逢瀬の約束
『次は君の名前、教えてもらうから』
夢の中の少年は確かにそう言っていた。そしてすぐに『約束だよ』と一方的に結びつけていったことも、ルナは彼の瞳を見ながら思い出した。
夢の中でならばそのまま時間が過ぎれば消えてうやむやに出来ただろうが、残念ながら今は現実である。忍者のようにその場からドロン、と消えることができないことをこれほど悔やんだことはないと思う。
「………ルナ」
たっぷり三拍は置いて、観念したようにルナは名乗った。少しの抵抗にそれは呟くような小さな声だった。それでも、至近距離にいる青年は聞き落とすこともなく、優しく微笑んだまま彼女の名前を繰り返した。
「ルナ…ルナ、か。うん、覚えた」
音の響きを確かめるように一度瞼を閉じた彼が再度目を開けた時にふわり、と間近で微笑えんだものだからルナは堪らなかった。
悲鳴を上げたい気持ちをぐっと圧し殺して、口元を軽く握った手で塞ぐように置いて胸の高鳴りを抑え込む。
「やっと、聞けた」
声音からも嬉しさが滲むもので、あまりにも気まずさを感じられ、ルナは彼から視線を外す。
どうしてここまで喜ばれているのかわからない。
熱くなる頬も、相手が滅多に見れない美形だからこんなに戸惑っているのだ、きっとそうだ。
心に言い聞かせている中で、大好きな自分の世界のにおいのする木の下で本名を名乗らなかった自分に少しの罪悪感も芽生えたが、懸命に見ないふりをした。
話題を換えようとふと思いついたことを口にする。
「夢…」
「ん?」
「あなたの夢…」
「シエル」
「え?」
「僕の名前。シエル、と呼んでほしい。ルナ」
「え…」
早く、と言わんばかりに彼―――シエルはルナを見つめる。そこに期待のこもった色を見て、ルナはしばし逡巡する。
「では、シエル様…」
「シエル」
間髪入れずに再度名前を聞かされ、始めは名前を呼び間違えたのかと思った。だが、思い返しても名前の響きは同じであったという確信を持った瞬間、ひとつの仮定が頭に打ち出された。
なんだか、午前中に似たような会話をどこかでした覚えがある。既視感だ。
「……シエル」
「うん」
観念して、呟くように紡がれたルナの音に、シエルは満足そうに頷き、ルナから離れた。
そのことに安堵したのも束の間。すぐ隣で腰を降ろされたものだから、またもやルナは言い知れぬ緊張に襲われた。ちらり、と視線を隣にやると彼の整った横顔がうつる。
傍目から見ても、とてもリラックスしていた。その瞳は何を映しているのか、前方を見ている。
とりあえず、こちらを見ているわけではないことを感じ、ルナはひとつ息をつき、肩の力を抜いた。
さわさわ、と花びらが歌を歌う。
名前ひとつ言うのに何故だか物凄く気力を使ったような気がする、と改めて思った時だった。
「ルナ、何か話したいことない?」
「へ…?」
「さっき、何か言いかけてた」
「あ、うん…」
シエルの名前に気を取られていたから聞くタイミングを逸していたのだが。
その話題を相手から振られるというのも妙な気分である。
そこまで深く掘り下げたい話でもないので正直聞くのはもうやめようとも思っていたが、これでは話さなければいけないだろう。
「シエルの夢…あれからどうかなって思ってたんです」
「どう…とは?」
「もう、怖い声は聴こえないかなって心配してたんです」
「……」
この沈黙はどういうことだろう。隣をうかがうとどこか難しい表情で地面を見ていた。
「…まだ」
「え?」
「まだ視てない。あれから寝てないから」
「あ、そうなんで…ん?」
涼しい顔で応えているが、そもそも彼にとってあの夢はいったいいつの話なのだろう。ルナは目覚めたのは今日だが、眠ってから二日は経っていると言う。
日本にいた時に、記憶に残っていないだけで人は寝ているときは複数の夢を視ていると聞いたことがある。
日にちと夢の数を考えると、彼はいつあの夢を視て、いつから寝ていないのだろう。
「ちなみに、いつから寝てないんですか?」
「昨日」
「…1日中起きてたんですか?」
「うん」
「早く寝てください」
1日徹夜していたことがわかればルナにはそれで充分だった。
ここで呑気に話している場合ではない、と非難を込めて伝えるが彼は気にしたふうではなく小さく頷くだけで腰を上げる素振りを見せない。
「寝なければ疲れが溜まってしまいますよ」
「わかった。脱がなくていい」
