王妃のお茶会
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“彼女”は眠ることが少しずつ怖くなっていた。
眠る度に同じことを繰り返す事象。まるで“彼女”に見せつけるかのように夢の中の時は流れる。
それは人に話せば、たかだか夢の中の出来事と一笑に付せられるもの。
なのに、この胸はこんなにも締め付けられて痛い。不安が胸中に収まりきれないほどわだかまっている。
逃れられない夢。
―――あぁほら、また彼を救えなかった。
「誰か!誰か!」
地に伏す愛しい人の傍らで叫ぶけれど誰もこちらに手を差しのべてはくれない。
溢れる涙が止まらない。
どうして。どうして。
イヤだ、こんなのイヤだ…!
彼の下からじわじわと床に広がる紅い血が視界に入る。
止まって。止まってよ…!
何度祈ればいい。何度このような無力感を味わえばいい。
わたくしは、何度この人を死なせて―――…!
「見ちゃダメだよ」
不意に、白い布が目前で翻った。
滲んだ視界に入ったソレを目で追えば、昨夜にも現れた少女がそこにいた。
「あなたは…」
涙は止まった。もともと涙も流れていなかったのかもしれない。
白い服を身に纏う少女の姿が鮮やかに見えた。
少女は眉尻を下げて、“彼女”の頬に優しく触れた。
体温はない。ただ、“触れられている”ことを感じる。
「―――…ほら、やっぱり聴こえてる」
「え?」
確信を持って言われた言葉に“彼女”は目を丸くする。
その視線を受け止め、少女は言った。
「言ったはずよ。『聴いてあげてね』って」
確かに言われた。それは頭の隅では覚えていた。けれど、その意味がわからなくて“彼女”の瞳は戸惑いに揺れた。
「“聴く”って…何を?」
「―――“声”を」
少女はふわり、と穏やかに微笑んで、また白い服を翻して“彼女”の背後に回る。
そうして、“彼女”の目は少女の手で覆われ、視界が閉ざされた。
「見るからわからないの。ほら、耳を澄まして。聴いてあげて」
「―――…聞こえないわ」
「ううん。あなたが聴こうとしていないだけ。本当はずっと“聴こえてる”のに」
「………」
「まだ間に合う。その為に“声”を届けようとしてるのだから」
―――だから、聴いてあげて。
“彼女”は逡巡した。
間に合う? それは、愛しい人が助かるということ?
でも、何度もこの夢を視ていた。同じことの繰り返し。
何も聞こえてこない。いつだって自分の声しか聞こえなかった。
打開策もなく、ただひたすらに視るだけの夢。
けれどもし、少女が言うように“間に合う”のだとしたら―――…。
『…ぃ……、…ぅ』
「!」
何か、頭の中で誰かが囁いた。
「そう…その“声”」
少女が励ますように“彼女”に言う。
“彼女”は心を落ち着かせて、もう一度意識を集中させた。
『月が笑う日に…
焔の中より出でし実が…
漆黒の龍を襲う…
月満ちる頃…
獅子の導きあり…
従うといい…
緋の珠玉を抱える龍は救われるだろう…』
男でも女でもない中性的な“声”が頭に響く。
それは予想を遥かに上回る衝撃を“彼女”に与えた。
「……今のは?」
思わず振り向いた“彼女”は少女に問い掛ける。
少女は少し距離を置いて、淡く微笑んだ。
「今のが“声”」
「そうじゃなくて。あれは一体…?」
「それはもう、あなたもわかってるはずよ」
「……」
―――あぁ、そうか。
わかってしまった。この夢の意味を。
「“声”は目が覚めてもきっと残ってる。後は―――」
「わたくし次第、ね?」
言葉を引き継ぐように言うと少女は僅かに目を見開いた。
いや、正確には“彼女”の瞳が先程と打ってかわって輝きを増したからだろうか。
“彼女”自身、自分がどのような顔をしているのかは、わからない。しかし、気持ちが随分と晴れ渡っていることには気付いていた。
「…そうなるね」
少女は穏やかにそう言った。その言葉だけでも、充分だった。
―――やるべきことはわかった。
無力な自分、非力な自分には、ならない。
その覚悟が、今の自分にはある。
次第に視界が淡く霞んでいく。
あぁ、もう時間なんだな、と思う。
意識が覚める直前に、『がんばって』と言う少女の声が聴こえた気がした。
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赤茶色の大きな木製の扉をくぐると、色とりどりの花々がルナたちを出迎えた。
綺麗に整えられた花々。薫りも互いの良さを引きあっているようにしつこくなく、心が穏やかになるもので溢れていた。
凄い。圧巻だ。
石畳の道を歩きながら、通りすぎていく花を目で追ってしまう。
先頭を行くルーカスと距離が離れてしまわないように、じっくり観賞したい心を抑えながらついていく。
ただでさえ、こちらのペースに合わせてくれているのだから、これ以上迷惑は掛けられない。
