人皮壁紙
毎日毎日真っ白い壁で囲まれた実験室で実験をしている時期がありました。
白い壁の部屋を見ただけで発狂しそうにになってきました。
じゃあ壁紙を変えてやろうと思って書きました。
少し前の話。卒論〆切まで間がないというのに、使えるデータがまるで出てなくて、毎日毎日、朝から晩まで研究室で実験してた時の話。
俺はあのころものすごく疲れてたから、みんな変な夢でも見たんだろうって言うんだけど、でも本当にあったことなんだ。だって、今でもその辺に落ちてるから。そのときの証拠が。
うちの研究室の実験室は、電子顕微鏡とか、DNA抽出用のMaxWellとか、HPLCとか、GCMSとか、分離カラムとか……名前だけ聞くと異世界の言語にしか聞こえないと思うけれど、まあ、いろいろな精密機器があるんで、ゴミや埃を持ちこまないように徹底されていた。一台が軽く一千万二千万するから壊したら大事だし。だから入るときは靴をはき替えて、着替えるか白衣羽織るかして、髪が長かったらまとめて、女の子だったら化粧も控えて、が暗黙の了解になっていた。
その日も実験室の前のゲタ箱で普段着の上に白衣着て、靴はき替えようとした。サンプル片手に実験室用の健康サンダルに足をつっこんだとき、床に落ちた毛に気付いた。黒くて太い、少し縮れた毛。
イラッとして毛をつまみあげた。誰だ? こんな所にこんなもん落としたのは。また教授が怒るよあの人ムダに潔癖症なんだから。あたりを見渡すと、まだ落ちてた。五、六本は落ちていた。腹が立ったけどぜんぶ拾ってゴミ箱に捨てた。教授に怒られるのいやだし。
気をとりなおして実験室のドアを開けた、ら……床の至るところに毛が散らばっていた。白い床に散乱した黒い毛。縮れているのが陰毛を連想させて、ただの毛より数段気持ち悪い。何だこれ。
前、サンダルに汚れつけて歩き回って、床じゅう汚して、ものすごく教授に怒られたことがあった。それを思い出した。うっわ踏んじゃった、とりあえずサンダルについたの落とさなきゃ、と片足あげた拍子に壁に手をついた。
ぞくっとした。生温かい。それで、ほのかにやわらかい。壁を見たら肌色だった。
ひっと息を飲んだ。思わず手を離して後ずさったら、機器が置いてある机に背中をぶつけた。痛みにのけぞって、天井を仰いだら、そこも肌色だった。
部屋全体が肌色だった。実験室の壁ぜんぶが、毛深い人間の肌になっていた。
ノート放り出して悲鳴をあげてしまった。なな何これ!?
変な柄の壁紙貼ったなんてものじゃない、どう見ても生の人間の肌だった。だっていま触ったら、たしかに柔らかかった。しかもほんのり温かかったし。
……温かい?
恐る恐る壁に顔を近づけてみる。肌理の粗い脂ぎった肌。びっしり生えた濃い体毛。さっき見たのと同じ毛。
そっと毛をつまんで引っ張ってみると、ぷつっという感触をのこして抜けた。抜けた跡は赤くなっていた。シャーペンで突いてみたら、やっぱり赤くなって、よく見たら少し血がにじんでいた。
……生きた肌だった。毛深い、たぶん男の肌だった。
銭湯で、となりに毛もじゃのおっさんがいるんだったら、何もおかしくはなかったと思う。でもここは風呂場ではなくて、何千万もする分析機器がぎっちり備え付けてある部屋だった。
……どうしよう。何が起こったのかさっぱりだけど、こんなに毛が散らばってたら絶対にまずい。掃除から始めないと。いやその前に機械に毛が入ってないか確認して、故障してたらメーカーに連絡して……。 とりあえず今日は実験できないことが確定だ。なんてことだ。
不意に実験室のドアが開いた。びっくりして振り返ると、うちの研究室にパートで来てる女の人がいた。
「あら、おはようございます」
「あ、お、おはようございます」
こんなときでも挨拶の言葉は同じだった。