ルナが肩にある彼の上着に手をかけているのを見て、すかさずシエルは短く応えた。
シエルは必要最低限の言葉しか紡がない性格だというのは会話をしていて分かってきていたが、これに関してはルナを複雑な気分にさせた。
「(周りに誰もいなくてよかった)」
心の底から安堵する。あらぬ誤解を生み出すところであった。
彼の上着を返すだけに動こうとしていたルナでさえ、一瞬その言葉に戸惑ったのだから、見知らぬ第三者がこの場にいたならばルナが彼を身体で誘いかけたように思えるだろう。
もちろん、ルナ自身もそのようなつもりは微塵もなかったのだが、少しの羞恥心が顔に出た。
「ルナはヨシュアのようなことを言う」
誰だ、それは。
続けられた不服そうな声に思わずつっこみそうになったが、立ち上がった彼が自然な流れでこちらに手をさしのべたので言葉ごと息を呑み込んだ。
「一緒に戻ろう」
「…夢の時と反対ですね」
何気なく出た言葉に彼は少し目を見開いたが、すぐに微笑んで、重ねられたルナの手を優しく引っ張った。
「部屋まで送る」
「あ、あの、中に入ったらそれで大丈夫です。部屋の位置もわかっています」
「こんな時間に淑女を一人には出来ない。だが、あの侍女らがルナを待っていたら彼女たちに任せる」
その一言でようやくヒルダとヨルダの存在を思い出す。
そういえば、彼女たちを置いてこの場所に来たのだった。
すぐに追いつくだろうと頭の片隅で思っていたのだが、いつまで経っても来ないあたり、自分を見失ったのだろうか。
そこまで考えついたルナはサァッ、と血の気が引いた。
「(いけない。私が早く帰らなくちゃ)」
他人様を叱っている場合ではない。
早く戻らなければヒルダとヨルダが叱られてしまう。
それだけはどうにかして防がなければならない。
はやる気持ちを抑えて、彼に手を引かれながら足を進める。
桜の木が、遠ざかる。
花びらが届かないところで思わずルナは歩を止めそうになった。その僅かな振動を感じたのか、彼は立ち止まり、自然とルナもその場に留まる。
半分こちらに振り返った彼と視線が合う。
優しい空の色。まるで振り返ってもいいよ、と言われているようでルナは躊躇いながら後ろを見る。
ざぁっ、と風が桜を撫でる。
舞い落ちる花の華やかで儚い光景はルナの瞳を惹き付けてやまない。
『今度はみんないっしょに―――』
「―――…」
口が開いて、言葉にならなくて、吐息をつくだけになった。
「ルナはやっぱり花の精だ」
「え?」
唐突にシエルは言った。何の脈絡もなく言われた言葉に振り向くと、穏やかに微笑んでこちらを見ている彼が瞳に映る。
「でも、カグラには渡さない」
「シエル?」
「ねぇ、ルナ。君はここ、気に入った?」
始めに聞かれた質問を繰り返され、返事に詰まる。
「え、と…」
「明日もここに来て。“ここ”は人を選ぶけど、ルナは入れるから大丈夫」
「人を、選ぶ…?」
「うん。だから、侍女らは入れなかった。扉の前で困ってた」
もしかしなくてもそれはヒルダとヨルダのことだろうか。淡々と紡がれる事実に頭はついていくのに必死だ。
「会ったら謝らないと…」
「ここに入れないのは仕方がないから咎は及ばないと思うけど。僕も手を貸す」
それは大変助かるが、上の方に意見を通せるほど彼の位が高いことも垣間見てしまい、恐縮する。
「ありがとうございます」
「だから明日もここに来て」
間髪入れずに言われた言葉にしばし逡巡する。
「……考えておきます」
「この時間なら、僕以外誰も来ない。覚えておいて」
頷くことも出来ず、沈黙を守るルナにシエルは気分を害した様子もなくまた前を向いて歩き出した。
まさか今のでこの場所に来ることは決定されたのだろうか。
まだルナは決めていない。これからのことを。
迷うことが多すぎて。怖いことが多くて。
ただただ、“帰りたい”想いが強すぎて。
「(私、今どこにいるんだろう)」
夢のような曖昧な世界を歩いているようで、心細さを感じる。
ふと、繋がれた手が視界に映る。
温かい手。優しく手のひらを掴んでくれている。
凜と伸びた背筋はとても逞しく、ルナは瞳を細めた。
「あぁ、残念。待ってたか」
シエルの淡白な言葉が耳に届いたと同時に、重たい扉が開いていく。
扉の先でルナの姿を認めた二人の侍女が、安堵した表情になったのが見えた。
彼女たちにかける言葉は思い浮かばず、ルナは泣きそうな顔を見られたくなくて瞳を閉じ、頭を下げた。