それに、これは王妃のお茶会への道のりである。
気を抜いてはいられない。
暫く歩いたところで、開いた空間に出た。
ルーカスは待機していた侍女に取り次ぎ、その場に留まった。
どうやら、この先はルナとヒルダとヨルダだけで行くらしい。
そこには噴水があり、白いテーブルと猫足のチェアが品良く並んでいた。
ルナが思わず息を飲んだのは、そこに既に腰掛けている人物を認めたからだ。
「ようこそおいでくださいました、ルナ様」
「お招きくださり、ありがとうございます、エルヒ王妃様」
ヒルダから教えてもらった礼をとる。
まさかこの短時間で二回目をするとはあの時は思わなかったものである。
ゆっくりと顔を上げると、王妃は先程まで広げていなかった扇を広げて口元を覆っていた。
その瞳は驚いたような、興奮しているようなキラキラとしたものを宿しているようにルナは見えた。
「……」
「……エルヒ王妃様?」
呼び掛けるとハッ、と我に返ったような反応をされてしまった。
なんだなんだ、と見つめていると段々と王妃の目元が淡く色付いていくではないか。
一体どうした。
「わ、わたくしのことはどうぞ【エリー】と呼んでくださいまし。さぁ、そちらにお掛けになって」
「え…。あ、いや、それでは失礼します」
素早く優雅に椅子を引いてくれたヨルダに礼を言って、促されるままに座る。
王妃が真正面にいる形になり、ばっちりと目が合った。
動揺を悟られないように咄嗟に微笑むと、何故かうっとりとした表情をされた。
待って。今、何が起こっているの。
「……」
「……」
沈黙が何を意味しているのかわからないまま、問い掛けるわけにもいかず、ルナは膠着していた。
先程の王妃の呼び方のことも結局うやむやになってしまって、それこそ迂闊に口は開けない。
「…嬉しいこと。このように近くで、またお話しすることができるなんて」
「―――」
それはまるで恋する乙女のような表情だった。妖艶で、とても綺麗な人が言うと、それはもう凄い衝撃だった。
王妃のように手元に扇がないのが悔やまれる。
「昨日は【乳母】が失礼致しました。心が逸って、気付いたら身体が動いていたようなのです。代わりにお詫び申し上げますわ」
「…いえ、楽しい時間を過ごせたので構いません。よろしかったらお伝え下さいませんか?こちらこそ、ありがとうございました。また会ってお話しましょう…と」
「えぇ、えぇ。必ずお伝えしますわ!あぁ、本当に夢のよう…。この立場でなければもっとくだけてお話出来るのに。残念でなりませんわ」
「……大変ですね」
「えぇ。でもあの方の傍にいられるのなら、わたくしはこのままでも構いませんわ。ちょっと息抜きと称したらどうとでもなりますもの」
不意打ちの惚気に驚く暇もなく、後半のあやしい言葉に一瞬思考が停止した。
王妃は鈴の音のように明るく笑いながら話をしていく。
「立場の話は置いときましょう。ここでは無意味なことですもの。わたくしがルナ様をお招きしたのは他でもありません。あの時の“夢”のこと―――本当にありがとうございました」
「―――…」
「謁見の間では、格式ばった意味での方が強かったでしょう。ああでもしなければ、余計なことをしでかす者も少なからずいるのです。でも、“ここ”はそうではない―――だからこそ、改めてお礼を言いたかったのです」
ばちん、と扇を閉じて深々と頭を下げて“ありがとう”を繰り返すエルヒ王妃に、予想していたこととはいえ戸惑いを隠せないルナである。
国母である大物に頭を下げられると恐縮してしまう。
むしろ、ここまでされると言う相手を間違っているのでは、と心配になるほどだ。
「えっと…」
「ルナ様。ルナ様はわたくしの願いを叶えてくださいました。わたくしも出来ることはたくさんありますの。なんとでもおっしゃって―――」
「それには及びません!」
いきなりな申し出に思わず声を張り上げてしまった。
周りの侍女の方々は少なからず目を見開いていたが、相対しているエルヒ王妃は「ですが…」と途端にしおらしくなった。
なんでだろう。長期戦な予感がしてきた。
「夢は、夢です。エルヒ王妃様の夢はちょっと特殊だったけど、それでも大切なものを守ったのはあなたじゃないですか。お礼を言ってくださっただけで、私は十分ですから」
「それではわたくしの気がすみませんわ」
やめて。きっと、王族と庶民のスケールの大きさは違うから。その【お礼】の幅も相当広いだろうから。
もう勘弁してください。というのがルナの本音だが相変わらず話は平行線を描いていく。
ルナが「ご遠慮します。させてください」と遠回しに伝えるも、エルヒ王妃は率直に「お礼になることを言って!」とどちらも譲らない。そのやり取りが暫く続いたところで、これまたエルヒ王妃からの爆弾発言が出た。
「どうせなら、ずっとここにいてくださいまし!わたくしが選んだそのドレスもとっても素敵ですもの!」
「えっ!?」




