うずめる
「以上をもちまして、センター試験を終了といたします。みなさん2日間お疲れさまでした」
初老の試験官が、軽く一礼して教室を立ち去る。それに他の試験官が続き、無駄に明るい蛍光灯の光の下に喧噪が溢れかえる。最後の科目であった数2Bは、ほとんどうまくいかなかった。いや、2Bだけに限った話ではなく、1Aも英語も地公2科目も生物も、手応えはいまいちだった。国語とリスニングは自信があったが、しかしそれも足をすくわれかねない。問題への文句や出来具合を嘆く会話が辺りから聞こえてくることが、大半がポーズだろうにしろ、不安さや憂鬱な気分を和らげる。
「浅野、お先な」
「じゃあね、浅野くん」
同じ教室で受けていた一村と初川が、浅野の横を抜けていく。
珍しく鬱屈とした一村と、いつにも増して晴れ晴れとした表情の初川。2人とも何があったのかだいたい見当がつく。分かりやすい。
「また明日な」
無駄に用意してしまった鉛筆を筆箱にしまいながら、浅野は2人に短く返した。
マフラーに顔を埋める初川が、一村を小突きながら教室から出ていく。
ふぅ、とため息をひとつ吐いて、曇ったガラスに目を向ける。景色は全く見えないが、昨日と比べれば大分明るいものの、外の薄暗さは十分に分かった。
早く帰りたい思いはあるが、人混みに揉まれるのは勘弁願いたい。試験問題と受験票を鞄にしまい、ファスナーを閉じる。机に置いていた腕時計を左手首に巻いて、コートに手を伸ばした。教室内の受験生は少しずつ数を減らしているが、廊下の流れは衰えを見せない。まだしばらくは帰れなさそうだ。
携帯を見ると、メールが2件ほど来ていた。送り主はどちらもメールマガジンの類で、曖昧な期待を外された浅野は、大きくあくびをしながら携帯をコートのポケットに入れた。
それからマフラーを巻き終えた頃に、廊下の人波が収まりを見せ始めた。これくらいなら、と浅野は最後の1人となっていた教室から薄明るい廊下に出るが、一歩を踏み出して足を止めた。教室のドアの正面の壁に、見慣れた少女がもたれ掛かっていた。修学旅行で買ったマスコットキャラのストラップ以外、特に飾り気もないスクールバッグを両手でぶら下げ、ブラウンのダッフルコートに身を包んだ彼女は、俯き、重く暗い空気を醸し出していた。
「…笠井」
「ぁ……あぁ、お疲れ、浅野」
浅野に気付いた笠井は弾かれた様に顔を上げ、普段の彼女らしい明るい笑顔を見せた。
「浅野、電車でしょ?一緒に帰ろうよ」
本当に普段通りか?と聞かれれば、少し違うものだったと答えるが。
「方向逆だけどな。相良とか小畑とかいただろ?」
「何、わたしと帰るのイヤなの?」
「誰が言ったよ」
今更誰が嫌がるか。浅野がそう口にすることはなかった。その代わりと言っては何だが、苦笑の様な、微妙な笑いが漏れた。
「寒いな」
「外はもっと寒いね」
「風があるしな」
「きっと昨日より寒いよ」
2人揃ってコートのポケットに手を突っ込んで、並んで廊下を歩いた。センター試験が終わった直後とは思えないような、ありふれていていつも通りな、くだらない会話が浅野と笠井の間で続いた。試験会場になっていた大学の敷地を出ても、続いた。外はやっぱり寒い、足が怠い、今の車変だった、弁当が傾いていたせいできんぴらゴボウからソースの味がした、なんだそれ。
「そういや、試験監督が渋い人でさ。なんか俳優みたいで、笠井も好きそうな雰囲気で。俺もあんな歳の取り方したいな、なんて」
「浅野なら、大丈夫だよ。かっこいいおじさんに、なれるよ……」
