幻の花
ルナは桜の木の幹に手を伸ばし、一度躊躇った後、意を決して触れる。
木のカサカサとした、硬い感触が手のひらを通して伝わってくる。
―――夢じゃない。幻じゃない。本物の、桜。
ないと言われていたのに。見たこともないと言われていたのに。
ルナが心から求めていた花が目の前いっぱいに広がっている事実に胸から何かが込み上げてくる。
「―――っ」
堪えきれない涙が頬を伝う。
幹に触れて、周りの風景が変わることはなかったけれど、今のルナはそれでも充分だった。
知らない土地で、初めて同胞に会ったようにルナは桜の木に縋りつき、嗚咽を堪えながら泣いた。
寂しかった。つらかった。―――寂しい…!
会いたい人に会えたわけではない。だから、ルナは言葉で表して泣くことができない。
いくら見覚えのある、馴染み深い樹木でも本音を吐露するまでには至らない。
だが、今までただただアリシアの家で暮らす日々の中でどうやったら元の世界に戻れるのかと思案し続けていたことを思うと、こうして初めて同じ故郷のにおいのするものを見つけたということはルナにとって大きな一歩のように感じられた。
まだ何も解決などしていないことは頭の片隅でわかっているが、重い荷物を少し肩から降ろせたように心がふっと軽くなったのだ。その反動だろう。
涙はまだ、止まりそうになかった。
ルナは大いに泣いた。嗚咽を噛み締めて。
辺りは静寂に包まれていた。ただ、はらはらと桜の花びらが舞い落ちる気配がするだけ。
―――誰かが来たら、泣くのはやめよう。
外に出てからヒルダやヨルダが後ろから追いかけてくる音が聞こえないことに疑問を抱くことなく、ルナは桜の木に身を寄せた。
******
どれほど泣いただろう。
この世界が夢ではないことを知り、初めて泣いた日と同じぐらいの涙を流したように思う。
心なしか頭がぼうっとする。
今は桜の木に背中を預け、座り込んで桜の花びらを眺めていた。
動きたくない。動けない。もうこのまま寝てしまおうか。
半ば自棄になった思考でどこを見つめるでもなく虚空を見つめていたが、やがて疲れたように目を閉じた。
―――帰りたいなぁ…。
瞼の裏に浮かぶのは花見に行った時の思い出。
記憶に鮮明に残っているのは夜空ではなく、真っ青な空だった。
『また撮ろうね。今度はみんないっしょに―――』
桜の木が並ぶ川沿いの道。木々の間にはピンクや赤の提灯が飾ってあり、それだけで祭りのような楽しい気分になれる景色だった。
カメラを片手に微笑むあの人との大切な思い出だ。
「君は、誰?」
唐突に、声が耳に飛び込んだ。
初めて聞く男性の声に、ルナは弾かれたように目を開けた。
ざぁっ、と風が吹き花びらが視界で踊る。その中で凛と立つ一人の青年を認める。
月の光に照らされた金髪に、スカイブルーの瞳が印象的な麗人が4歩程あけた間隔でこちらを見つめているのでルナは思わず息を詰めた。
こんなに近くにまで来ていたのに気付かなかった、と愕然とすると同時に二日前の拉致事件を思い出し、思わず逃げようと腰を浮かした。
相手は正装とも言える綺麗な出で立ちで、まかり間違っても村人のような気安さはそこにはない。
ヒルダやヨルダではない、知らない人に見つかった、という焦りに早くこの場を去ろうと立ち上がるルナに、彼は慌てたように言葉を紡いだ。
「待って。君は、花の精?」
聞き覚えのある言葉に、思わず身体の動きが止まった。
普段のルナであれば、検討違いな言葉を無視できたはずだった。それでも、足がその場に根ざしたかのように動けなくなったのは、彼の姿をようやく瞳に映し、重なる面影に心当たりがあったからだ。
「あなた、は…」
驚愕で声がかすれて上手く言葉にできなかったが、ルナの言いたいことは伝わったのだろう。彼はルナがその場から去らないことに安堵し、静かに頷いた。
「ここでは、初めまして…かな。夢の中では僕は少年だった。君が困惑するのもわかる。お互いに名乗っていないから“僕”を証明するものはないが、信じてほしい。僕は、君に救われた者の一人だ」
