園庭散歩
それは“散歩”というより“散策”に近かった。見るもの全てが珍しい。しかし、ルナの顔はどこか浮かない。
そうなるにも訳がある。初めての場所だというのに、ルナは先頭を歩いていた。一歩下がった右にヒルダ、左にヨルダが並んでいる。
これは、おかしい。
ルナはこの状況を客観的に見て、酷く違和感を抱きながらも足を進めていた。
「あの、庭園って本当にこっち?」
「はい。もう間もなく着きますよ」
象牙色の廊下を歩きながら、差し障りのない話題をあえて振ってみたが、双子は穏やかに微笑むだけで、観念したルナはまた前を向く。
手前にヒルダかヨルダがいてくれればいくらかこの緊張はマシになるのだが、そうもいかないと脱衣所を後にしてすぐに話の決着はついていた。
曰く、ルナ様の気の向く方へ行きましょう、とのこと。
初めての場所でいきなりの提案にルナは驚愕した。
自由に歩ける、ということを示唆されたわけだが、これは正直困る。
宮殿ともなれば、その広さは想像以上だろう。入ってはいけない場所もあるだろうに、とそれなりの理由を言いながらどうにか先頭を歩くことは避けようとしたが結果はこの通りだ。
何故に背後に控えるような形なのだろう、と半ば途方に暮れながら一歩また進む。
【王妃の客人】ともなれば身分はそれなりに高い。双子の侍女によると高貴な方の前を歩くことは“不敬にあたる”とのことだった。
“不敬”とは重い言葉である。それはルールを守れなかった者が罪に問われることを暗に指している。
これには大変困った。まさかそのように身分による壁が厚く高いとは思いもしなかったからだ。
甚平姿の娘に敬虔な眼差しを向ける双子に返す言葉を持たず、ルナはがっくりと項垂れるしかなかったのである。
「(分不相応にもほどがある…)」
しかし、暫く廊下を歩くと慣れてくるもので、申し訳なさは相変わらずだが景色を楽しめるようになっていた。
例えば、台座に置かれている花瓶に活けられている花だったり、壁にかけられている絵画だったりルナの目は飽きることなく周囲を見渡す。まるで美術館みたいに静謐な空間にルナは魅了されていた。
ゆったりとした足取りで一つひとつを丁寧に見ていくので、それこそ双子の侍女の提案は功を奏したことになり、興味深げに見つめる彼女を温かな瞳で双子は見守っていた。
「あの扉を開けば庭園になります」
「今日は晴天。花々も美しく咲き誇っていることでしょう」
赤茶色をした扉が正面にあり、期待に胸が踊る。
宮殿内の廊下も美しく飾られていたということは、庭園ともなればその華やかさは最たるものだろう。
「―――!?」
「あら」
「まぁ」
導かれるように歩を進めていると唐突に両開きの扉の片方が開いた。
思わず足が止まり、扉の向こうを凝視する。
すると、ひょっこりと女性が顔を出し、ルナを認めるや否や翡翠の瞳を輝かせ、ヒルダやヨルダと同じようなワインレッドのドレスを翻しながら駆け寄ってきた。
「やっと会えたわ!ねぇ、あなた【夢の渡り人】でしょう?」
「え?」
「こっちに来る予感がしてたから、ずっと待ってたのよ!さぁ、早く行きましょう!」
「えぇ…?」
有無を言わさず手を引かれ、園庭に続く扉をすり抜ける。
彼女の身体の幅に開けられていたものだから、勢い余って扉にぶつかってしまうところだった。
後ろを振り返り、双子が来ていることを確認しようとしたら手を引っ張っていた本人が既にそこにいて「ちょっとお話させてちょうだいね!」と言って扉を閉めてしまった。
「あ」と言っている間に全てが終わっていて、止める隙すらなかった。
再度、目が合うと彼女はいたずらっ子のように笑った。
「ごめんなさいね、ちょっと驚いちゃった?」
ちょっとどころか何が起こったのか現状を把握するのに精一杯なルナはぎこちなく頷く。
その様子に一人楽しそうに笑う彼女。“天真爛漫”という言葉が不意にルナの頭に浮かんだ。
「わたくしはエリー。あなたは?」
「ルナ、と言います」
「ルナ…ルナね。ちゃんと覚えたわ」
しっかり記憶に残そうとするように繰り返し呟いた後、彼女―――エリーはまた満足げに微笑んだ。
「エリーさん、あの、ヒルダとヨルダは…?」
「エリーで構わないわ。わたくし、あなたとお友だちになりたいから。二人にはさっき伝えといたからここからはわたくしが一緒よ」
随分おざなりな伝え方だと思ったが、扉の外の二人が無理に開けようとする様子もないので大丈夫なのだろうとあたりをつけて納得する。
「えっと、一応聞かせてほしいんですけど、それで二人に責任は問われませんか?」
「ええ、大丈夫よ。あの二人はルナの身の回りの世話を任されているけれど、ずっと付き従うことは命じられていないもの。仕事を怠っているわけではないからそこは安心して?」
優しく諭すように言う彼女が嘘をつくとも思えず、ホッと安堵する。
