カグラの真実
「いってらっしゃいませ、ルナ様」
「どうぞ、お気を付けて」
「うん、いってきます」
双子の侍女と、そして何故か着いてきたロビンとサハラに見送られ、【時の庭】へと続く扉をくぐる。
目指すは桜の木―――カグラのいる場所。
遠目からでもわかる、儚くて荘厳で美しい花々。
―――私の、好きな花。
『魔力値がおおよそ多めということでしょうか』
『つまり、一緒に闇に引きずり込まれる可能性があるってことです』
魔力値と聖力値については、アリシアから聞いていた。
それはこの世界に来てまもなくのこと。
毎夜毎夜違う人の夢を視ているようだ、と話した時に少し教えてもらっていた。
魔力値、聖力値は人が必ず生まれながらに持っているモノ。通常の人は微量にしかないようで、王宮で働く騎士や魔術師は通常より多く持っていることが条件としてあるようだ。
ロビンが言っていた通り、魔力値は闇、聖力値は光に属する。あくまでそれは“能力”として見られるが、魔力値と聖力値のバランスは心にも作用すると一節では論じられていると小耳に挟んだことはある。
どこまで本当かは知らない。
そもそもルナは夢を視るが、魔法を使えるわけではない。“予知夢”に関するものを視てもそれはルナ自身の夢ではない。他人の夢だ。
一度、アリシアに能力を測ってみてもらうと通常の人より断然に低かった。底辺中の底辺。むしろ無いと言ったほうが正しい。
異世界に来ても平凡に暮らせというお告げかと思うくらいに微量だったのは記憶に新しい。
その時にアリシアが凹むルナを励ますために肩に手を置いてくれたのがせめてもの救いだった。
―――ルナには傍に支えてくれる人がいた。
しかし、カグラは違う。むしろ突然に現れ、怪しまれてきた。
どのように調べたのかわからないが、きっと孤独感に苛まれたことだろう。それはあくまでルナの憶測でしかないがカグラの言葉が思考に過ぎる。
『そなたと“一緒”など、戯言を』
そうだ、私と彼女は違う。現れた場所も、きっとその意味も―――。
「だから、もう一度あなたに会いに来た。ねぇ、あなたの夢―――教えて?」
目の前の桜の幹に両手を伸ばす。
そっと触れた感触と同時に、視界が暗転した。
******
暗い暗い闇の底に落ちていく感覚。
それはゆっくりと穏やかな降下。足元に桜の花を満開にさせた木が一本見える。
まだ、遠い。
―――行かないで。
頭に響く声―――これは、カグラ?
そう認識すると視界は急にブレて、目の前にシャボン玉のような球体が次々と現れる。
水泡の中にはどこかの丘の上だろうか。綺麗に晴れた青い空と、下には田園地帯が広がっている。見晴らしのいい、のどかな風景。
少し曇っている空や、鮮やかな夕焼け空が広がっているものなど一つひとつの水泡に映し出されているのは場所こそ同じだが風景は違う。
カグラの記憶だ、と思い至ったところで全ての水泡に一人の人影が現れる。
狩衣、といっただろうか。まるで平安時代の高貴な身分の者が着ていそうな服。それを身にまとった一人の青年が歩みを進めている。
涼しい目元、その瞳は空の色合いによって黒色にも茶色にも見えた。髪は肩下まであるのか、無造作に後ろに一括りにされていた。穏やかな表情は優しそうという印象を抱かせる。
少しずつ近づいてくると、彼はおもむろに懐から一本の笛を取り出した。
そして、立ち止まりこちらに向かって音を紡いでいく。
彼自身も楽しげで、切なげで、穏やかな表情なのがまた甘い音色に聞こえてくる。
うきうきと、そしてドキドキと高鳴るこの気持ちはカグラのものだろうか。
―――この時だけは、二人だけの世界。
曲が流れている時は確かに互いが結びついているような不思議な感覚。
互いの感情が笛の音を通して交錯する。その歓びにルナは不意に泣きたいような気持ちになった。
綺麗だと思った。
曲はあっという間に終わった。きっと、何曲も吹いてくれたのだろう。
それでも、彼女の感覚は“あっという間”だった。
『また、吹きに来るよ』
―――本当に?また会える?
