講義と休憩
期限が二週間というのもあり、講義とレッスンをするにあたって、ルナは本気で気持ちを引き締めて挑むつもりでいた。
自分のために時間を割いてくれている恩義を、仇で返すことをしてはならない。その心構えを昨夜、胸にとどめておいたのだ。
それにも関わらず、ルナの本気は双子の侍女たちによって出鼻を挫かれることになる。
「では、いきますよ、ルナ様」
「ん? これって…うぐッ!?」
次の瞬間、勢いよくヒルダとヨルダに腰元から伸びる紐を引っ張られ、同時に腹部に強い圧迫感が襲い掛かり、ルナは息を詰めた。
『これは着物の時の締め付けの比じゃない』と後のルナはそうこぼしたと言う。
三日目にしてまさかのコルセット初体験をしたわけだが、あまり嬉しくなく、依然として腹部にじわじわと攻撃を仕掛けてくるコルセットを恨めしく思う。
この世界にコルセットがあったことも驚きだが、それがまだ廃止されていないことにもっと驚いた。
確かに背中と腹部を締め付けているため背筋がピンと正される感じはするが、とてもいらない気がして仕方がなかった。コルセットは腰のくびれを際立たせるためと聞いたが、ルナは猫背矯正と判断した。ルナ自身は猫背予備軍だが、コルセットを断る前に付けられ、挙げ句問答無用で締め付けられて、もう回避のしようもなかったため、そう思うことで自分を納得させていた。
「え、それも付けるの?」
「はい、ルナ様。このブローチは光の加減によって色を変えるんですよ。きっと、今回の衣装に合います」
「髪も下ろしたままでもいいんじゃ…」
「いいえ、ルナ様。淑女たるもの、常に着飾っておくものです。ですが、今日はダンスのレッスンもありますから後ろのほうは軽く流しておきましょう」
「この黄色の花飾りも綺麗にルナ様の髪を彩ってくれることでしょう」
侍女たちは優しく囁きながらルナの身支度を整えていく。
ルナも女だからこそ、着飾るのは嬉しいし、楽しい。
しかし、これほどまでにもきらびやかな装飾は見慣れず、まして自分が身につけているとなれば確実に胃に負担がかかっているような気がしてならない。
―――彼女たちの本気を侮っていた。
着付けられていく中で早くも後悔の念が湧き上がる。
「さぁ、ルナ様。鏡をご覧下さいませ」
「今日もお美しくいらっしゃいます」
姿見に導かれて、改めて着付けられた自分を眺める。
今回は淡い青を基調としたドレスで胸元には蝶々をかたどったブローチが付けられている。光の加減で紫にも青にも見える不思議な石で、とても綺麗だった。
髪もサイドは控えめに編みこまれ、後ろで複雑にまとめられているが、黄色の花飾りで収まっているように見える。あえて背中に流れるように髪を残しているため、首元が心細いとは感じなかった。
うっすらと化粧も施されているため、頬も上気しているように色づいていたのが印象的だった。
(本当に、お姫様みたいな待遇だな…)
この格好で、これから礼儀作法の講義を受けるというのだから驚きである。
講義、と聞くと学校の教室が頭の中に浮かぶ。
教壇と黒板、整然と並ぶ机と椅子。小、中、高で慣れ親しんだ学び舎。そこに今の格好の自分が座っている姿を想像してしまい、あまりに滑稽な光景に口元が僅かに引きつった。
ドレスのきらびやかさが台無しである。
「あの、今から講義なのにこんな格好でいいの?」
ヒルダとヨルダが教師なのだからこの質問は愚問だと思えたが、そう問わずにはいられなかった。
それにも動じず、二人はにこやかに首肯した。
「はい、ルナ様。ルナ様の場合、まずはドレスに慣れる必要もございます。衣服ひとつとっても、普段と同じものではないという違和感は心に陰りも生じやすくなります」
「華やかな場というのはただでさえ慣れぬもの。王宮となったらそれも一入でございましょう。心が重荷を感じるほど辛いものはございません」