先程まで『高貴な身分ですから』というやりとりで垣間見えていたこの宮殿のきまりが頭に強く残っていたのかもしれない。新しい出来事に合う度に大事にならないかと不安だったのだ。
肩の力を抜いたルナを見て、エリーは翡翠の瞳を細めた。
「やっぱり、ルナは優しいのね」
「え?」
顔を上げたルナに、エリーは一つ息をついて、満面の笑みで言った。
「さぁ、こちらにいらして。一緒に散歩しましょう」
******
エリーは快活に笑う明るい女性だった。そして、とても親しみやすい性格をしていた。
会って間もないのに、ルナの緊張は解れ、互いに堅苦しい言葉遣いもなく話ができるほどに。
紅色の髪をひとつに纏めており、翡翠の瞳は子どものように純粋な輝きを宿しているように見えた。
ヒルダとヨルダとは仕事仲間のようだが、詳しい所属は違うとのことでドレスの形こそ似ているものの仕事の内容は全く異なるようであった。
「わたくしは【乳母】なのよ」
「乳母?」
「そう。皇子や皇女の、ね。3人産んで子育てにも自信があるから進言したのよ」
「3人も…?」
実際の年齢はあえて訊かなかったが、パッと見た感じは20代後半なエリーにルナは驚きを隠せない。
この世界は15歳からが結婚適齢期だったことを思い出す。
それでも、3人は多いと思うのは、少子化と謳われた日本育ちだからだろうか。
「乳母と言っても教育係とそこまで変わらないわ。今は皇女のお世話でプリシラと交代でしているの」
今は休憩時間だからルナに会いに来たのよ、と屈託なく笑うエリーにルナも思わず笑みを溢した。
しかし、ほどなくして首を傾げる。
「皇女…?」
「あ、そうか。ルナは村から来たから知らないわよね。まだ御年6歳だから外にお触れは出ていないのよ」
「それは、どうして?おめでたいことなのに」
「皇女は成人しなければその存在を明かすことはできないの。それがここでのきまり」
「……」
にこやかに言っているが、きまりに隠された理由がどこか不穏なものに感じられ、ルナは沈黙する。
「…それ、私に喋っちゃあダメなんじゃ―――」
「ルナは大丈夫よ。だって、【王妃の客人】でしょ?少なくとも、城の皆はもう知っていることだから知らないことこそ不敬にあたるわ」
「……そういうもの?」
「そういうもの」
彼女の言うことには一理あるが、未だ不安が拭えないルナに、「それに」とエリーは続ける。
「皇女にとって、ルナは命の恩人だから。あの子からあなたに会いに来るんじゃないかしら」
「え?」
それは、夢で会ったことがあるということだろうか。でも、命の恩人とはどういう意味かルナにはわからない。
だが、また夢の人に会えるということは、それは嬉しいことだ。ルナは心にぽっと小さな光を灯された気分になる。
「あの子も勉強中に抜け出すのが上手いから、会える日も近そうよ」
「そ、そう…」
それは素直に喜べない事態だが、乳母が了承しているなら大丈夫そうだ。
会ったとしても、軽く話をするだけにしておいて早めに帰してあげようと心の中で決めておく。
「宮中では【夢の渡り人】の噂で持ちきりよ!幻の人とされていたから、私も会えて嬉しいわ!」
周りの綺麗な花々より、華やかに笑うエリーにルナは思わず歩みを止めた。
あまりにも純粋に喜ばれているのがわかり、特別なことは何もしていないのに、と戸惑いが胸にわだかまる。
『あんたも有名人ね』
どこか苦く笑ったアリシアの表情が頭をよぎった。
―――私は、どこにいるんだろう。
噂の一人歩き。その為に、この場所に根ざしてしまった感覚に襲われる。
「どうかしたの?」
茫然としたルナの表情を見て、エリーも不思議そうに尋ねる。
ハッと我に返り、急いで頭を振る。
「ううん、なんでもない。嬉しいって言ってくれてありがとう、エリー」
「―――…」
「どうしたの?」
「…いいえ。あっ、そうだ!まだまだ見せたい場所があるのよ!こっち来て!」
「わっ!?」
それから夕方になるまで庭園中を巡ったが、それでもまだ全部ではないらしく、「また絶対に二人で話しましょうね!」と約束をされ、エリーからヒルダとヨルダのもとへと帰された。
「おかえりなさいませ、ルナ様。たくさん歩かれたことでしょう」
「お部屋に戻ったら、フルナリスの紅茶をお出ししましょう。―――エリーさんにも困ったことです。まだルナ様は快調ではないのに…」
「いいえ。とても楽しい時間でしたから。私は大丈夫です」
眉尻を下げて息をつく双子を諌めながら部屋へと足を向ける。
花を見ることはあまりなく、エリーの話に夢中になっていた自分がいたことに今更気付く。
まだまだ話足りなさそうな表情は子どものように素直であどけなかった。
―――あの表情をする人がいるのならここは怖いばかりではないのかもしれない。
幾分、軽い気持ちになったルナはまた一歩を踏み出したのだった。