龍の懇願
*********
深く、深く沈んでいく。
ここは、そう、夢の中だ。
ゆっくりと開いた瞳に映るのは群青色。まるで、海の中にいるような光景が目の前に広がる。
夢だからこそ視界はクリアで、上を見上げれば太陽の光が水面で揺れていた。
魚はいない。静かで穏やかな水の中。
ぽこぽこと音を立てて気泡が下から上に上がってくる。
夢だから苦しくはない。けれど、違う痛みが胸をしめつける。
───これはきっと、あの龍の…。
噴水近くで龍のかたちをした水に呑まれた記憶はルナに残っている。
そして、夢の中にいるからこそ感じる胸の痛みは恐らくこの夢の主のものだろう。今の景色が水ということはそこに住まうものである可能性が高い。
「夢にこうも頻繁に誘われるのは初めて…」
同じ夢の主ならいざ知らず。また違う夢に引き込まれてしまった。王宮に来てからというもの、ルナが立てた夢の定義が覆されていく。もともと、定義など存在しないのかもしれないが。
そんなことを思いながら下へ下へと身を沈ませていく。体重移動などこの世界で意味はない。ただ、心の向く先を定めただけ。
夢に引き込まれたということは、呼ばれたということだろう。相手が呼んでいるのはこの先───。
沈んでいくうちに、底が見えた。
そこは海底に相応しくない新緑の色が広がっている。その新緑はまるで絨毯を広げるかのように海底を彩った。同時に群青色は透明になり、ルナがそこに足を着けた頃にはひとつの景色が眼前に広がっていた。
「───カグラ?」
思わずこぼれてしまった言葉に、胸の痛みが否を唱えた。そうか違うのか。
わりとすんなりとその事実を受け入れてからもう一度目の前の景色を見つめる。
一番に目を惹き付けられたのはひとつだけ咲き誇っている桜の木。カグラだと思ったのは、眼前に広がる桜の木が王宮で見たものと酷似しているからだ。周りの景色は王宮のそれとは全く違うが。
あれ、と桜の木の向こう側を見つめる。ここは少し小高い丘になっているようだ。距離を置いたところに下方で田園地帯が広がっている。藁葺き屋根の家も点々と見受けられる。
電信柱もない、農家が多い時代の光景そのものだと思えた。間違ってもルナが生きている時代ではない。
その景色に既視感を抱いたのは仕方がないだろう。それは、カグラの夢に浮かんでいた気泡の中の風景と全く同じものだったからだ。
丁度、今経っている位置がカグラの見ていた視点になるのだろう。
───でもこれはカグラではない、と言った。
それはまさしくこの夢の主の意思が言ったこと。では、自分の目に映るこの木は一体───?
自身が降りてきた場所に戻ろうと身体を向ける。
そこには両手を広げたほどの幅の川が流れている。丁度、この木にたどり着けるような木製の小さな橋もかけられている。これはカグラの夢にはなかった。
川の向こう側は背の低い草原が広がっている。その先は森につながっているのだろうか。果てのない新緑が広がっている。
───ここは、どこだろう。
ルナが疑問に思いながらなんとはなしに桜の木に手をついて見上げると、ひとつの人影がそこにあった。
天女のような柔らかい衣に身を包んでいる可憐な少女が桜の木の枝に腰かけている。カグラよりも少し幼い印象を抱かせる容貌だ。しかし、その漆黒の眼差しは愛しげに川に一心に注がれている。飽きることなく見つめるその表情は何かを大いに期待しているものだ。
不意にぽつりぽつりと空から雫が落ちてきた。
「───狐の嫁入り?」
晴天なのに、空から優しい雨が降っている。
この様子ならすぐに止むだろう。夢の中だから濡れはしないが。
もう一度少女を見てみる。
雨が降ってきたのがとても嬉しいようで、空を仰ぎ、無邪気に両手を広げて微笑んでいる。不思議なことに、彼女は濡れていなかった。いくら桜の花で覆われた場所であるとはいえ、どこかしら濡れていなければおかしいのに。
───あぁ、そうか。彼女は“人”じゃないんだ。
少し考えた後に思い当たる。さしずめ、桜の精といったところだろうか。
やがて雨は止み、彼女は少し残念そうに手を下ろした。けれどそのまま胸の前で両手を組んで呟くように言った。
《ありがとう。また、会えますように》
透き通るように綺麗な声だった。胸に広がるのは安堵のような、歓喜のような、面映ゆい感情だ。
ルナは見た。彼女の声に呼応するように川の湖面が揺らいだところを。
彼女は見ただろうか、と視線を戻せば、そこにはもう誰もいなかった。
───あぁ、でもきっと伝わっているだろう。
少女のあの微笑みが何よりの答えだ。
しかし、胸の痛みはやがて不安に変わる。
それと同時に湖面を揺らすように風景が揺れる。
先程の優しい雨ではなく、バケツをひっくり返したようなどしゃ降りの雨の中、一組の男女が桜の木を目指しているのが見えた。
───戦があったのだろうか。
桜の木の向こう側に穏やかな風景はそこにはなく、荒れ果てた光景が広がっていた。整えられた田園は踏み荒らされ、家々には焼けた跡が遠目からでもわかった。灰を洗い流すように雨はしとどに降り注いでいる。
───イヤな予感がする。
やがて、馬は桜の木の前で止まった。
───彼らの声は聴こえない。
呟くように、囁くように男性は腕の中に抱いている女性に声をかけている。
ルナは彼女の顔を見てギクリとした。