このパートさんはまだ三十くらいで、パートに来るようなおばちゃんたちの中ではわりと若くてきれいな人だ。けれど、俺はこの人が少し苦手だった。いつもうつむき加減で幸薄そうで、必要最低限の会話しかしない、何だか暗い人だったから。
それなのに、今日はこのパートさん、妙に晴れやかな顔をしている。
「あっ、あの、待ってください。部屋が、壁がなんかすごいことに」
肌色の部屋の中を指さして、自分でも理解できていないこの事態を説明をしようとすると、やんわりとさえぎられた。
「ええ、私もさっき見て。どうにかしなくちゃと思って、今いろいろ買ってきたところなの」
「ど、どうにか……ですか? どうにかできるんですかこれ」
対処法といっても、散らばった毛の掃除くらいしか思いつかない。掃除機のゴミパックでも買ってきたのか。
「ええ、まず毛の元からどうにかしなくちゃと思って」
パートさんは持っていたスーパーの大袋から何か取り出した。歯磨き粉のチューブかと思ったが、それよりふた回りは大きく、よく見ると『脱毛』の字があった。
「だ、脱毛……ですか?」
「ええ。最初は剃ろうかと思ったんだけど。またすぐ生えてくるだろうし、元から断たないとだめだと思って」
ムダ毛処理でもするかのようにこともなげに言う。いや、よく考えればたしかに毛の処理というのが一番正しいのだけれど。
けれど、本当にただのムダ毛か何かに対する如く、冷静に人の皮の壁に対処しているこの人がなんだか怖かった。
彼女は袋からいくつもいくつも脱毛クリームを取り出して、実験机に置いていく。
「この壁の肌、知り合いに似てるのよねぇ。だからクリーム使うことにしたの」
「知り合い……ですか?」
パートさんは、鼻唄でも歌い出しそうなくらいご機嫌だ。
なんだか背筋が寒くなった。この人は、ふだん自分から話すことなんてほとんどない。いつも暗くて、幸薄そうで、最低限のことしか話さないのだ。だから研究室内ではとっつきにくい人で有名だった。
そんな人が、なんでこんな愉しそうなんだ?
「その人ねえ、毛深いくせにずいぶん肌弱くってね。カミソリで剃るだけで真っ赤になってたの」
パートさんはかわらずご機嫌に話す。机には脱毛クリームがもう十以上並んでいる。それなのに彼女の手は止まらない。憑かれたようにクリームを取り出し続けていた。
「薬品にはもっと弱くてね。脱毛クリームちょっと塗っただけで、病院に行くくらいかぶれたわ」
パートさんはもう一つ大きな袋を持っていた。一つ一つ出すのはじれったかったみたいで、ひっくり返して全部机の上に出した。いろいろな会社の形のチューブが転がり出てきた。ピンクや白、水色のパッケージの全部に、除毛や脱毛の文字があった。
「だからクリーム使うことにしたの、思い知らせてやろうと思って」
彼女は手袋をはめて、チューブの中身を大量に掌にしぼりだした。そして、壁にべっとりとなすりつけた。
「思い知らせるって……何を」
「知ってるのは私だけだって」
手袋をはめた手が力を込めてクリームを塗り広げ始めた。
彼女の眼は爛々とかがやいていた。顔が妖しいような桃色に染まり始めていた。
「あんたが何処の誰のとこに行こうとも、知ってるのは私だけだって」
彼女は乱暴にクリームを塗っているように見えた。けれど、そのうちに気づいた。彼女はクリームを塗っているだけではない。その手は、奇妙なほど繊細に、壁の肌に指を滑らせていた。
「あんたがどこの誰と肌を交わしても、あんたの肌がこんなに弱いって、知ってるのは私だけだって……」
それはまるで、彼女の手が壁の肌を嘗め回しているようだった。
目の前で何が起こっているのか、俺はもうわからなかった。俺はただ突っ立って、クリームを塗られた壁の肌がみるみる赤く爛れていくのを見ていた。
読んでくださってありがとうございます。
これは長いブランクのあと最近書いた短編のため、勘が戻っておらず、いろいろ突っ込みどころが多いかもしれません。
批判や感想を下さるとうれしいです。