次第に弱くなる語調。緩やかに、なめらかに、沈黙が降りた。なんとなく不味いだろうかと浅野は思っていたが、案の定『試験』の2文字を出したら笠井は口を閉ざしてしまった。
褒められたが喜べない。笠井の目元を隠す彼女の前髪が、浅野を浮かれさせなかった。
国道沿いの歩道を、口を閉ざしたまま歩いた。
沈黙は長く続いた。
橋の手前で、二車線道路を跨ぐ歩道橋を上る。
絶え間なく走り去る車のタイヤとエンジンの音、近くを走る電車の音、2人のバラバラな足音だけで、その時間はできあがっていた。
「センターね、最悪だった」
歩道橋の真ん中にきて、ぼそりと笠井は呟いた。
「昨日はまだマシだったけど、今日のはほんとにひどかった」
たぶん、東京には行けない。その声は、ほとんどネオン街の光の渦の中で光ろうとする小さな電球に似ていた。飲み込まれて、かき消されそうな声だった。それでも、辺りに溢れる音をはねのけて、その声は浅野の鼓膜をはっきりと刺激した。
「そうか……」
それだけしか返せなかった。
階段を下り、国道から逸れて川沿いを歩く。
逸れてすぐの橋を渡れば駅へは一本道だったが、2人ともなんとなく、遠回りになるそちらへ足を向けていた。だいぶ前の方に見えていた他校の生徒たちはもういない。
「第一志望はまず無理だと思う。第二志望も無理かもしれない」
声が震えている。車の音も遠ざかって、靴音ばかりが耳に障る中ではよく分かった。
声の掛け方が分からなくなって、浅野は口を噤んでしまった。「諦めんのはまだ早いだろ」と言おうとした。無責任じゃないのか?という疑問が口を塞いだ。「大学受験は高校の時のようにはいかない」と、マイクのノイズ混じりに進路担当が言っていたのを思い出していた。
感情を抑えつけて震える声で、笠井は笑顔を作ろうとしていた。作れるはずはなく、笑いは嗤いになろうとしていた。
「もう無理だよ、ぜったい。どうしたらいいのかな。浅野みたいに私学にしようかな。そしたら楽に──」
不意に、ぐっ、と浅野が笠井の手を引いた。突然の事に笠井はもちろん驚き、短い悲鳴の後で浅野を睨んだ。
「えっ、な、なに!?」
「いや……それ……」
浅野が指差す先には、茶色っぽい塊がひとつ落ちていた。犬の糞だった。
「踏むとこだったぞ」
「あ……あ、ありがと」
ぎこちない感謝の言葉が返ってきた。笠井の横顔が赤い。
先ほどまでの重々しさはなかったが、沈黙が2人の間に帰ってきた。遠くで犬の鳴き声がした。
橋を渡る。そう遠くない場所を走る鉄橋を、両数の多い電車が走っていった。窓から見えた車内は人で埋め尽くされていた。受験生はもうアレに乗り切っただろうか。
「俺は、よくないと思うな」
横目に見える笠井の様子は特に変わることなく、俯き加減のままだった。浅野はそのまま淡々と続ける。
「『私学“で”いい』なんてそんな妥協したら、それこそこの先もうどうにもならないんじゃないの?あそこじゃ、笠井のしたいことできないだろ?それに、そんな私学を第一志望にしてる人に失礼だと思うなー」
もしかして酷だろうか、と不安も過ぎった。だが、こっちの気持ちも知らないであんな事を言われてしまっては、遠慮する気も失せる。
「ていうかさ、お前来たら俺の枠なくなるから。俺落ちるから。だから来ないで下さい」
「……何それ」
だいぶ酷いな、と、余所に目を向けながら思った。慰めるつもりだったのがこんなのでいいのかと、浅野は自分に溜め息をつきたくなった。ただ、呆れて笑ったたような笠井の表情をみる限り、地雷を踏んだ様子ではなかった。
