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立場への理解

 今の状況はとてもじゃないが、冷静にはいられない。

 目を閉じたところで思考は空回ってばかりだし、シエルは何も喋ろうとはしない。

 本当に様子を見に来ただけのようだ。それだけがせめてもの救いだ。

 少しだけ余裕の出てきた頭で、ふと思い出す。

 そうだ、上着―――。


「あの、ごめんなさい。この時間に会えるとは思っていなくて上着を持ってきてないの」


 というか、昨日も寝落ちしてしまったから上着の件は侍女たちがしてしまった気がしないでもない。

 ますます申し訳なくなって、視線が下がると彼は淡々と答えた。


「それは構わない。ここであともう一回会える機会がある。そういうことだろう?」


「う、うん…?」


 そう、なるのかな…?

 真っ直ぐに見つめられて、相手がまるで正論を言っているかような錯覚を抱く。

 いや、返さなければならないから会う、会わないの話だと確実に会うことになるだろうけれど。

 涼しい顔で飄々とのたまう彼を見て、何か空回った気持ちになる。

 彼はこの国の皇子だ。上着には困らないだろうが、一介の村娘が持っているとなるとそれはそれで…。

 そこまで考えが及んで、ふと気付く。

 彼は…皇子?


「あ」


 こちらを見つめていた彼は当然、ルナの発した言葉に反応した。

 どうしたのだろう、と不思議そうな表情で、こちらの次の発言を待つ姿勢を見せた。


「あの、その、シエル?」


「うん」


「あの、あなたは、【シエル】…なの?」


「うん。そう名乗った」


 これは聞き方が悪かった。すぐに反省する。

 しかし、彼は至極当然のような顔はしないで、これから聞かれることをわかっているかのように神妙に頷いている。それが、ルナには引っかかった。

 まさか…?


「【アルフレッド皇子】…では、ないの?」


 核心を突いた手応えはあった。しかし、彼はうろたえることはせずに、相変わらず涼しい顔でこちらをみている。

 視線がそらされないことにルナはますます動揺した。

 自分は何か見当外れなことを言ったのだろうか、と。


「いや、あってる」


 なんだろう、試されているような気がした。


「じゃあ、【シエル】って名前は?」


「それも僕の名前」


 疑問符のみが頭の中を飛び交う。

 それは、おかしいのではないか。

 アルフレッド、という名前があるのなら、彼のフルネームは【アルフレッド・シン・オルキス】の筈だ。

 どこにも【シエル】なんて言葉はない。

 そこで、ルナは閃いた。


幼名ようめいってこと?」


 それは日本でも古い時代の話だが、考えられるのはそれしかない。

 生まれた時に名付けられる“幼名”。だが、成人を迎えたら名前を改めるということがあったというのを歴史の授業でちらりと聞いたことがある。

 彼との夢での出会いは彼が幼い姿の時。だから、本名でなくとも幼名でわざわざ名乗ったというのなら納得できる。

 ルナは半ば確信を持って尋ねるが、彼からは意外なことに「幼名?」と尋ね返されてしまった。


「…違うの?」


「幼名…幼い時の名前ってこと? 僕は虫じゃない」


 まさかそこで“虫”という単語が出てくるとは思わず、ルナは焦った。

 確かに、幼虫と成虫で名前が違うものはあれど、それを至極真面目に言われるとは予想外にもほどがある。

 「そんな失礼なこと、言ってません!」とこれまたはっきりと告げるしかなかった。

 「じゃあ、幼名って何?」と案の定、尋ねられてしまう。


「生まれた時につけてもらった名前のこと。だから、幼い時の名前って言うのはあってます。そこから元服げんぷく…ええっと、今で言う“成人”になったら本当の名前をもらえるんです。“幼名”はその時までの仮の名前ってところかな…」


