見送る背中
ルナは繋いだ手に導かれるまま歩みを進め、廊下に出るとすぐにヒルダとヨルダが駆け寄ってきてくれた。それと同時に、繋いだ手は自然と離れていった。
「ルナ様」
ヒルダとヨルダが口をそろえて心配そうに呼びかける。ルナはゆっくりと顔を上げ、二人の顔を見つめた。
「ごめんなさい」
「ルナ様!?」
目があったと思ったらすぐに頭を下げたルナにヒルダとヨルダは驚きの声を上げた。
無理もない。何も説明していないのに唐突に言われても困るだろう。
ルナはゆっくりと面を上げ、もう一度ヒルダとヨルダを見る。困惑に揺れる二人の瞳を見て、何か違和感を抱きながらも言葉を続ける。
「いきなり走り出したりして…勝手なことをしてしまいました。せっかくお世話をしてくださっているのに、お二人に迷惑を…。本当に、ごめんなさい」
廊下は外とあまり変わらない気温だが、これが真冬だったらと思うと二人の体調を崩すきっかけになっていただろう。それ以前に、自分の衝動から何の説明もなしに駆け出して二人を置き去りにしていくようなことになったのだから申し訳なさは募っていくばかりだ。謝罪の気持ちが足りない感じがする。
気持ちのままに再度頭を下げようとすると慌てたように二人に止められた。
「ルナ様、私共にそのように頭を下げる必要はございません」
「そうです。ルナ様が謝ることは何もございません。これは私たちの勤めでございます」
「いや、そんなに固くならなくても…」
諌めるように優しく言葉を返してくれる二人に、ようやくルナは先程感じた違和感の正体に気付く。
そうだ、ここは王宮。自分は今、【王妃の客人】として一時的に身分の高い扱いになっている。それに対して、目の前の二人は【侍女】だ。使う者と使われる者、はっきりと立場が分かれている。
ルナの元の世界にも身分というものはあった。【先輩】と【後輩】、【上司】と【部下】といったようにそれぞれの役割があった。
そのことを考えると何も問題に感じることはないのだが、あくまでルナは平凡に過ごしていた一般市民である。この世界に来ても一村娘として過ごしていたのもあり、上の立場になるにはそれなりの時間の経過もあったわけであるからして、棚からぼた餅のように高位の身分にあてがわれても困惑するだけなのだ。
これが当たり前のことだという顔で言う二人に、自分の立ち位置を再確認すると同時に愕然とした気持ちになった。
(もう、絶対に軽はずみなことはしないようにしよう…!)
ここにいる間は大人しくすることを密かに心に誓ったルナである。
「ここにいる間は窮屈な思いをさせぬよう、と王妃より命じられております」
「もちろん、私たちもルナ様にそのような思いはさせたくございません。ルナ様のお気持ちの向くままに、私たちも付き添っていきたいのです」
「う…、はい。わかりました」
気をつけて行動します、と内心で言葉を続ける。
何がどうしてこんなことになるのか。二人の熱意のようなものに圧倒されて恐縮するしかなかった。
というかこれって、自分の謝罪は受け取らない、と言われたことになるのだろうか。なんて優雅で横暴なんだろう。簡単に流される自分も大概だが。
「ルナ様」
「はい」
「敬語になっていらっしゃいます」
手厳しい…!
