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盂蘭盆に帰る、魂迎えの日。

作者: 〼
掲載日:2026/08/17

お盆、私は帰省することになった。


R県の小さな村にある私の実家は、昔ながらの風情を残した、そんな家だった。


一昨年から仕事が忙しく、帰省できていなかった。


久しぶりに家族や友人に会えることが嬉しくて、内心浮かれながら荷物を持って最寄り駅へ向かった。


駅には母が迎えに来ていた。


「久しぶりね」


「うん。母さんも元気そうでよかった」


母の運転する車に揺られ、実家へ向かう。


数年ぶりに見る我が家は、昔とそれほど変わっていなかった。


庭も、玄関も、古びた柱も。


何も変わっていない。


ただ、家に入った瞬間、妙な違和感があった。


自分の匂いがない。


昔は当たり前のように自分の家だと思っていた場所なのに、今はどこか他人の家にいるような気がした。


その日の夜、私は仏壇に手を合わせた。


写真の中で、父が笑っている。






父は、私が中学二年生のときに事故で亡くなった。


詳しいことは、今でもよく分かっていない。


車に轢かれた。


家族から聞かされたのは、それだけだった。


父が亡くなってから、父の部屋はほとんど手をつけられていない。


母や祖父母は、「無理に片付ける必要もない」と考えていたらしい。


私は、少しだけ嫌だった。


父を思い出すものを見たくなかった。


けれど、当時はまだ子供だった。


自分から「片付けてほしい」と言う勇気もなかった。


ふと、父の部屋の前で足が止まる。


私は扉を開けた。


部屋の中は、


父が使っていた机。


古い本棚。


そして、部屋の隅に置かれたピアノ。


私はピアノに近づき、鍵盤に触れた。


父が生前、よく弾いていたピアノだ。


私はピアノを弾けるわけではない。


ただ、適当に鍵盤を押して音を出していただけだった。


それでも、小一時間ほどそうしていたと思う。


そのときだった。


ふと、違和感を覚えた。


音がしない。


この家は駅から少し離れている。


それでも普段なら、時々電車の音が聞こえてくる。


家族が廊下を歩く音。


誰かの話し声。


外を走る車。


虫の鳴き声。


家というものは、思っている以上にたくさんの音で満たされている。


だが、今は何も聞こえなかった。


微かに聞こえない、という程度ではない。


まるで耳そのものが潰れてしまったかのように、完全な無音だった。


聞こえるのは、自分の呼吸だけ。


すう、すう、と。


それだけが妙に大きく響いている。


嫌な汗が背中を伝った。


まさか。


いや、そんなことはない。


私はオカルトの類を全く信じていなかった。


偶然だ。


きっと、たまたま周囲の音が聞こえなくなっただけだ。


そう自分に言い聞かせ、私は部屋から出ようとした。


ドアノブに手をかける。


その瞬間


どさっ


背後から音がした。


私は慌てて振り返った。


本棚から、一冊の本が落ちている。


さっきまで何も起きなかったというのに、先ほどの無音のせいで過敏になっていた私は、震える手でその本を拾った。


見覚えがなかった。


父が生前持っていたものなのだろうか。


少なくとも、私はこの本を見たことがない。


表紙にはタイトルすらなかった。


私はしばらく本を眺めた。


だが、結局それ以上触れることはできず、元の場所へ戻した。


そして、すぐに部屋を出た。


それから何年も経った。






私は再び、父の部屋に入っていた。


扉を閉める。


部屋は昔と何ら変わっていなかった。


定期的に掃除されているのか、埃っぽくもない。


私はしばらく部屋を歩き回り、父の残したものを眺めた。


机。


本棚。


古い写真。


そして、あのピアノ。


懐かしさに任せて、いくつかの品に触れる。


そのときだった。


突然、この部屋以外のすべてが消えてしまったかのように、音が消えた。


蝉の声も。


車の音も。


家族の声も。


何も聞こえない。


私は息を止めた。


静かすぎる。


昔と同じだった。


あの日と、全く同じ。


そして私は気づいた。


本棚に、一冊の本がある。


あの日、落ちた本と同じものだった。


すると、この部屋以外が消えて無くなってしまったかのように、音が消えた。


まただ。


私は思わず息を止めた。


蝉の声も聞こえない。

車の音も、風の音も、家族の話し声も。


何も聞こえない。


昔と同じだった。


私はしばらく立ち尽くしていたが、やがて本棚へ目を向けた。


そこには、あの本があった。


昔、父の部屋で落ちてきた本。


なぜ今まで気づかなかったのだろう。


私は本棚から本を取り出した。


表紙には何も書かれていない。


ゆっくりと開く。