血の気が失せたような顔には生気がない。よくよく見ると男性が抱えているその手からは鮮血が滴り落ちていた。
怪我、と言えるほど軽いものではないことは一目でわかった。
もう、彼女の命が尽きかけているのがルナでもわかった。
───彼女も自分の死期を感じたのだろうか。
ルナには実際の声は聴こえないが、きっと彼に聴こえるようなか細い声を落としたのだろう。
彼は葛藤を押し殺したように唇を噛み締めた後、彼女と共に馬を降りた。
彼女をゆっくりと下ろした彼はそのまま彼女を抱いて桜の木の下に腰を落ち着ける。
彼らは小さな声で最期の言葉を交わし合う。彼の手は彼女の溢れる血を止めようと腹部を依然として押さえているが、雨と共に血の赤が地面に伝い落ちていく。
彼が身を屈めたのを見て、ルナは二人から距離を置いた。
夢の中だとしても、二人の時間を間近で見つめることに意味はない。
ただ、彼女の血が地面に染み込んでいく様が何故か強く記憶に焼き付いた。
やがて、雨がけぶるように降り注ぎ、二人の姿も見えなくなった。
雨が止み、晴れ上がった頃。そこに二人はもういなかった。
同時に、ルナは違和感を覚えた。
目の前の桜の木は依然として花をつけたまま、そよそよと風に揺られている。
木陰に、誰かが立っていた。最初に見た花の精だろうか。それにしては、雰囲気が違う。
「誰?」
思わず口をついて出た言葉に、彼女は振り向いた。
『そなたこそ誰ぞ?』
静かな、強い口調だった。その瞳を見てルナはある確信を抱いた。
───あぁ、彼女こそ。
「カグラ」
こぼれた言葉は彼女には届かず、周りの景色も揺らいだ。
瞬きひとつであっという間に元の水の中の景色に変わる。
「………」
ひとつ、ふたつ、大きく深呼吸をする。
荒れ狂っていた激情が凪いでいくのがわかる。
それでも、しこりのように残った悲しみは消えなかった。
「これは、ただの夢じゃない。〝記憶”がもとになっている夢。―――そうだよね?」
ルナの言葉が届いたようで、後ろで水が集束していく気配がする。
なんでまた後ろに…。わざわざ振り向くのもちょっと億劫だな、と思ったのは相手には内緒だ。
きらきらと湖面から差し込む光を反射してソレは形を作っていく。水と光は鱗になり、長い胴と二つの鉤爪になる。長い髭に、皺のよった鼻筋、角が二本映えてきて、水より深い色の青の瞳がこちらを見つめる。───噴水に現れた“龍”だ。
「はじめまして。私はルナといいます。あなたがこの夢の主?」
《いかにも。我は流水星龍という。こちらの都合であなたを引き込んだこと、お詫びする》
話し方こそ厳かだが、結構控えめな性格のようだ。素直に謝られて少し肩の力が抜ける。
「いえ、引き込んでくれたお陰で謎が解けそうよ。あってるかどうかはわからないけれど。───…?」
《あぁ、やはり。あなたのその様子、翁から聞いた通り。あなたに我の心は筒抜けのようだ》
苦笑がちな声音が直接頭に響く。また翁の名前が上がった。その親しみさえ感じさせる響きに翁という人物はルナのような“人”ではない存在の長老的存在かもしれない、と推測した。
龍は口が動いていないぶん、目を細めたり少し首を俯けたりするだけだから感情がちょっとわかりにくい。
夢の中では主が中心。龍の心はわかっても自分の心は龍にはわからないのがせめてもの救いだ。しかし、ルナは正直に表情に出るので、今まさに苦笑いされた。
「夢も、もうあとちょっとしかもたないのね…。単刀直入に、二つほど質問をしてもいい?」
《ほう、我の願いを叶えてくれると…?》
「その想いに応えられるかはわからないけれど、出来ることはやってあげたいと思ってるよ。では一つ目、最初に桜の木に腰かけてたひと───あのひとはあなたの好きなひと? それとも、恋人?」
《……我が、最も慕っている者だ》
少しの沈黙をもって返された言葉に、ルナは思わず渋面になりそうになり、慌てて淑女の笑顔を顔にはりつけた。
『好き』の度合いまでは聞いてないのだが、彼は義理堅いようだ。真剣に答えようとしてくれるのは嬉しいが、ちょっとのろけられた気分になる。
《なんだ?》
「いえ、失礼。二つ目、どんな結末になってもいいという覚悟はあなたにある?」
《───ある。だが願わくば、“彼女”の願いが届き、その心が安寧のもとにあることを祈っている》
「………」
固い声音で返ってきた答えに偽りはない。
けれど、相手のことだけを思い続けた“痛み”が龍のなかにあることをルナはわかっていた。
(───痛い…)
胸が、軋むほどに痛む。
叫んでしまいたいほどに、切実な感情が胸の奥で荒ぶっているのを感じる。
不意に、視界が歪んだ。と思ったが周りの景色自体が波打つように揺れた。
《あなたの言うように、もう時間のようだ。波長が合っていないまま夢を視続けるのはあなたにも負担が大きい。すまなかった。だが、これだけは言わせてほしい。───彼女を、救ってくれ》
歪む空間の中、真摯な声音が頭で響く。
懇願にも似た想いにルナは淡い微笑みを返した。
「私が出来ることなら力を惜しみません。ただ、あなたも祈っていて。それがあなたにも出来ることだから」
そこで、ルナの意識は夢から弾き出された。
ルナがいなくなったその空間で龍は天を仰いだ。
《───あぁ、いつまでも祈ろう。彼女が、解放されるその時まで。頼んだぞ、夢の乙女》
龍はやがて祈るようにその瞳を閉じた。
******