「私たちはその心の負担を少しでも軽減できるように尽力するのみ。どうぞご安心くださいませ」
「今回は基本姿勢から実践を含めて行わせていただきます。お隣の部屋がルナ様の講義の場として使えるようになっております」
「では参りましょう」
予想をはるかに上回る論理的な答えを返され、しみじみと自分が庶民だということを感じたルナだった。
侍女たちは丁寧にルナを隣の部屋に導いた。
新学期に新しい教室に入った時のように心を改めて、ルナは前を見据えて部屋に足を踏み出した。
*******
ルナは猫背予備軍と称していたが、実際の姿勢はよかった。
小学校一年生で正しい姿勢を習得していたのもあり、基本姿勢から歩き方などは予想よりも早くヒルダやヨルダから合格をもらえた。
彼女たちの話によると、一般的には基本姿勢で時間がかかるという。ルナのような村人は幼い頃から労働しており、井戸の水汲みに、洗濯、掃除と腰に負担がかかるものばかり。だからこそ姿勢が曲がりがちであり、なかなか直らないのが普通だということだった。
ルナも日本ではそれなりに家事を手伝っていたし、この世界に来てからはアリシアの手伝いもしていたから働いていなかったわけではないが、その話を聞くと無性に申し訳ない気持ちが込み上げる。
しかし、ルナからすればここまでコルセットで締め付けられるのに姿勢がなっていないというのも不思議な感じがしたが、あえて聞かなかった。
(つ、疲れた…!)
聞けなかったというほうが正しい。
ようやく椅子に座り、人心地つけたルナは少しの間放心していた。
基本姿勢から歩き方までほぼ立ち通しだったのもあり、慣れないヒールでつま先がジンジンと痛む。
これならば、普通の体育の授業の方がマシだ。
淑女になる者はこれを幼い頃からしているそうだ。
さらにいえば、貴族は幼少期から貴族関係を知る授業が早くに取り入れられ、その他にもダンス、ピアノ、バイオリンや絵画まで幅広く学ぶという。
もはやルナのカルチャーショックはとどまることを知らない。
(エミリーはいつもこんな授業をしているのか…。―――凄いな)
幼い皇女の姿が脳裏に過ぎる。
誰にも知られてはいけない身の上だから気軽にヒルダとヨルダに聞くことは出来ないが、実際にはそのようなことがあるのだろう。
それはレッスンを抜け出したくもなる、とルナは心の底から同情した。
ルナは二十歳も過ぎて充分に“大人”の部類に入る。
だからこれから過酷になるであろう授業やレッスンも我慢することができるし、耐えることだってできる。
しかし、彼女は六歳とまだまだ甘えたい盛りだ。自立するには早すぎる。
それなのに、どうして彼女はあんなにも明るい表情をするのだろうか。
(あぁ、そうか―――)
ふとエルヒ王妃がエミリーを迎えに来たことを思い出す。
(あれはきっと、“わかってた”んだろうなぁ)
エミリーが毎日のレッスンを辛いと思っていることも。
エミリーが抜け出せば“乳母”が探してくれる。そうして見つけてもらって、手を繋いで…―――。
一緒にいられる時間が彼女の心を安定させていることを。
エルヒ王妃はそれらを理解していたから、部屋に入ってきた時にあれほど穏やかな表情をしていたのだろうか。急かすでもなく、焦るでもなく、寛容な態度でエミリーに接していた意味にようやく合点がいった。
あくまでルナの想像でしかないが、きっとそうだろう。
(だから、頑張れるのかな…)
ルナは自身の手のひらを見つめる。
エルヒ王妃とエミリーが一緒に帰っていく後ろ姿が目に焼きついている。
「……」
ゆっくりと瞼を下ろして、広げた手のひらをゆっくりと握り込んだ。
「ルナ様、ハーブティーはいかがですか?」
ハッ、と我に帰り、慌てて顔を上げる。少し心配げな表情のヒルダがこちらを見ていた。
「あ、うん。いただきます。ありがとう」
ソーサーごと受け取り、カップに口をつける。
