危機感
デザートが終わった後、ミラナノラの紅茶を頂いて、晩餐会は静かに終わりを告げた。
来た時同様にシエルが傍まで来てくれた。そして当然のように手を取られたのにはさすがに驚きを隠せなかった。
エスコートって帰りも有効なのだろうか、と思った瞬間、くすっと微かな声が耳に届く。
「まぁ、アルフ。本当に積極的だこと」
「今宵は私が彼女のエスコート役なので」
「その素直でない性格は誰に似たのかしら。本当に親子だこと。でも、あなたなら安心ね。先程までわたくしたちは充分にルナ様の時間を頂いたんですもの。しっかりお送りなさいな」
「御意」
「では、ルナ様。明日、絶対に来てくださいませね!」
息子に向ける挑発するような眼差しから一転、無邪気な彼女の笑顔に咄嗟に言葉が出ずにコクコクと首を振ることでしか応えられなかった。
シエルの腕に手を添えたまま、まだ明るい廊下をゆっくりと連れだって歩いていく。窓の外は夜が深い色をしており、今歩いている廊下とは対称的な明るさに少し身体に違和感を抱く。
そういえばアリシアの家にいた頃と違い、ここに来てからというもの寝てばかりのような気がする。
恐る恐る、彼を見上げる。端整な横顔は真っ直ぐと行く先を見つめている。エルヒ王妃と会話している表情と同じものだった。
無表情ながらも、不思議と怖さはない。だが、今から言うことはもしかしたら怒られるかもしれないと思うと、少し怖かった。
こっそりと深呼吸をし、意を決して口を開いた。
「あの、シエル。着いたら私の部屋で待っててくれますか?」
予想と違い、ギョッとした顔でこちらを見たシエルにルナも驚いた。
歩みは自然と止まり、先導してくれていたヨシュアも驚愕をあらわにルナに振り返ったのが視界に映る。
「……ルナ? それは…」
「上着を」
「え?」
「ずっとお借りしていた上着を返したいのです。あの場所は、しばらく行けそうにないので」
今がまさに好機だ、とルナは直感していた。今返さずにいつ返すというのか。
息巻いて言った言葉は通じたようで、シエルは一瞬固まった後、安堵したかのように息を吐きだした。
「ルナって、大胆」
焦りのままに言ったのが間違いだったのだろうか。よくわからないことを言われた。
(大胆って、何)
先程の発言に『大胆』という言葉が当てはまるものが果たしてあっただろうか。
少し考えた後に、あっと気付く。
「あの、違うんです。シエルに会いたくないというわけではなく、あの場所はちょっと理由があって、今は行きたくないだけなんです。だから、その…」
確か、シエルにとってあの場所は待ち合わせに適したところであり、休憩所でもある。
カグラのいるあの庭は人を選ぶ。それは王族のみに限られているようだが、なぜかルナは入れる。
シエルからしたらそれは内密に話がしたいということではないのか。あの場所で会う、というのは一日限りという意味ではないのはルナにもわかっている。
先程の晩餐会でも様子を見ている限り、シエルが夢で悩まされていたことをほかの人は知らないようだった。だから、エルヒ王妃にもそれとなく言葉を濁して答えていたのではないか。
なんとなくエルヒ王妃あたりは同じような体験をしているから勘付かれているような気もするが、彼なりに秘密にしておきたい理由がそこにはあるのだろう。
そのための約束なのに、ルナから『行かない』と言ってしまったのだからそれは彼も驚くだろう。
王族の約束を蹴るような真似は誰だってしないだろうに、ルナはしてしまったから彼は『大胆だ』と評したのだ。きっとそうだ。
庶民如きが生意気言ってすみません、と言える空気でもなく、こっそりと胸の中で謝っておく。
緊張の面持ちでルナはシエルを伺うと、彼は何かを振り払うように軽く頭を振っていた。
「すまない。盛大な勘違いをした」
「え?」
「ルナのことは部屋まで送るけど、中までは入らない。だから上着は扉の前で受け取る。それでいい?」
「あ、はい」
「よし。行こう」
気を取り直したようにシエルが前を向く。ヨシュアもフッとため息を吐いて歩き出す。
奇妙な余韻が残る空気に、ルナは僅かに首を傾げる。
あっさりと了承されたが、本当にいいのだろうか。
ここまですんなりと事情を呑み込まれると、本当に聞いていたのか不安になるのは私だけだろうか、とルナは惑う。
ひたすら無言のままに部屋に辿り付き、ようやく上着を返せたルナは申し訳ない気持ちでいっぱいになりながらも笑顔でシエルたちを見送った。
深々と頭を下げていると、ヒルダとヨルダが部屋へと急き立てた。
「やっぱり、失礼だったかな…」
「どうなさいました、ルナ様?」
「ううん。…あのね、送ってもらったのに上着を返すだけってなんか失礼だったんじゃないかなって思って」
「と、言いますと?」
「私が育った家ではね、送ってもらったら家に上がってもらってお礼を言うの。時間があれば、お茶もふるまうんだけど…。それがあるからかな。なんだかお礼が物足りない気がして…。大丈夫? 後で誰か怒られたりしない?」
失礼があったら不敬罪で即牢獄行きという勝手な固定概念がルナの中にはあった。