3度目の沈黙が舞い降りる。が、浅野にとってそれは苦痛になるものではなく、むしろいくらか安心感さえ覚えれてしまうような時間だった。
それから少し歩いて駅に着く頃には、茜色が辺りを覆い始めていた。風が強さを増し、冷たさが頬を刺す。
駅は会場になった大学の最寄り駅だが、それほど人の集まる地域でもなく、電車の本数も多くはない。
「……人、いないね」
「見越してたからな。こうなること」
切符を買って改札を潜ると、笠井が呟いた。駅の構内は確かに人気が少なかった。プラットホームは上り1線単式と上下2線の島式の2面ある。そのうちの単式の方、会場でも見かけたどこか知らない制服の男女が数人、ホームの真ん中辺りでダベっている程度にしか、人はいなかった。案外早くはけたな、とも、自分たちが大分ゆっくりしていたのかな、とも浅野は思った。ただ、どちらであっても人が少ないのは彼には好都合だった。
次の電車は、向かいの上り線らしい。2人がいる2線1面のホームは、浅野が乗る下りに普通がきて、その後上りの急行が来るようだ。
「浅野の方が先だね。もう来るみたい」
「あっちのホームにもすぐ来るみたいだけど?」
「いいよ、どうせ普通だし。次の急行乗るから」
それでも普通に乗った方が早く帰れるだろう、とは言わなかった。浅野自身、短くともできるだけ笠井と一緒に居たかった。
ホームの奥まで歩いて、上り線側のベンチに笠岡が座る。
「ごめんね」
笑いたいけど、うまく笑顔が作れない。唐突に切り出した笠井はそんな表情をしていた。
「何が?」
「わたし……変なこと言った」
全くその通りだ、と浅野は内心で毒吐いた。
ただ、彼女が謝るところと浅野が謝って欲しいところは少しばかりずれていた。
「いいよ、別に」
少しぶっきらぼうな返事になってしまったが、浅野にはそう返す以外が選べなかった。
ホームにアナウンスが流れ、下りのホームへの電車の到着を報せた。
「来たね。それじゃあ」
「ああ、うん……じゃあ」
笠井に背中を向けて、浅野はホームの下り線側へ歩いた。笠井の視線は浅野の背から外れ、ちょうど到着した上りの電車を通って抱えたスクールバッグへと向けられた。
溜め息のような音を吐きながら、扉が開く。
できることなら引き留めたい。
東京になんて行くな。
こっちにいればいいじゃないか。
言うのは簡単な事だ。でも、それではダメだ。
笠井の事を何一つ考えれているか?
彼女のやりたいことは?
彼女の意思は?
彼女の夢は?
電車のドアが閉まる音が背中をなぞり、笠井の中の何かを崩れさせた。
何を言ってたんだ、自分は。
上手く行かなかったことへの不安。
浅野に八つ当たりまでして。
短く息を詰まらせる。ゆっくりと息を吐き出して、そうして呼吸を整えようとすると、今度は感情が目元まで這い上がってきた。
掴んだ定期入れに、水滴が落ちる。
どうせ独りだ、という自棄じみた気分が嗚咽を助長させた。
「帰らなくてよかった」
聞こえないはずの声に、笠井の肩が大きく跳ねる。
「あさの……?」
なんで?と訪ねる震え声に、浅野は当たり前のように答える。
「見越してたからな、こうなること」
笠井が帰るまでいるから、泣いてていいよ。と、浅野は事も無げに付け加えた。あまつさえ、笠井の頭に手を乗せるという事までやってのけた。
それからひとしきり泣いた笠井は、普通と急行の計5本ほどをやり過ごした辺りでふと我に返って赤面する。
浅野は、頬の朱の引かない笠井を見送って下りの鈍行に乗り込んだ。
「全部終わったら、どこかに遊びに行こう」
泣きやんだ笠井にありきたりにそうとだけ伝えて、浅野は勝手な思いを心の中に埋めた。