予言と予兆
その時の光景を思い出しているのだろう。エルヒ王妃の頬に一筋の涙が伝った。
ルナは隠しに入れていたハンカチをエルヒ王妃の頬に遠慮がちに当てると、初めて涙の存在に気がついたようにエルヒ王妃は瞬いた。
「あらまぁ、わたくしったら…」
「大切な人を想うのは人も竜も同じなんですね。その想いの強さが未来に生きた。私、夢の中でしかその人の世界を知らなかった。その先がどうなったのかも、わからないままでした。謁見の時に言った『おめでとう』って言葉、あれは嘘偽りのない私の本心です。でも、今の話を聞いて浅はかだったと思いました。ごめんなさい」
「ルナ様、わたくしはそんなつもりじゃ…」
「はい、わかっています。でも、知らずに王妃様の心のキズに触った気がして…、ごめんなさい。辛かったのに、話してくださってありがとう」
そんなことを言って欲しいわけじゃないこともルナにはわかっていた。でも、エルヒ王妃の止まらない涙に確かな罪悪感は心にしこりのように出来た。
許しを請うているわけではないが、言わずにはいられなかった。
お互いがお互いの心情をわかっているだけにもどかしい空気が流れる。
エルヒ王妃が落ち着くまでルナが出来たことは、彼女の背中を優しく撫でるだけ。
その間、先程の話で頭に引っかかっていた事柄をルナは考えていた。
(漆黒の体躯に、金の瞳…)
それは、今の“彼”の夢に出てきているものとは違うものなのか、同じものなのか、ルナにはわからない。消滅したと言われているから違うような気もするが、やけに気にかかる。
―――どこかで、その竜は生きている…?
安直に考えるとそれが一番しっくりとは来るが、まだその確信を抱くには何か物足りない。
だから、彼女に期待を持たせるようなことは言ってはいけない。
ルナは固く口を噤んでエルヒ王妃が落ち着くまで待った。
「―――ありがとうございます、ルナ様」
「いえ…」
「ふふっ、人前で泣いたのはいつぶりでしょう。なんだか、とても清々しい気持ちですわ」
明るく笑うエルヒ王妃は確かに無理をしている様子はなかった。しかし、ルナは後ろめたい気持ちもあるからか、その表情をまっすぐと見ることはできなかった。
しかし、それは呆気なくエルヒ王妃本人に引き戻されることになる。
「違うのです、ルナ様」
そう言って、温かい手がルナの両手にそえられ、優しく包みこまれた。
「わたくし、この気持ちを知っていただきたかったわけではありませんの。守護を離すと決めたのは他の誰でもない夫ですわ。彼が決めたことをわたくしが涙することはおかしいでしょう? むしろわたくしは、“竜”が夫の傍にいられるようにわざわざわたくしを関わらせてくれたことに感謝しているくらいですの。卑怯な考え方でしょう?」
そうだろうか。むしろその想いは確かな光となって国王の心を温めたのではないか、とルナは手の温かさからそのことを感じた。
お日さまのように雨上がりの草木の雫を明るく照らしていくあの輝きに似ていて、美しい考え方だと思う。
「ルナ様、この話には続きがありますわ。そしてそれこそが、わたくしがルナ様をお探ししていた理由にもなりますの」
ゆっくりと顔を上げて見たエルヒ王妃の瞳はとても強い光を持っていた。
聞き漏らすまいと自然と背筋が伸びる。
「最近、わたくし夢を視ると言いましたでしょう? 以前視たものとは違って、そこまで禍々しいものではないのですが…。誰かがとても苦悩しているのです。それは女性で、きっとわたくしも知っている人…。その時はわかっているのに夢から醒めるとその人の名前を忘れてしまうのですが、確かにわたくしはその人を知っていますわ。その人は愛おしげにでも悲しげに左手を撫でて『ごめんね』と言葉を紡ぐのです。そのあとに、予言がどこからか聴こえてくるのですわ」
『夢視し乙女の歩んだ道に種は姿を現す…
花に歌を…
月に乙女を…
龍に愛を…
永久の輪に光射す…
漆黒は月明かりのもとに…
その身を落とすだろう…』
神妙な表情で固まったルナに、エルヒ王妃は堪えきれないと言ったように笑った。
その様子があどけない少女のようで思わず目を奪われるが、正直に言ってルナはそれどころではなかった。
それは一体、どういうことだ。
この思いで頭はいっぱいいっぱいであった。
まさか自分のことがあからさまに予言に現れているとは思わなかった。しかも、相手はエルヒ王妃の夢だ。
予言を寄越すなら本人に直接渡せばいいのに、と予言した者に内心で毒づく。
カグラでさえ自分の夢に介入したのだ。どこのどいつか知らないがそれほどのことはできるはずなのに、一体何故…。
考えることが多すぎてルナは頭は回転することを放棄した。
「ごめんなさい、王妃様。今はちょっとわからないです」
