 好奇心が惜しげもなく前面に出ている。


「そんなに驚くことですか?」


「もちろんです!! 精霊は人の前に姿を現すことなんてないんです! 俺たち魔術師でも視られるのは一生に一度あるかないかってぐらい貴重なことなんです!」


 意外なことにサハラが身を乗り出すように力説してくれた。

 とりあえず、すごく珍しいことが起こったことを理解するルナに、ロビンが落ち着き払った声音で補足する。


「精霊は精神体としてもともと普通の人には姿が視えない存在。僕たち魔術師はその精神体を視る力が備わっていますが、それはその個体が有している聖力や魔力を通してその存在を認識しているのであって、その個体自体に力があまりないということは視えないのとなんら変わらない状態なのですよ。だから、補佐が興奮しているのはそういう理由からであって、ごく自然な反応です」


「はぁ…」


「かく言う僕もあなたに俄然、興味が湧いてきました。その口ぶりからして、精霊が視えたのは今回が初めて。あなたのように聖力や魔力がほとんどないと言ってもいいぐらいに弱い方が視えたという報告はない。なぜ、今視えたのか。僕はその理由が知りたい」


「そこまでにしてもらおうかしら」


 詰め寄るロビンから庇うようにアリシアが割り込む。

 白銀の髪が懐かしくも頼もしく思えるその姿にルナは見惚れた。


「この子が自分の足で歩けるうちに部屋に送ってあげないと。くだらない探求心はその辺に置いてあんたはさっさと自分の職務を全うしなさいな」


 なんだか含みのある言い方だな、とルナが思っているとロビンは不敵な笑みをこぼし、大人しく引き下がった。


「さすが前魔術師長は違う。あなたは既に僕の疑問に答えを見出しているようだ。まぁ、僕も予想は出来ていますが、確証を持てないのは口惜しい。また次の機会に夢の渡り人に尋ねるとしましょうか」


「サハラ、あんたの監督不行き届きを王に進言してもいいかしら」


「こっちに来るんですか!? やめてください。俺が犠牲になるだけでこの人には何のダメージもないんですから!!」


「では、夢の渡り人様。わたくしはこれで」


 改まって一礼して潔く立ち去っていく後姿を慌てたようにサハラが追いかける。

 大変そうだ、となんとなく眺めていると、アリー母さんがルナに振り返った。


「さぁ、部屋に戻るわよ」


「うん」


 言われるままに歩を進める。長い廊下をいつもよりゆっくりと進む。

 アリー母さんが隣にいることが嬉しい。嬉しいのに、時折視界が霞む。

 そう、これは眠気だ。自覚すると欠伸が出そうになり、必死に押し殺す。

 黙ったままだと意識を持っていかれそうだ。横で凛とした表情で歩いているアリシアを見上げてルナは口を開いた。


「アリー母さん、久しぶり。元気そうでよかった」


「あんたはまたいろいろ首突っ込んでるようね。王宮(ここ)とあたしの家じゃ状況が違うんだからあんまり出歩いたらダメじゃない」


 意外と軽い調子で返答してくれて知らず緊張していたものが緩んだ。

 王宮の廊下なのに、まるで村までの道のりを歩いているような錯覚を抱いた。


「今日のは呼ばれたの。私が自分から行ったんじゃないもの」


「それはどうかしら」


「…たぶん。でも、知りたいことは知れたから結果オーライだよ」


「そう。順調ではあるのね」


「うん。それはともかく、アリー母さんはどうしてあんなところに? 出られないところだったから助かったけど」


「あぁ、今回はあんた一人で入っていったからね。絶対出てこれないだろうな、と思って頃合いを見て行ったのよ」


 この世界にないとわかっていてもどこかにGPSが仕込まれているのだろうか、と一瞬心配になったのは絶対に言えない。


「絶対に出てこれないって…すごい確信」


「でも実際、出てこれなかったじゃない。扉の向こう側で押したり引いたりしてる気配はしてたわよ」


 アリシアにわかったのだから少なくともロビンもその気配に気付いた可能性があることに気付き、ルナは思わず顔を隠した。人から聞かされた様子はより間抜けに聞こえるのだから恥ずかしさがじわじわとルナを襲う。