まっすぐな瞳を向ける青年の言葉に偽りなどあるはずがないことはルナにはわかった。
だが、夢での彼と現実の彼との差をまざまざと見せつけられ自然と距離を取ろうと足が後退する。
夢の中の少年は小さく、弱々しかった。可哀想でもあった。それが、現実ではどうだろう。
研ぎ澄まされた清廉な雰囲気を纏うこの青年。幼い印象など感じさせない端整な面差しに、精悍な身体。
空のような蒼い瞳には少年の時にはなかった芯の強さを持った光が感じられた。
ルナは知らなかった。
可愛らしいひよこだと思っていたものが、次に帰ってきた時に鷹になっていたかのような衝撃がこれほどまでに凄まじいことを。
ルナは平凡な娘だ。そしてここは王宮。それに彼の出で立ち。相手が気品溢れるその姿からも貴族であると早々に気付いたのもあり、気後れする。
「そちらに行ってもいいだろうか」
それはやめてほしい、と喉元まで出かかった言葉を呑み込み控えめに頷く。
ひたむきな瞳を向けられて断った時にどのような行動を相手が取るのか予測できなかったのもあるが、第一にここは王宮である。一介の村娘が位の高い相手を拒絶するなどあり得ない。
こちらの答えに相手はまた安堵したように肩の力を抜いたのがわかった。何故、あちらが緊張しているのかルナにはいまいちわからない。
それよりも、彼が一歩ずつ足を進め近付く距離にルナの緊張は次第に高まる。
とうとう、彼は桜の木に触れられるほどの近さに来た。だが、ルナがいる場所と少し間を空けたところで彼は腰を降ろした。
「…ここは、あなたの場所でしたか?」
彼のとった行動に驚くと同時に、ふと頭に浮かんだ考えのまま彼に訊ねる。
木の幹に隠れるように少し顔を出して見ると、問われた彼は瞳だけをこちらに向けた。
「ここには君がいるから、今日はここで一休みしようと今決めた」
「…今は夜です。自分の部屋では休めないのですか?」
「君はこの場所、気に入った?」
質問を質問で返されるとは思わず、ルナは閉口する。距離は近いが、どこか掴みにくい人だ、と思う。
ここからまだ立ち去らないルナを見て、大体の予想はついているだろうに、彼は柔らかな微笑を湛えて答えを待つ姿勢を見せた。
「私は、この木が気になっただけで…」
「あぁ、確かに。他の場所では見ないな」
やはり希少なものであるらしい。彼は続ける。
「この木は“カグラ”と言うんだ」
「カグラ?」
かぐら―――神楽?
桜ではないのだろうか。だが、何度見ても花びらの形、薫り、色も何もかも“桜”と酷似しているのに。
「昔からその名前?」
「そう。といっても、この木がここに現れたのは2年前だけど」
「2年、前…?」
それは、私がここに来たのと同じ頃だ。
意外な共通点を見つけ、ルナの中で親近感がわいてくる。
「2年前、何処からか運ばれて来たんですか?」
「いいや、突然現れたんだ。まるで昔からここにあったかのように」
「現れた…?」
それはさっきも言われたことであったが、真実なのだろうか。そういうルナ自身もぽっと出の存在だがいまいちピンと来ない。
「2年前、今の形のままここに突然現れたんだ。この花も、ずっと枯れることなく、そして減ることなく咲き続けてる。【幻の花】と一部の人間は言っているけど」
ざぁっ、と風が吹き、花びらが舞い落ちる。
にわかには信じられない話。それでも、彼が嘘をついていないと思えるのはルナ自身、不思議だった。
「…誰が、この木に名前をつけたんですか?」
慎重に訊こうとしたのが声音に出てしまったのか、彼はふと笑みを消し、ついで探るようにこちらを見た。
「君はこの木の名前を知ってる?」
「…さぁ。似た花を知ってるだけですから」
「そう。名前はね、この木が教えてくれたんだ」
「木が…?」
「動植物の“声”を聴ける者がいるから、直に聴いてもらった。でも、それはこの木の“名前”であって“種”ではない可能性もあるから実際のところはわからないけど」
つまりは、種目かこの木自身の名前かは不明、ということのようだ。