先程から違う意味で気まずい思いをすることになったルナは心の中で遠い目をする。
「…変わったやりとりだな」
ぽつりと零された男性の声にハッと我に返る。
そうだ、ここには第三者もいたんだ。声が落とされたことにヒルダとヨルダはすぐに声の主に面を伏せた。そのため、すぐにシエルと視線が合う。
「え、あ、これは…」
確かに、もとが身分の高そうなシエルからしてみたら今のやりとりは、それはそれは奇妙に映ったことだろう。落ち着いた表情もあってどこか責められている気分になる。何を言えばいいのかわからないまま何かを取り繕おうと口を開いたものの続く言葉が出てこない。
「いや、ただ驚いただけだ」
「そう、ですか…」
訂正するように言われたが、彼の真意がよくわからなくて困惑するしかない。
シエルの視線が一瞬それたのに気付き、自然とその先に目を向けるとひとつの人影があることに気付いた。シエルより少し背が高いその人は、暗闇にとけるようにそこに佇んでいた。だから、姿はあまりわからないのだが、シエルに何事か囁いたようだ。シエルはひとつ頷き、こちらに視線を戻す。
「では、約束通り。私たちはここで失礼する」
「あ、はい。ありがとうございました」
一人称が変わっていることに違和感を覚えるが、彼が外向きの顔になったのだと状況を見てなんとなく察した。
戸惑いのまま頭を下げ、次に面を上げると彼はフッ、と柔らかく微笑んだ。月明かりに照らされていたその秀麗な面差しにトクン、と胸がかすかに音を立てた。
そうして、踵を返そうとするシエルにルナはあることを思い出し、慌てて彼を引きとめた。
「あの、シエル!上着を…」
「あぁ、それはあなたが持っていて」
「えっ、でも…」
「ここでソレは受け取らない」
ならばどこで返せというのか。そう思ったと同時に、彼の考えに思い至った。
ルナが言葉の意味に気付いたことを彼も察したのか「じゃあ、明日…」と今度こそ踵を返した。
「……良い夢を」
静かな廊下で、ルナは呟くような声で彼の背中を見送った。
ようやく顔を上げたヒルダとヨルダとともに、ルナもその場を後にするためにシエルとは反対の方向に足を踏み出す。
(明日あの場所に行くこと、決定しちゃったな)
歩みを進める間に、彼の上着を見ながら思う。どことなく掴めない人だと思ってはいたが、見事に術中にはまった気がする。自分の回転の遅い頭では太刀打ちできないのではないか。あんな人たちばかりだったら確実に自分は生きていけない。そんな未来が垣間見えた瞬間だ。
(…綺麗な人だったな)
彼の優しい表情が今でも脳裏に過ぎる。夢の中の少年よりも落ち着いた微笑みだったのがどこか感慨深い気持ちにさせられる。
あぁ、そうだ。ルナは唐突に思い出した。
―――シエルはあの暗い場所から抜け出せたのだから、自分は彼の夢にはもう入れない。
今日久しぶりに寝る彼はきっと疲れているだろうに、自分に優しくしてくれた、その思いが嬉しかった。
だから、今夜の彼の夢はとびっきり素敵な夢になりますように、と彼の上着に隠れるように手を組み合わせて密かに祈ったのだった。
*******
「……良い夢を」
背後から届いた声にまた頬が緩んでしまいそうになる。
彼女は聞こえなくてもいいと思いながら紡いだのだろうが、この静寂に包まれた廊下ではシエルにはよく聞こえる。
夢の中でも感じた彼女の優しさは不思議とこの心を温める。とても、不思議な感覚。
「彼女に真名を教えたんですか」
「あぁ」
背後から咎めるような声音が飛んできたがシエルは軽く流す。その様子に背後の人影は深いため息を一つ吐いた。あからさまな態度だが、シエルはそのことには何も感じない。
「そうカリカリするな、ヨシュア」
「誰のせいですか、誰の」
「彼女は恩人だ」
「それがなんで真名を教えることに繋がるんですか」
「彼女と一緒にいたい。ただそれだけ」
「……理由になってませんね」
「立派な理由だ。やっと見つけた彼女を逃がしはしない。まぁ、母上もそれなりに考えがあるだろうが、念には念を」
優しい眼差しで差し伸ばされたその手を掴んだ瞬間から、きっとこの気持ちは彼女に向いていたのだ。
強かな光のような存在だと思っていた。だが、カグラの木の下で嗚咽を噛み締める彼女を見て、それは違うのだと知った。
自分は救われた。だが、彼女はどうなのだろうか。彼女はまだ悪い夢の中なのだろうか。
彼女に涙の理由は聞けない。まだ、聞けない。
だから、せめて傍で守りたい――――。
『……良い夢を』
惜しいことをした。彼女はどんな表情で言ってくれたのだろうか。
「今日はもう寝る」
「…珍しいですね」
「書類はあらかた終わってる。寝る」
「いいですよ。寝不足のまま明日の謁見の場に出られては困りますから」
「うん」
明日になれば、また彼女に会えるだろう。
自分の正体を知ったら彼女はどんな反応をするのか、楽しみである。
少しの悪戯心を胸に転がしながらシエルは歩みを進めるのだった。