温かくて、ハーブ独特の穏やかな薫りが心を落ち着かせる。
「あれ、ヨルダは?」
いつの間にかヒルダとルナしかおらず、ヨルダが忽然と姿を消した印象を受ける。
「はい、次のダンスレッスンで使う部屋をご用意するために先に行ってもらっております」
「ここでするんじゃないの?」
「いいえ。ここでは狭いですし、リフレッシュのためにも移動するのが良いのですよ」
「じゃあ、そろそろ行かなきゃいけないんじゃ…」
考え事をしていたのはほんの少しの間だとは思うが、実際の時間がわからない。
この部屋には時計がないため、確認できるとしたら外の太陽光ぐらいである。ルナの体内時計も正確さには大変欠けるものだからか、どれほど待たせているのか心配になったのだが―――。
「ルナ様、焦らなくても大丈夫でございます。準備が整い次第、ヨルダもこちらに参ります。それまで、ゆっくりと身体を休めてくださいませ」
ここまで言われては休まないわけにはいかない。
ゆっくりとカップを傾け、少しずつハーブティーを飲む。
「そのハーブはシェヘラの葉ですから、疲労にもよく効くとされています。じきに足の痛みも和らぎますよ」
「そうなの? シェヘラの葉って結構苦味がきつかったと思うけど、これは凄く飲みやすいね」
「よくご存知でいらっしゃいますね。シェヘラの葉は確かに苦味がキツいことで有名ですが、パルキの実と一緒にすると苦味が甘味に変わるんです」
「へぇ、知らなかった。アリー母さんでもそのまま煎じてたのに」
「…まさか、そのまま飲まれたのですか?」
ヒルダにしては珍しく恐る恐るといったように聞いてくることに首を傾げる。
「うん。主に風邪のひき始め辺りで出されて」
「ルナ様が飲んだのですか!?」
「え、そうだけど」
「まぁ…」
初めてヒルダが本気で引いている様子を目にして、ルナも驚く。
「もしかして、ヒルダは苦いの、苦手だったりする?」
「少し、ですが…」
「そっか。じゃあ、シェヘラの葉で出されたら逆に困っちゃうね」
「そうですね…」
ルナは知らない。
この国では、シェヘラの葉をそのまま煎じたものを飲むことはよほどのことがない限りしない。
野生の熊も失神するほどの苦味だと称されるシェヘラの葉。パルキの実と共にすることで飲める物になったのは確かに最近のことだが、前魔術師長だったアリシアがそのことを知らないはずがない。
何故あえてその葉を選んだのか疑問は残るが、ヒルダはそれを飲めるようになったというルナの方が感心の域を超える存在だと認識した。
尊敬というよりもやや心配げにこちらを見やるヒルダに少しの違和感を抱くも、ルナはヒルダの意外な一面を発見できた気持ちになって、同時に緊張がほぐれていった。
「ルナ様、準備が整いました」
「あ、おかえり。ありがとう、ヨルダ」
「何か、楽しいお話をされていたのですか?」
先程まで張り詰めた糸を思わせていたのだが、今は柔らかにルナが微笑んでいるのを見て、ヨルダは目を輝かせた。しかし、隣でヒルダがやや言いにくそうに目を逸らしたのが視界に映り、首を傾げる。
「ううん、ちょっとほっこりしただけ」
「そうですか」
後でヒルダに詳しく聞こう、と心の中でヨルダが決めたのを感じたのか、ヒルダもルナに気づかれないように僅かに頷いた。
ハーブティーを飲み終えたルナは先程教わった所作を意識しながらゆっくりと席を立った。
「待たせちゃってごめんね。おかげさまでゆっくり休めました」
「それはようございました」
「そういえば、ヒルダとヨルダの休憩は?」
「私たちのことはどうか気にせずに」
「え、でも…」
「さぁ、ルナ様。こちらです」
「階段も降らなければいけませんから、どうぞお気を付けて」
さりげなく話を流され、案内されるままに移動する。
廊下を歩いていく中で、ルナはこっそりとヒルダとヨルダにしっかり休憩を取ってもらえるようにしようと心に決めたのだった。