慎重に慎重を重ねているつもりだが、やはり文化の違いはルナにとって大きな壁だった。
ヒルダとヨルダは互いに目を見交わし、狼狽えるルナに視線を戻した。
「ルナ様、それはアリシア様から教わったことでしょうか?」
「ううん。アリー母さんじゃなくて、私の本当の母から、だけど…」
「そうでございますか。ルナ様、非常に言いにくいことなのですが、この部屋は男性の入室は固く禁じられております」
「へ?」
「正確には、“【王妃の客人】のためのお部屋”でございますから、今回はルナ様お一人。女性でございます。ルナ様はエルヒ王妃陛下より歓迎され、その身の保護を約束された方」
「ですので、何か“間違い”があってはならないということで、この部屋に立ち入れる者は女人のみとなっております」
「間違いって…」
「世の中には不埒な方もいらっしゃいます。ルナ様の過ごしていらっしゃった場所とこことは随分と文化が違うようですが、どうぞそのことは頭に置いておいてくださいませ」
お礼の話から随分と飛躍した話になったな、とルナは固まった思考から僅かに思う。
“間違い”って、この話の流れからして“送り狼”や“夜這い”関連のことを指しているのだろうか。
やんわりとしたニュアンスで表現しているからいまいち確証はないが、きっとそうだろう。
(そんなこと、考えたこともなかったな…)
まして、今回その話の発端となった相手がシエルだ。あの冷静でストイックな彼がそんなことを思うことがまず想像できない。
あんな綺麗な人が自分自身に欲情するのか。―――ないな。絶対ない。
今のところ出会っている人たちは皆、義理堅そうな印象でルナの貞操の危機を抱かせるような人は誰ひとりとしていないのもあり、想像は現実味に欠けている。
とりあえず、お礼は部屋に上がってもらうことまでしなくてもいいことを頭に入れておく。
改めて、ヒルダとヨルダを見つめる。
見えないところでも守ってもらっていることが見えてきて、王宮って怖いなぁ、と思うのと同時に感謝の念を抱かずにはいられなかった。
「教えてくれて、ありがとうね」
「いえ、ルナ様。さぁ、入浴の準備は出来ております。今日は晩餐会でたくさん気を遣われましたでしょう」
「明日より、わたくしたちのレッスンも始まります。どうか今宵はゆっくりお休みくださいませ」
「うん、じゃあお言葉に甘えて。ありがとう」
ようやくホッと一息つけたルナは侍女たちと共に微笑みあった。
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夜空に星が瞬く頃、少女は桜の木の下に歩み寄る。
そっと手をついて、額を幹に寄せてそっと挨拶を交わす。
『……なんじゃ、姫か』
「うん、こんばんは、カグラ」
エミリアは頭の中に直接響いた言葉に安堵した。
カグラはやや機嫌が悪いようだが、応えてくれたということはここにいてもいい、ということだろう。
『どうしたのじゃ』
「ちょっと、お話したくて。今日は、晩餐会なのです。ルナ様との…」
『ふむ、そなたはまだその場所には現れてはならぬ身。だから、ここに来たと』
「うん。遠くからでも、お姿が見えたらいいのだけれど」
『随分、入れ込んでおるな。かように【夢の渡り人】は魅力的か?』
「とっても、お優しい方でしたわ。またお話してくれるのですって。もうそれだけでも嬉しくって」
『さようか』
「カグラも、ルナ様とお会いになったのでしょう?」
『会った。だが、まだダメじゃ。あの者は迷いを持った。しばらくここには来まい』
「……ルナ様に、何かしましたの?」
すぐには返答は返って来ず、エミリアは少しやきもきする。
カグラからはあえて沈黙を守ろうとする意思も僅かながらに感じられた。やや不安になった頃、カグラはようやく口を開いた。
『のう、姫。わらわは長い時の中である願いを持っておる』
「うん」
それはいくら聞いても、カグラがエミリアに教えることはなかった。
今も、教える気はないのだろう。カグラはとつとつと語る。
『【夢の渡り人】は不思議よの。一度は耳を塞いだというのに、二度目は自らやってくるとは。わらわの願い、どこまで感じたか』
「ルナ様に、願いをおっしゃったのではないのですか?」
『言ったとも。わらわの願いは一つだけ。しかし、あの者は同じようで全く違うものを感じたような顔をしておった』
「…カグラ?」
『面白きこと。ほんに、あの方の魂の形と似ている。土足でわらわの心に踏み込み、惑わしてくる。のう、姫。【夢の渡り人】には気をつけたほうがよろしかろ。魅了されたが最後。離れがたくなるぞ』
「わたくしは…」
何を答えていいのか分からず、フッと目を開けた。
言われたことを咀嚼するように考えながら向けた視線の先に、次兄の腕に控えめに手を添えている【夢の渡り人】がそこにいた。どうやら晩餐会はもうお開きになったようだ。
少し緊張しているのだろうか、彼女の表情は固い。
「……ルナ様」
それでも真っ直ぐに前を見つめるその姿は、エミリアにとって眩しくて仕方なかった。
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