木々にも個人名があるというと不思議に感じるが、違和感は抱かない。
植物に語りかけながら育てると、元気に育つとも言われていた為に、名前があるほうが納得するというものだ。
では、“桜”という種で、“カグラ”という名前を持っていると解釈してもいいということにもなる。確証はないが、それはそれでルナ自身の心の整理はつく。
「そう、ですか…」
結局、元の世界に戻るヒントは一つもなかったことに肩を落とす。
この木も、知らない内にここに来たのかもしれないと思うと哀しさに胸が締め付けられる痛みを感じる。
―――同じ、なのかもしれない。
労るように幹を撫で、もう一度額を付ける。
私にもこの木の声が聴こえたらいいのに。そうしたら言えるのに。
―――私もここにいるよ、って。
不意に両肩に温かな重みが乗る。
それが、彼の上着であると気付き、ハッと振り返るとすぐ後ろに蒼い瞳があり、まともに視線がぶつかる。
あまりの近さに息を呑むより先に、その瞳に魅入られたようにルナは硬直した。
綺麗な空の色だ。
『また撮ろうね。今度はみんないっしょに―――』
―――あの日の空と同じ色。
「泣いていた?」
不意に涙の後を拭うように指先が優しく目元に触れた。
突然のことで何をされているのかわからなかったルナだが、止まっていた思考が現実に追い付くと、身を仰け反る勢いで後退した。
しかし、その先は不運にもカグラの幹。盛大に頭部を打ち、ずるずると尻餅をつく。
顔が、熱い。強かにぶつけた頭はズキズキと痛むが、それよりも顔の熱さの方が問題だと思えた。
恥ずかしいやら、怒りたいやらで胸中も複雑だ。
「…大丈夫?」
消えたい。
相手の心配そうな声が近くから聞こえたということは、彼も自分に合わせて膝をついているのだろう、ということはわかった。
しかし、その美麗な顔をまた間近で見る勇気はなく、膝に顔を埋めて頭を横に振った。
「頭…?」
確かに痛いが、そこまでではない。
言葉にせず、これも頭を横に振るだけで伝えた。
「その…すまない」
彼のせいで恥ずかしい目にあったが、深刻な声音で謝られるとそれはそれで違うような気がして、これも頭を横に振って答えた。
「……」
「……ごめんなさい」
言い知れぬ沈黙に耐えきれず、ようやくルナは面を上げた。
まだ頬の熱は冷めないが、相手を困惑させたままでいるのは本意ではない。
そもそも、彼は心配してくれただけであって、何も迷惑になることはしていない。ルナが一人で錯乱しただけの話なのだ。
「いや、謝るのはこちらの方だ」
「それは…違います。本当に。気にしないでください。本当に」
念を押して言うと、彼は物言いたげな表情であったが納得はしてくれたようだ。
無言で頷いてくれたのを見て、ルナは安堵する。
「あ、服…!」
肩にかけてくれた彼の上着に気付き、すぐさま脱ごうとするも彼の手がそれを阻んだ。
このままでは皺になってしまう。肌触りから、装飾から、どこからどう見ても上等なものだとわかるその服にルナは焦りを隠せない。
汚してしまったが最後。弁償のための持ち合わせなど何もない。
困る!と全力で目で訴えるが彼は顔色ひとつ変えずに言った。
「その格好では風邪をひく。着た方がいい」
「いえ、でも…」
「着てもらわないと困る」
「え?」
いやいや困るのは私の方なんですけど…。と言える雰囲気でもなく、彼は至極真面目な表情でルナにかけた上着の襟元を合わせるような仕種をした。
当然、距離はまた近くなり、ルナは顔に火がつく思いをすることになった。
「そうだ。約束」
「?」
ふと思いついたように彼は言葉をこぼした。何?と視線で問えば、彼はまた柔らかな微笑を浮かべて続けた。
「夢の中での約束。次に会ったときは名前を教えてくれると言った。今、聞きたい」
大人びた端整な顔に似合わず、無邪気な期待のこもった瞳を向けられ、ルナは逃れられない現実を見た。
カグラの幹に頭をぶつけて失神しなかった自分を恨んだのは言うまでもない。