―――まだ行かないで。もっと聞かせて。
それは彼には聴こえない声。それでも、彼は彼女を優しく撫でて、穏やかに微笑んだ。
『また、明日』
その言葉は別れの合図。そしてまた、彼女の胸は甘く疼くのだ。
それきり、水泡は風景を映し出すことはなかった。
ただひとつだけの水泡を除いては―――。
目を凝らして、見る。地面を見下ろすような角度。青々と茂る草で紅色の髪がさらりと揺れた。
『あなたの名前、教えて?』
幼い声がやけに心に染み入った。
「―――まさかそこから現れるとは思わなんだ」
不意に背後から頭の中に響いていたものと同じ声が聞こえた。
「カグラ…」
気づいたら桜の木を正面にしていた。あの球体はもうどこにもない。
カグラは丁度、ルナを挟むように腕を組んで立っていた。
いつの間に地面に足をつけていたのか、ルナには全く分からなかった。
不機嫌そうに眉を顰めているカグラはそれでも美しい。ゆっくりと距離を詰めようと彼女は歩を進める。風など吹いていないのに、彼女の漆黒の長い髪はゆるやかに流れる。同時に簪も儚い音を立ててきらめく。
「人の想いはこちらの予想を裏切る。せっかく道をこさえたというのに、全くの逆側から来るとはなんたること」
これは、怒られているのだろうか。
「なんかごめん」
「良い。約束は違えてはおらぬ。して、ルナよ。何か手がかりは掴めたか?」
「えっと…」
「まさか、何もないというわけはないじゃろう?」
「その前にひとつ、確認しておきたいことがあって…それから調べてみたいの」
「確認…?」
「ねぇ、あなた、“どこに”還りたいの?」
他人の夢の中ではルナは直接的にその人の感情が流れ込んでくる。
この夢に降りてくる中で勿論、彼女の気持ちに直に触れた。
そこには切ないほどの恋しさ、愛おしさ…そして淋しさが渦巻いていた。
昨日のような切羽詰った焦燥感は不思議と感じられなかった。
だから、再度彼女に問いかける。
本当に還りたいか―――。
「前も言った通りじゃ。わらわはあの方のもとへ還りたい。わらわの願いはそれだけじゃ」
カグラの言葉に偽りはない。しかし、ルナはとても冷静に彼女の夢を感じていた。
―――わらわを、【月の君】のもとへ…。
昨日と同じ言葉。しかし、今日は全く違う言葉にルナは聴こえた。
それはある種の決意が潜んでいた。
―――早く、あの人に会いたい。
―――ねぇ、あの人に会わせてあげて。
そこに込められた意思にルナは愕然とした。
「今の声も、“あなた”なの?」
「?何を言うておる、ルナ」
怪訝そうにこちらを見つめるカグラにますますルナは困惑する。
彼女は“知っている”。だから、こんなことを平気な顔で言っているのだろうか。
ルナは小さく深呼吸をした。
今から尋ねることは彼女を壊しはしないか。傷つけやしないか、それが気がかりだ。
しかし、言葉を選んでも聞きたいことは聞かなければ前に進めない。
ルナも覚悟を決めて、彼女に再度問い掛ける。
「【月の君】はきっともういない。それを知っているのに、あなたは本当にソレを望んでいるの?」
「―――…」
次元の話をしているのではない。やはり、ルナとは事情が違った。
彼女の気持ちに向き合ってよくわかった。
彼女は彼がもうどこにもいないことを知っている。
それがどんな結末だったのか、詳しいことは分からない。ただ、もう彼女の傍で笛を奏でることはできなくなったこと。それを彼女は“知っている”。
つまり、会いたいという想いに隠されたのは―――。
「―――長い時間を、ひとりで過ごすのは飽いた。あの方の笛の音だけが、わらわの唯一の救いだった。それを失ってしまった。だが、わらわは自身の命を断つことを許されておらぬ。それがどれほど苦痛であるか、そなたは知らぬだろう」
カグラは独白するように憂いを帯びた表情でゆっくりと話し出す。
「ある日、わらわは龍神に乞いた。この命を差し出す。その代わりに、わらわをあの人のもとへと―――。だが、何を思ったか、かの龍は憔悴するわらわをあの場所から離した。皮肉にも、かの龍神の力がわらわにも流れ込み、またわらわの寿命は伸びた。ほんに、滑稽なことよ」
「―――っ」
燃えるような怒りの感情がルナの胸に襲いかかる。
その怒りは『苛立ち』『もどかしさ』が入り乱れているのをルナは感じながら受け止めていた。
しかし、徐々にその感情は沈静されていく。
「あぁ、忌々しい。わらわの感情にさえ干渉するなど。怒りに“打ち水”をかけよって」
カグラは舌打ちをしそうな剣幕であったが、うまく憤りが収まったようだ。
憂いを吐いて、彼女はまたまっすぐとルナを見つめた。
「夢の渡り人、わらわはここから動けぬ。あの方を失ったその日から、わらわは動けぬまま。時も、もう感じぬ。のぅ、わらわに生きている意味などなかろう?」
「本当に、終わらせたいの?」
「最初から言っておる。【月の君】のもとへ還してほしい」
今度こそ素直な感情がルナに流れ込んでくる。
―――あぁ、哀しい。淋しい。わらわは、ずっと“独り”。
それならばいっそ―――。
「……」
「…よい、そなたには酷か。まだ迷いがあるうちはわらわを還すことはかなわぬ。今日は帰るがいい」
「待って、カグラ。私とまた、話をしよう」
「説得しようなどと考えても無駄じゃ。気持ちが定まるまでわらわの前に現れてくれるな」
「そんな…、そのために私を呼んだの?」
「それ以外はわらわには不要じゃ」
彼女はゆっくりとルナの横をすり抜けて、桜の前に立つ。そしてこちらに振り向いた。
諦観を抱くその瞳と目が合い、ルナは歯噛みした。
「そんなのって、あんまりだよ」
「そなたは不思議じゃ。まるで、あの方のよう―――」
眩しいものをみるように彼女は目を細めてこちらに両手を伸ばした。
「次こそ、楽しみにしている」
両肩を押されて視界が花びらで埋め尽くされる。
どこかで何かの鳴き声が聴こえた気がした。
******




