冬の始まり
レグルスは婚約が決まったことだけ告げると、また慌ただしく王宮へ戻っていった。
それと入れ替わりに王宮から正式文書が届き、書簡を持ってきた使者に言われるがまま、ニコラはその書類へサインをした。
そこには既に父と国王陛下、そしてお相手である将軍閣下のサインがあった。
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「ねえアイラ、私まだ信じられないの。だっていきなりすぎるでしょう?」
あの知らせがあってから、今日で2週間。
訳が分からずパニック寸前だったニコラは、あの後すぐ熱を出して1週間も寝込んでしまった。知恵熱である。
その間にも着々と婚約の準備は進められ、あっという間に結婚式は4ヶ月後。準備のため、明日から王宮へ行くことが決まっていた。
屋敷から殆ど出たことがないニコラは、不安で押しつぶされそうになるのを必死でこらえて、この屋敷で過ごす最後の一日を噛み締めていた。
「確かに急でしたわね」
庭で取れたハーブでお茶を入れながら、アイラも首をかしげる。
「それに王宮でのマナーとか……本での知識は沢山あるのよ。でも実践したことがないんだもの、きっとアルバート家の名を汚してしまうわ」
ニコラは、自分が誰かへ嫁ぐなどできないと思っていた。
こんな病弱な体では、跡継ぎを生むことさえままならない。
姉のシルヴィアのように美しければもう少し状況が違ったかも知れないが、黒い髪に不気味な紫色の瞳は、常に悪い顔色もあいまってさしずめ魔女のようだ。
こんな女はきっと妾にするのもお金の無駄といもの。
だから、ニコラは姉の結婚式が本当に羨ましかった。
姉のシルヴィアは隣国の貴族と結婚した。貴族には珍しい恋愛結婚だったらしい。
相手はアルバート家にとっても申し分なく、周りから祝福されて盛大に結婚式が執り行われた。
純白のドレスに身を包んだシルヴィアはいつも以上に輝いて見えて、沢山の人に囲まれて幸せそうに微笑むその姿は、ニコラの大好きな御伽噺に出てくるお姫様のようだった。
会場の隅でそっとその様子を見ていたニコラは、誰にも気づかれないように静かにその場を辞した。
こんな不気味な妹がいると知れたら、相手への印象が悪くなるかもしれない。
後から姉には怒られたが、黙って親族がいなくなるのもそれはそれで礼儀知らずだと思われてしまったかもしれない、とその非礼を詫びると「違うわよ」と優しい手で頭をなでられた。
そんな姉のように、まさか自分が嫁ぐことになるなんて。
ニコラはこんな自分にも婚約者ができたことが嬉しくて、言われるがまま書類へサインしてしまったのを後悔していた。
もちろん、既に名だたる権力者たちのサインがある書類を前にして、ニコラに拒否権などなかったのだが……
突然決まった婚約者は、ウィスタリア国の将軍『アーダベルト=ウィスタリア』閣下。
国名である『ウィスタリア』の名を持つことを許された人物、現国王陛下の弟君。
成人の儀を終えてすぐ王位継承権を放棄して軍部へ降った。
二十五歳になる今は、兄である国王陛下の臣下として軍部をまとめる将軍閣下だ。
一睨みしただけで賊を壊滅させたとか、一度戦場へ出たら鬼神の如きご活用ぶりで、漆黒のその目が血の色に染まる、などという噂が流れているが、そんな恐ろしい噂がたっているにも関わらず軍部の部下たちからの支持は厚く、常に畏怖と羨望の的となっている。
背はウィスタリアの成人男性の平均より遥かに高く、野性的な、でもすっきりとした目鼻立ちで、その美しい顔に表情が現れたところを見た者はいないらしい。
この数日間で集めた情報では(おもにレグルスとアイラからの情報だが)そんな方が自分の結婚相手だなんて何かの間違いだとしか思えない。
ニコラはまだ信じることなどできないでいた。
王位継承権を返上したとはいえ、王弟殿下である。しかも軍部の最高位である将軍アーダベルト閣下との婚約をこんなにも早急に、しかも相手が自分でいいのだろうか。
「お父様ですよね……」
ニコラはアイラに悟られないようにそっとため息をついた。
あの知らせがあってからまだ父には会っていない。
父の王宮での地位は確固たるものだが、所詮は成り上がりの下級貴族にすぎない。
それをより確固たるものとするために、王族である閣下との婚約を取り付けたのだろうか。
「私でもお役に立てるかしら」
ニコラは降り積もる雪を眺めながら、我が家で飲める最後のハーブティーに口をつけた。
外はもうすっかり雪景色になっており、ウィスタリアの長い冬が始まろうとしていた。