身勝手な依頼者
*******
逃げろ、逃げろ。
焦燥が“彼”の心を焦がそうとする。
次の角を曲がっても、まだ道は続く。
人の気配が感じられる。
まだ、追いかけてくる。
逃げろ、逃げろ。
―――これは、“彼”の夢の中。
ルナは“彼”から距離を置き、空中に浮かび、“彼”が走る街を俯瞰する。
まるで迷路のようにいくつもの角があり、街は果てしなく続いていた。
誰も、“彼”を助けることはない。街の家々灯りは点いてはおらず、街灯だけが道を照らしていた。それでも、ほの暗い。
入り組んだ道を“彼”は見えない何かから必死に逃げている。
昨夜と、同じ夢。
“彼”は行き止まりに着いてしまった。その時に周りの景色も唐突に変わる。
“彼”は、手を伸ばす。
あの光を、取らなければ。取らなければ。
アレを取ったら、きっと救われる。
―――“あれ”が救われる。
そこには愛おしく切ない感情が溢れてルナに流れ込んでくる。
恋焦がれて、手を伸ばして。
けれども“彼”の予想通り、その光は徐々に小さくか細くなっていく。
ルナはそこで直感する。
(あれが、鍵だ)
彼の求めているもの。恐怖の中に、隠れた本当の願いの正体。
しかし、“彼”は視線をそこから外し、目の前に眠っている一体の影―――龍を視界に入れた。
一気に恐怖が増し、“彼”はまたしても混乱を極めた。
そして、その手に現れたナイフを振りかぶって―――。
「ダメ!!」
ルナは声を張り上げた。“彼”はびくり、と肩を揺らした。急いでひき止めようと、手を伸ばす。
あと少しで、彼のナイフに手が届く―――その時だ。
ザァッ、と無数の花びらがルナと“彼”の視界を覆う。
思わず顔を腕で覆い、うっすらと瞳を開けても、花びらが視界を邪魔してわからない。
「なぜ、邪魔をするんだ…!」
“彼”の切実な叫びを最後に、その夢は途切れた―――…。
*******
花びらが落ち着き、改めて辺りを見渡す。
真っ暗な闇がどこまでも続いている。先程の喧騒が嘘のように静かな空気が流れていた。
「…まだ、夢の中?」
「ご名答」
背後から聞いたことのある声が聞こえ、ゆっくりと振り返る。
大樹である桜がひらひらと花びらを散らせていた。そこに腰掛けるのは天女の格好をした―――。
「カグラ…どうして」
「また会おうぞ、と言ったはずじゃ」
悪びれず、カグラは不敵に笑った。
ルナは納得できない思いを隠さず、彼女を睨めつけた。
「ついさっき会ったばかりじゃない。“彼”の夢にまで来て、どういうつもり?」
「そう怖い顔をするでない。わらわは、わらわの願いのため、そなたを迎えに行ったまで」
「順番くらい待ってほしいものね」
「そなたは【夢の渡り人】であろう。あやつの夢が終わったとしても次がわらわの番とは限らぬじゃろうて」
それを言われては言い返せないのも事実である。
ルナは静かな怒りを胸に押し込めて、彼女に向き直った。
「あなたの願いはわかったわ。その想いの強さも…。でも、夢の中では解決の糸口さえ見つからない問題なのよ。もう少し時間を頂戴」
「いつまで待てばいい」
「それには答えられない。でも、探す時間がなければ困るのは私もあなたも一緒。それはわかってほしい」
「…むぅ」
「だから、今回みたいに他人の夢に干渉してまで私に関わろうとしないで。お願いよ」
最後の“彼”の身を切るような痛烈な声が頭にこびりついている。
今回の夢で、“彼”にどのような影響を及ぼしたのか想像が難しい。
(何もなければいいけれど―――…)
恐怖にまみれた複雑な意識の夢は大抵良くないことが“彼”に近づきつつあることを意味している気がしてならない。既に、その一端に触れている状態なのかもしれない。
あの焦燥が、やけに頭に引っかかる。
だから、全く無関係な第三者に夢の状態を引っ掻き回されたことにルナは怒っている。
自分の願いが一番なのはわかる。同じ立場だから彼女の気持ちもわかっているつもりだ。
だが、それとこれとは別問題だ。
「―――…そなたに、わかるものか」
低く這うような声音が耳朶を震わせた。
一瞬、怒りを忘れて、ルナはカグラに視線を戻した。
「そなたと“一緒”など、戯れ言を」
澱んだ暗い瞳で、カグラは言う。
真っ直ぐと向けられた感情は、ルナに衝撃を与えた。
(―――重い…!)