「ふふっ、いいのよ。わたくしにもわからないから」
詰んだってことですか? とは間違っても口には出せない。
「なんにせよ、この予言の通りだとすればその“漆黒”はきっと…。わたくしが出来ることはなんでもおっしゃってくれて構いませんわ。なるべくルナ様の力になれるように、ルナ様が夢で関わったことのある人はわかっているだけでもこの王宮や城下町にいてもらえるようにしましたから」
「……は?」
王妃に対してあるまじき発言が口をついて出たが、彼女は構わずに続けた。
「『夢視し乙女の歩んだ道に種は姿を現す…』これは多分、時系列に予言されていることですわ。その手がかりになるように、ルナ様と夢で会ったことのある者たちに話を聞いたり、交渉したりしましたの。だから、会おうと思ったらいつでも会えますわ。次の『花に歌を』からはわからないのですけれど…」
「あ、はい。きっと、もう十分だと思います。後は考えますのでどうぞ落ち着いて」
「そう―――?」
王家って、本気出したら本当になんでもできちゃうんだな、と空恐ろしさを感じつつ、まだまだ物足りないと言いたげな王妃に首を横に振る。
これ以上は多分(それこそ勘だが)無関係な人が巻き込まれる気がする。
自分のように拉致なんてしてないよな、と心配ごとが頭をかすめる。今はただただそれがないことを祈るばかりだ。
(そうか、だから夢の話を覚えてる人が多いんだ…)
会う人、これから会う人、夢のことを覚えてくれている人がいてくれることは素直に嬉しい。
エルヒ王妃がこれだけ積極的というのはほかならない“漆黒”のためだろう。
王妃は予感している。多分、それは予知夢だから。
消滅した、と聞かされた今ならわかる。
取り戻したい、という想い。もう一度主に会わせてあげたい気持ち。
その他にもいろいろ想っていることがあるのだろうけれど、彼女は言わないだろう。
「王妃からの願い、確かに承りました。私にできることがあれば、その期待に応えるのみ。頑張りますね」
今度はルナがエルヒ王妃の手を包んだ。
誓うように、瞳を伏せて。
自身の願いを乗せるように気持ちを込めて。
次に目を開けた時、エルヒ王妃ははにかむように微笑んでいた。その笑顔が、肩の荷が下りたようなスッキリとした表情だったから、ルナも思わず笑ってしまった。
「さぁ、ルナ様。最後にこの部屋のコレクションを見ていってくださいまし。晩餐会で話した『狩衣』もここに飾っておりますのよ。ルナ様は着方はわかるかしら?」
「え、着るんですか」
「着てみたいと思わないかしら」
着たいか、着たくないか、と問われたら着たいけれども。
それはコレクターとして許されることなのか。飾って満足という感じではないのか。
あえて明確に答えは返さず、その区画に足を踏み入れた。
「―――、」
「ね、綺麗でしょう?」
目に飛び込んできたのは、鮮やかな十二単、狩衣、浴衣、着物とどれも色鮮やかな服で揃っていた。
(烏帽子まである…)
その充実さがコレクター魂を見せつけられたようで圧倒される。
凄い。どこで見つけてきたんだろう。社会の時に習った日本の時代ごとの衣装が揃っている。
もしかして、これを全部王妃は着たのだろうか。見てみたかったな、とほんの少し思わないでもなかった。
昨夜話題だった狩衣の前に、何か細長い物がお盆の上に乗っていた。
煙管だろうか、と思ったが違った。
「笛…?」
「あら、やっぱりそれは楽器でしたの? その狩衣と一緒にあったのです。なんだか離してはいけないような気がして、それだけ一緒に置いているんですの」
「一緒に…?」
笛と狩衣を交互に見て、思いつくのはカグラのこと。
エルヒ王妃から了承を得て、笛にそっと触れた。
―――何も、聴こえない。
けれど、ルナの身体は勝手に動き、笛を口元に当てて一音、奏でた。
それに呼応するようにどこからか同じ音が遠くから警笛のように鳴り響いた。
ハッと目を見張る。
星が瞬き始める夜空。
桜の木に手を伸ばす白い手、長い黒髪の少女。
最後の笑顔には涙が頬をすべり、大きな手は少女をかき抱く。
それは瞬き一つの出来事。まるで記憶がフラッシュバックしたかのような感覚にルナは確信を抱いた。
「そう…───あなたも、会いに来たんだね」
「ルナ様…?」
滑らかな笛の表面をなぞり、記憶ごと包み込むように笛を持つ。
神妙な表情のルナを、不思議そうにエルヒ王妃は見つめていた。
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帰ろう。帰ろう。
あの青い空の下。
桜舞い散る橋の上。
もう一度
あの日の約束を───…
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