少年と花
「あれ…夢?」
呟いたその声は果てしなく広がる草原に吸い込まれる。ルナは呆然と立ち尽くし、しばし現状把握に努める。
「……寝ちゃったの?」
見覚えのある光景が目の前に広がっていることからそれは誰の目から見ても明らかであったが、ルナには僅かに信じがたい事実であった。いや、信じがたいのはこの状況ではなく自分自身だ。
ルナは夢の前の出来事―――つまり、現実の世界の記憶を強く持っている。
いつものように家の用事をしながら時間を潰していたところに突然の来訪者。そして拉致事件。
馬車の中で気を失ったと思ったのだが、その勢いで眠りについてしまったようだ。
そこまで思い至ったルナは額に手を当てて俯く。―――なんというか…図太い神経をしている自分に呆れる。現実世界では呑気にすやすや眠っている自分がいることだろう。その向かい側には無愛想な堅物が―――なんてシュールなんだ。
ルナは自分の想像を打ち消すために頭を振り、思考することをやめた。
寝てしまったからには仕方がない。自分の意思で起きれたことがないのもあり、ここはもう開き直るしかない。
「…うん、仕方ない」
自分に言い聞かせるように呟き、その場から足を進める。
少年との約束を果たそう、とあちらこちらに視線をやりながら柔らかい草の中を歩いていく。
しばらく歩いたところに小さな、色とりどりの花が群生している場所を見つけた。ルナは迷わずその場に向かい、しゃがみ込む。
たんぽぽのように可憐な黄色の花を手にとってみる。この世界にお日様はないが、澄み渡る青空がある。その空に向かって花弁を広げている様がとても綺麗に思えたのだ。
たんぽぽではないからか、茎は簡単に折れた。―――枯れる気配はない。
ルナは安堵の息をついて、あと三本ほど摘んだ。両手の中に簡単におさまってしまう小さな花の束。
握りしめてしまったらしぼんでしまう気がして、大事に胸に抱える。
「彼は―――あっちか」
青い世界を見渡し、ルナは行くべき方向へ足を踏み出す。
辺り一面、草だらけで道という道はないが、それでもルナが迷うことはない。
夢の中にいるときはその夢の主と繋がっているのだろうか。まるで引き寄せられるようにルナのカラダはそちらに向かう。
果たして、色のない世界が見えてきた。
二度目の光景に、やはりルナは違和感を覚える。
(鳥かごみたい)
一回目に来た時より色のない世界の範囲が狭くなっているせいかと思ったが、それにしては引っかかるものを感じ、首を傾げる。
なんだろうなぁ、と思いながらついそのままの勢いで色のない世界に足を踏み入れた。
(―――あ)
慌てて手元の花に視線をやる。鮮やかな黄色が目に飛び込んできて、驚くと同時に摘んだ時以上の安堵を感じる。ここまでは何も心配することはなかったようだ。
顔を正面に向けて彼を探す。あまり目を凝らすことのない距離に彼はいた。
草原の世界からではそんな近くに彼がいることはわからなかったのだが、やはりここは世界が違うのだろうか。不思議、不思議、と心の中で連呼しながら彼に近づく。
また、彼は耳を塞いでいた。何も聞きたくないように、強く強く耳を押さえてうずくまっていた。
「こんにちは」
臆せずルナは声を掛ける。わざと明るい声になるように気をつけながら。
その声にバッと顔を上げた少年はやはり目を見開き驚いていた。
「まだ、ここにいるんだね」
口を開けたり閉じたりしている少年は困惑していることがよくわかる。綺麗な顔立ちなのに、混乱しているその様はより彼を幼く見せ、ルナの庇護力を掻き立てる。
傍から見たらただの変態に近い状態になっていることに早々に気付いたルナはあまりにやけない様に口元を引き締めた。それでも、微笑は崩さない。
「どうして…―――」
「これ、どうぞ」
ようやっと声を出せた少年の問いに被さるようにルナは大切に持ってきた花を少年に差し出した。
少年は最初、差し出されたソレが何であるのかわからないように目を瞬かせた。そしてじっと見つめて、ようやくソレが花だとわかると美しい顔を強ばらせた。ルナは安心させるように微笑んだ。
「約束」
「…え?」
「あっちの花をあなたにあげるっていう約束。忘れてしまったの?」
首を傾げて問えば、僅かに彼の瞳が淡く揺らいだ。再度、ルナの手元の花に視線を向ける。
「……」
少年は手を伸ばさない。それなのに唇を噛みしめて泣き出しそうな表情をするものだから、ルナは彼の手に無理矢理この花を受け取らせようかと思った。
それでも、待った。彼の葛藤はわからないものではないからだ。
彼は考えている。きっといろいろなことを思っている。だから声は掛けない。急かすつもりもない。
――――どれほど待っただろう。
きっとそんな時間は経っていないだろう。
少年がやっと、動き出した。手を伸ばす。
ルナの手の内の花に触れる前に一度、躊躇うように止まったが、やがてそっと花を包み込むように手にとった。
「…咲いてる」
「ふっ…」
呆然と少年は呟いた。まだ実感が湧かないようで、まじまじと手の中にある黄色の花を見つめている。
それがなんとなくおかしくて、ルナは思わず吹き出してしまう。ついで、くすくすと笑った。
「っ、そ、そんなに笑わなくたって…」
「ふふっ、あはは、ごめん、ごめん。なんだか安心しちゃって…ね」
知らずこちらも緊張していたのだろう。ひとしきり笑った後、深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。
「知らなかった。花の精ってそんなに笑うんだ」
「うん、あの、違うけど。この前も言ったとおり、普通の人なんだけど」
笑われたことが恥ずかしかったのか、少々照れながら目を伏せる少年に自身のイメージがかなり美化されている気がして一気に罪悪感が募るルナである。
しかし、少年は続ける。
「でも、わざわざ花を枯れさせないために、コレに魔法をかけておいたんだろう?」
「え、ええ…?」
突飛なことを言い出す少年にルナは耳を疑う。魔法ってなんぞや。
「―――じゃなきゃ、ここに咲いていられない」
続けられた言葉と、眩しいものでも見るかのように手の内の花を見つめる少年に、彼が何を言わんとしているのかルナは悟ってしまった。
―――あぁ、そうか。
「それは、あなたの花。あなたが生み出した花。だから、あなたの手の中で生きることができる」
のろのろと顔を上げた少年の瞳は、やはり不安に揺れていて、もろく崩れてしまいそうな危うさを感じる。ルナは意を決して口を開いた。
「ねぇ、あなたの夢―――教えて?」