中には、日付と短い文章が並んでいた。


日記だった。


最初のページには、子供らしい字でこう書かれていた。


『八月十日』


『今日は父さんと買い物に行った。』


私は眉をひそめた。


父さん。


父親のことを、そう呼んでいたのだろう。


ページをめくる。


『八月十一日』


『今日は友達と遊んだ。』


『八月十二日』


『父さんと喧嘩した。』


『八月十三日』


『父さんと仲直りした。』


どれも何気ない日記だった。


私はなぜか、胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。


知らないはず、初めて読むはずなのに。


どこか懐かしい。


私はさらにページをめくった。


最後のページだった。


そこには一行だけ書かれていた。


『八月十四日』


そして、その下に、


『今日は家族に会えた。』


とあった。


「……家族?」


私は呟いた。


今日なら、確かに家族に会った。


母さんにも会った。


祖父母にも会った。


だから、特におかしなことではない。


そう思った。


その瞬間だった。


頭の奥で、何かが弾けた。


蝉の声。


眩しい太陽。


アスファルトの照り返し。


隣を歩く、小さな背中。


「父さん」


声が聞こえた。


私は立ち止まった。


「父さん、聞いてる?」


私は振り返る。


そこには、子供がいた。


中学二年生程度の子供。


最後に見たときと、何も変わらない姿だった。


「……」


声が震えた。


記憶が、次々と戻ってくる。


あの日。


私は息子と二人で出かけていた。


息子は何度も私に話しかけていた。


学校のこと。


友達のこと。


夏休みのこと。


私は仕事のことばかり考えていて、ろくに聞いていなかった。


「父さん、聞いてる?」


「……ああ、聞いているよ」


そう答えた。


本当は、何も聞いていなかった。


その直後だった。


クラクションが鳴った。


振り返る。


車が迫っていた。


私は息子を見た。


息子も私を見た。


そして


強い衝撃を体に浴びて、身体が宙に浮いた。


道路に叩きつけられる。


何かが潰れる音。


誰かの叫び声。


救急車のサイレン。


そして、息子の声。


「父さん……」


私は頭を抱えた。


「違う……」


違う。


ずっと間違えていた。


父が死んだんじゃない。


私が父だった。


死んだのは、そうだった。


「……お前だったのか」


息子は何も言わなかった。


ただ、少しだけ笑った。


私は日記を握りしめた。


事故のあと、私は息子の死を受け入れられなかった。


だから記憶を変えたのだ。


死んだのは父親。


生き残ったのは息子。


そう思い込んだ。


そうでもしなければ、私は生きていけなかった。


だから私は、息子として生きていた。


家族と会った。


友人と会った。


仕事をしていた。


帰省もした。


全部、私が作った記憶だった。


そして、今日。


盆に帰ってきた息子が、私をここへ連れてきた。


「……来ていたのか?」


息子が頷いた。


「どうして……」


「父さんが、ずっと聞いてくれなかったから」


私は何も言えなかった。


あの日、最後まで聞いてやれなかった。


だから今度こそ、聞くために。


息子は帰ってきたのだ。


「ごめんな……」


涙が落ちていく。


「ごめんな、父さん、お前の話を……」


自分で言って、言葉が止まった。


私は父ではない。


いや。


私は父だった。


そして、息子はもういない。


それでも息子は、目の前にいる。


「父さん」


「……なんだ」


「今日は、ちゃんと聞いてくれる?」


私は頷いた。


「ああ」


その瞬間、音が戻った。


蝉の声。


風の音。


遠くを走る車。


時計の針。


家の中から聞こえる、母の声。


私は泣きながら、息子の話を聞いた。


何を話しているのか、もう覚えていない。


ただ、あの日聞けなかった声を、今度こそ最後まで聞いた。


しばらくして、息子の姿が消えた。


私は一人、父の部屋に残された。


手元には、あの日記だけがある。


最後のページを見る。


そこには、


『今日は家族に会えた。』


と書かれている。


私はその文字を、何度も何度も眺めた。


そして、その下に。


さっきまではなかった文字が、一行だけ増えていた。


『今日は父さんにも会えた。』


私は日記を閉じた。


窓の外では、蝉が鳴いていた。


今年の夏は、少しだけうるさい。


私はその音を、黙って聞いていた。


それが今年の夏、盆に起きた全て。

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