 羞恥心に耐えているルナを見たアリシアがそこは恥ずかしがるのね、とややズレた感覚のルナを目の当たりにして複雑な心境だったのはあえて口にしなかった。


「…やっぱり扉に何か仕掛けがあるんだ?」


 ルナは気を取り直したように思い当たる節を言ってみる。


「扉に、っていうより、あの庭が特殊なのよ。だから、あんたは出られなかったの」


「?」


 確かに、あの庭が許した者だけが入れるということは聞いている。ルナが知る中でも王族が中心に入れているようだが。その事実だけでも庭の存在自体が異常なものに思える。


「入れるのに、出られないってどういうこと?」


 ルナの疑問はこれに尽きる。入れないことが前提ならば納得できるが、アリシアの口ぶりから察するにルナは入ることは容易いが、一人で出ることは絶対にできないようだ。


「あの庭は”お気に入り”を選んでいると思いなさい。気に入ったヤツは大歓迎、だから入れる。気に入らないヤツはそもそも入れたくない。わがままなのね。で、ここからが本題なんだけど、大好きな人が入ってきてくれたらあんたならどうする?」


「え?」


 突然に質問を投下されて戸惑うルナに、アリシアは不敵に笑う。

 見ると、いつの間にか周りは見覚えのある景色になっていて、アリシアは歩を止めてこちらに振り向いた。後ろに続いていたヒルダとヨルダがルナたちを追い越し、ルナの自室の扉を開いてくれた。


「―――ちょっとでも、長く一緒にいたいって思う」


 少しずつ霞む視界に映るアリシアを見上げてルナは請うように呟いた。


「ふふ、娘にそう言われるとこれほど嬉しいなんてね。そう、あの庭も同じなのよ。一緒にいたいから帰したくない。でも、あの庭はわがままだけど利口なの。人にも、人の営みがあることをよくわかってる。だから、帰る際にあるモノを要求するの」


「あるモノ…?」


 アリシアと連れ立って室内に入り、ルナはアリシアに導かれるままにベッドに腰かけた。

 

「一定以上の量の聖力や魔力を注ぎ込むこと」


「私アウトだ」


 アリシアが絶対出られないと断言した意味が分かった。そうか、有料制にしたのか。

 払うものを持っていないのだから出られないのは当たり前だ。ようやく合点がいったルナはあることにハッと気づく。


「アリー母さん、もしかして私の支払い分、払ってくれてた?」


「支払い分って…あんた、頭の中でどんな考えで落ち着いたのよ。意味はほぼ一緒だと思うけど。―――大丈夫よ。入れるのは大歓迎って言ったでしょ。もう聞いてると思うけど、あたし、ここの王女と縁のある者だから、あの庭には入れるのよ」


「え、初耳」


「まぁ、純粋な王族ではないからね」


「そっか。入る時は何も要らないんだ…」


 それなら出る時も同じシステムにしてほしかったと思うのはわがままだろうか。

 というか、それならあの庭は何を判断基準として人を選んでいるのだろう。他の人はどうかは知らないが、出られないと気付いたあの瞬間の焦燥感は凄まじいものだった。願わくば、同じような人が現れないことを願うばかりだ。


「まぁ、今日はもうレッスンなんて出来ないでしょう。あんたはさっさと寝なさいな」


「アリー母さん、私ドレスのままなんだけど」


「ちょっと横になるだけよ」


「いえ、コルセットきつい」


「……あぁ、あの侍女たちも容赦ないわね」


 そこからコルセットを外してもらった瞬間に気持ちも緩んだのかベッドに倒れこんだ。


「ちょっと、下着姿のままよ」


「限界が、来たみたい…」


 先ほどまで歩けていたのが不思議なほど、今は指一本さえ動かすのが億劫に感じる。


「まぁ、話しながらここまで持ちこたえただけでも凄いことだわ。いいわ、後はこっちでなんとかするからあんたはゆっくり寝なさい」


「…ごめんね。……ありがとう」


 薄れていく視界の中でアリシアが淡く微笑んだように見えた。

 風邪をひいた頃に見上げた表情と同じで、ルナも懐かしい気持ちを抱きながら眠りについた。

 アリシアはルナが寝入ったことを確認し、ひとつ息を落とす。


「ホント、よくここまでもってるわよ、あんたは」


 ふと視界にルナの手首に巻き付くような模様を見とがめたアリシアは眉根を寄せる。


「目に見えるほど濃くなってきてるわね…」


 指を伸ばして触れようとする。しかし、バチリ、と青白い光がアリシアの指を弾く。

 弾かれた指先を見つめ、またルナの手首を見つめる。


「干渉は許さない、ね…。勝手にあたしの娘に“呪”をかけるなんて生意気な真似を…。まぁ、その命を誰に預けるかはこの子自身、どう動くかで決まるのだから見守るしかないのだけれど。ふふっ…、無防備に寝ちゃって。あぁ、こんな顔見たら口惜しいわね」


 ルナの瞼を覆うように手をかざしてアリシアは声を落とす。


「ごめんね、はあたしのセリフなのよ、ルナ」


 そっとルナの額に唇を落とし、祈るように目を閉じてアリシアは言葉を紡ぐ。


「どうか今は、夢さえみえないほどの深い眠りでありますように」



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