心が押しつぶされそうな悲痛な―――…。
「もう良い。そなた、そこまで言うのならばわらわのところに来るがいい。一日でも来なかったら今回のように引っ張りだしてくれる」
―――わらわも、譲れぬのじゃ。
そう言って、すぐ近くに降り立った彼女は腕を伸ばし、ルナを突き飛ばした。
それが、彼女の退室の合図となった。
*******
ボフン、と枕に頭を受け止められたルナは少し呻いてうっすらと瞳を開ける。
瞬きをして少しずつ視界をクリアにしていく。
天蓋が目に入る。なんとはなしに眺めながら、夢を思い返していたルナはふつふつと込み上げる思いにうっかり言葉をこぼした。
「怒ってるのは私なんですけど…!!」
あの場で言ってやればよかった、とちょっとした後悔が胸に残る。
悶々とする気持ちを落ち着かせようとふかふかの布団に顔をうずめてふて寝を決め込んだ。
なんてワガママ。なんて想いをぶつけてくるのだ。
あぁ、もう…!本当に、どうしてくれよう。
「ルナ様…?」
「お目覚めでしょうか?」
控えめに天蓋の外からヒルダとヨルダの声が耳に届いた。
そこでハッとここはアリシアの家ではないことを思い出した。
「はい!起きました!」
慌てて目深に被っていた布団を払いのけて、背筋を伸ばして答える。
少しの間が空き、シャッとカーテンを開けられた。顔を見せたのはヒルダだ。
「おはようございます、ルナ様」
「おはようございます、ヒルダさん」
「…昨夜はよくお眠りになられましたね」
「はい、よく寝…ん?」
そこで、ひとつの違和感を抱く。
自分は一体いつの間にベッドに入ったのだったか。
確か、シエルに会いに行って、思いがけずカグラと会って、そして、無事にシエルに会ってそれから―――?
(あれ?)
恥ずかしい思い出しか出てこない。
おかしい。シエルに横抱きにされて、それで―――…?
「昨夜はアルフレッド殿下のもとで寝てしまわれたのですわ」
「この部屋にはアリシア様が連れてきてくださいました。アルフレッド殿下は入ってきておりませんからご安心くださいませ」
衝撃の事実をヒルダとヨルダから聞かせられ、驚愕する。
そして、狼狽した。
「え、あのまま寝た…?しかもアリー母さんが運んでくれたって…え?」
いろいろと信じられないことに目を白黒させながら尋ねると、ヒルダとヨルダはそれはもう丁寧に一つひとつ教えてくれた。
ルナの質問に答えながらも、モーニングティーを準備をしたり、朝食の席を準備したりと二人はてきぱきと動いていた。
ルナが羞恥心で思考が振り切れた時には既に準備は完璧に整えられていた。
普段のルナならば感嘆していただろうに。今は完全に頭を抱えていた。
もの凄く、失礼なことをした。しかも、相手は皇子で、上着さえも返せていない始末。
アリー母さんは自分を一体どうやって運んでくれたのかは分からないが、とりあえず重かったであろうことは想像に難くないのでまた謝っておこうと思う。
とりあえず、シエルのことが一番の難関である。何一つ聞きたいことも聞けず、泣いて終わった。
―――というか、寝過ぎである。疲れていたのはきっとシエルも同じだっただろうに。
何を呑気に寝入ってしまったのか。後悔だけが頭を巡っていた。
「また、アリシア様がアルフレッド殿下と会える機会を作ってくださるとおっしゃっていましたよ」
「ですからルナ様、そんなに気を落とされずに」
謝罪の場が与えられるということに少しは心が浮くが、正直、気まずい思いが拭えない。
どの面下げて会えばいいのだろうか。
今日は苦悩を抱えながら過ごすことになりそうだ、と予感した矢先―――。
コン、コン、コン、と三回扉がノックされた。
反射的に返事を返したが、扉の向こう側からは返答がなく、侍女たちと首を傾げる。
しかし、疑問に思う時間もなく、ゆっくりと扉が開かれた。
「【夢の渡り人】様は、ここ…?」
恐る恐る、といったふうに小さな女の子が顔を覗かせた。
誰…?と思ったが、ヒルダとヨルダが最上の礼をしたのを見て、相手の正体に思い当たった。
「…もしや、【皇女】様ですか?」
固まるルナを視界に映し、エルヒ王妃と同じ瞳をキラキラと輝かせて少女は元気に頷いた。
「はい!【夢の渡り人】様!わたくし、エミリア・シン・オルキスと申します。やっと、お会い出来ました!!」
単身で乗り込んで来た来客に、起き抜けのルナは眩しい笑顔を向けられ、キュッと目を細めるしかなかった。