 こんなことなら、歴史の授業をしっかり聞いておくんだった。

 確か、源義経が【牛若丸】と名乗っていたあたりのくだりしか正直記憶に残っていない。

 わりと適当に言っている自覚もあるので、自信なさげな音量になる。

 歴史の先生が傍にいたら確実に叱責が飛んでくる予感がする。

 いいの、私、文系だけど歴女じゃないから、なんて誰も聞いていないのに言い訳が頭の中に浮かぶ。


「【シエル】は幼名じゃない」


「そのようですね」


 なんせ、今その説明を聞いたのだから。

 じゃあ、後、考えられるのはなんだろう。

 ―――…偽名? それは、面と向かって尋ねるのは勇気がいる。

 そもそも偽名だからといって、ルナ自身が困るわけではない。

 いや、世間体では困るから、それとなく聞いておこう。


「やっぱり、【アルフレッド皇子】って呼ばせてもらったほうがいいですよね?」


 既に謁見で互いの素性はバレている。いまさら、隠すことなんてないだろう。

 最初の方は思わず敬語が抜けたが、これからはよく意識していかなければ。もうボロは出ているが、これから気をつけたら大丈夫だろう。

 相手は、“王族”なのだから。


「なぜ」


 またもや端的な問いにこちらも『なぜ』と問い返したくなる。

 心無しか、少し相手の機嫌が下がったように感じた。柔らかな笑みがもう、見えない。

 それでも憤ってはいないようだが、いつその方向に流れるかわからない危うさを感じて、内心ヒヤヒヤする。


「だって、皆さんそう呼んでいらっしゃるでしょう?」


「ルナには【シエル】と呼んでほしいと、そう言ったはずだ」


「そうですが…でも、名前は大事ですし…。私はただの村娘です。今はこうして客人としていますが、それもすぐに―――」


「名前は大事というなら、【シエル】と呼んでほしい。あなたの身分は関係ない」


 言葉を遮るほどの断固とした姿勢を彼は見せた。

 絶対的な命令のような冷たい声音は、妙に心に突き刺さった。


「関係、ありますよ…。きっと、この世界では…」


 【王妃の客人】としての今の立場だからこそ、彼の名前を違うように呼んでも、きっとそれは失礼には当たらない。【皇子】より、【王妃】の立場が上だというのはわかっているのだから。

 しかし、ルナ自身はもとは村娘。

 皇子の名前を間違えたらどうなるか…誰が考えたってわかる。それは不敬だ、と。

 彼に対して敬意を持っていないという現れのようで、ルナにはそれがイヤだった。

 “王族”なんて、そんなものは身近には感じられなかった日本で育ってきた。

 だが、この世界で“王族”という人たちが政治を担ってくれた事実は知っている。

 皇子たちもその一端を担っているという事実も小さな村にまで伝わってきているのだから、その苦労はルナには計り知れない。

 だから、尊敬もしているし、感謝もしている。

 彼が何故、偽名を押し通そうとするのか皆目見当もつかなくて、ルナは困惑する。


「ルナ」


「はい」


「僕はあなたを恩人と認めている。だからこそ、呼んでほしい。【シエル】と」


 真剣な瞳がルナを射抜く。

 ここまで言われて、ようやくルナは微かな違和感を抱く。

 ―――この言い方はまるで…。いや、そんなはずない。それこそ、“ありえない”。

 すぐに考えを打ち消し、ルナは小さく彼の名前を呼ぶ。


「もう一回」


「…シエル」


「うん、それが、僕の名前」


 満足したように、穏やかな笑みがようやく彼に浮かんだ。

 その様子に、ルナは心の片隅で先程思い浮かんだ考えがもう一度頭をもたげたのを感じていた。


「そろそろ、行こう。お手をどうぞ、レディ」


 目の前には差し伸べられた手。きっと、この手に触れたら優しく包み込んでくれるだろう。

 もはやその感触を覚えた自身に、ルナは愕然とした。

 唐突に、自分の主張は矛盾していることに気付いた。


 村娘だと言っているのに。庶民でしかないのを知っているのに。

 この手に、私は当たり前のように―――。


 それは悪いことではないのだろう。けれど、一度矛盾を自覚してしまったら、ためらいを捨てられない。


「あの、私…」


「もうそろそろ、ルナも戻らないと。今夜の晩餐に間に合わなくなってしまう」


 なんとか適当なことを言ってその手を辞退する方向に持って行きたかったのだが、彼はそれを見透かしたような絶妙のタイミングで言った。

 ハッと、空の様子を確認する。未だ、陽は頭上高くあるが、次に自身の姿を確認する。ドレスの所々に桜の花と草が付いている。ああ、どうしよう。

 この調子ならきっと、髪にもそこかしこに付いているのだろうか。

 今の今までそんな姿で彼と話していたということに羞恥すら浮かぶ。


淑女レディの支度は時間があればあるほどいい、と聞いたことがある」


「いえ、多分、そこまではされないと思いますが…」


 そこまで言った瞬間に双子の侍女の姿が脳裏に浮かび、「いや、される…?」と考えを改める。


「準備ができたら、今宵は僕にエスコートさせてほしい」


「え?」


「これが、その予行練習だと思って。さぁ、手をとって」


 謳うように彼は言葉を紡ぐ。

 それが不思議と心に染み入り、思わず彼の手に自身の手を置いてしまった。

 軽く握られ、優しく引かれる。


「本番は、もっと肩の力を抜くといい」


 まるで軽い冗談を言うような調子で言って、彼はそのままルナを扉にいざなった。

 ルナは腕を引かれながら、彼の後ろ姿を見ながら思う。


 彼は、どうしてここまで自分に構うのだろう。

 たった一度か二度の夢での逢瀬。

 彼自身が鳥かごから抜け出したのに、私を“恩人”だという彼の真意がわからない。

 名前だって、彼が強くこだわったのがとても気になる。


 ―――私は、彼に何をしてあげられたのだろうか。


 それが知れたら、この奇妙な胸のモヤモヤがわかるだろうか。

 その気持ちと、カグラへの切実な想いはつながっているように思えて、ルナは気持ちを落ち着けようと、あいている手を胸元においたのだった。

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