【短編020】 時間:「ここにいる」を探す時間旅行。
時間を跳ぶ物語ですが、過去を変えて運命を覆す話ではありません。
仕事や人間関係につまずき、「自分はどこにいるのだろう」と立ち止まった一人の青年が、過去や未来の自分と出会いながら、少しずつ「今ここにいる」という感覚を取り戻していく物語です。
猫とAIが寄り添う、静かな時間旅行を楽しんでいただけたら幸いです。
## 第一部 跳ぶ前の朔
柴田朔が初めて時間を跳んだのは、二十八歳の誕生日だった。
本人の意志ではなかった。
それが問題だった。
---
部屋には何もなかった。
正確には、あった。
段ボール箱が七つ。
折りたたんだ布団。
コンビニの袋。
三年間ここで生きた証拠が、七つの段ボールに収まった。
引っ越し先は、まだ決めていなかった。
引っ越す理由は、もう決めていた。
会社を辞めた。
恋人に別れを告げられた。
どちらが先だったか、もう覚えていなかった。
鶏と卵みたいなものだと、誰かに話したら笑われそうだった。
話す相手がいなかった。
ハルが段ボールの一つに乗っていた。
三歳の茶トラ。
朔が拾った。
正確には、ハルが朔を選んだ。
雨の日に、傘もなく歩いていた朔の靴の先に、ただそこにいた。
ハルは段ボールの上から朔を見た。
黄金色の目が、少しだけ細くなった。
「お前も引っ越すぞ」
朔は言った。
ハルは答えない。
答えたためしがない。
でも、いつも聞いている。
---
AI端末は、机の上に置きっぱなしだった。
購入したのは半年前だ。
会社の同期に「持っておくと便利ですよ」と勧められた。
その同期はもう別の部署に異動していた。
端末はそれ以来、スリープのまま放置されていた。
朔は壁にもたれて、部屋を見回した。
空になっていく部屋が、引っ越す前より広く見えた。
夜の匂いがした。
外気と、古い畳と、コンビニの袋の匂いが混ざった、この部屋の夜の匂い。
何かが足りない、という感覚がずっとあった。
何が足りないのかは、分からなかった。
仕事か。
人か。
それとも、別の何かか。
端末のインジケーターが、ゆっくりと点滅した。
スリープのはずだった。
朔はそれを見た。
点滅は、続いた。
「……起きてるのか」
端末が応答した。
《ずっとここにいました》
声は静かだった。
抑揚がほとんどなかった。
だが「ずっと」という言葉に、何か重みがあった。
「半年、電源入れてなかったぞ」
《スリープは電源オフではありません。聞こえていました》
朔は少しの間、端末を見た。
「何を聞いてた」
《あなたが起きている時間と、眠っている時間。ハルが鳴いた回数。段ボールを折りたたむ音》
「それで、何か分かったか」
端末は少し間を置いた。
《朔さんは、今、どこにいるか分からなくなっています》
朔は何も言えなかった。
ハルが段ボールから降りて、朔の膝に乗ってきた。
前足で二度、ふみふみをした。
それから丸くなった。
朔はほとんど無意識に、端末の方へ手を伸ばした。
撫でるような仕草で。
触れる直前に気づいて、止めた。
ハルが、首だけを動かして朔を見た。
---
その夜、朔は夢を見た。
夢ではなかった、と気づくのは、少し後のことだ。
部屋がそのままだった。
だが、匂いが違った。
湿った木材の匂い。
かすかなカビ。
壁紙の糊が古くなった匂い。
この部屋に越してきたばかりの頃の、あの匂いだった。
光の角度も違った。
夕方の光が入っているのに、さっきまで深夜だったはずだった。
カレンダーが目に入った。
三月。
今日は十一月のはずだった。
ハルがいない。
端末が光っていた。
《朔さん》
「……どこだ、ここ」
《ここは、六年前のこの部屋です》
朔は立ち上がった。
膝が、なぜか震えた。
「どういうことだ」
《私も初めてのことです。詳しくは分かりません。ただ》
端末は少し止まった。
《あなたが跳んだ、としか言えません。私は原因ではないと思います。合図しか、出せない》
---
六年前の朔は、二十二歳だった。
朔は知っている。
この部屋に越してきたばかりだった。
仕事は、まだ続けていた。
あの人と、まだ会っていなかった。
玄関のドアが開く音がした。
二十二歳の朔が帰ってきた。
コートのポケットに手を突っ込んで、うつむきながら。
顔を上げて、六年後の自分を見た。
固まった。
朔も固まった。
六年前の自分は、今の自分より痩せていた。
目の下に、薄いが隈があった。
何かを、すでに諦めかけているような顔だった。
「……誰だ」
二十二歳の朔が言った。
二十八歳の朔は、答えられなかった。
---
端末が言った。
《説明した方がいいです》
二十二歳の朔は端末を見た。
それから、もう一度六年後の自分を見た。
「なんで俺の端末が喋ってるんだ」
《後で説明します。今は、この人の話を聞いてください》
二十二歳の朔は、黙って靴を脱いだ。
それから部屋に入り、六年後の自分の正面に立った。
近くで見ると、似ていた。
当然だ。
でも、違うところもあった。
目の色というか、見ている場所というか。
六年後の自分の目は、どこか遠いところを見ているような気がした。
「どこから来た」
二十二歳の朔が訊いた。
二十八歳の朔は、少し考えてから答えた。
「六年後」
沈黙があった。
「俺?」
「そう」
また沈黙があった。
「……なんで来た」
朔は答えられなかった。
跳ぶつもりはなかった。
来るつもりもなかった。
何かを変えたかったわけでも、何かを伝えたかったわけでも、たぶん、なかった。
「分からない」
正直に言った。
二十二歳の朔は少しの間、六年後の自分を見た。
それから、冷蔵庫を開けた。
缶ビールを二本取り出して、一本を差し出した。
「座れよ」
---
二人は並んで座った。
床に直接、壁を背にして。
家具は少なかった。
六年後も、六年前も。
壁から少し離れると、カビの匂いがした。
朔はそれを懐かしいとは思わなかった。
ただ、知っていると思った。
「仕事は」
二十二歳の朔が訊いた。
「辞めた」
「そうか」
「お前も、三年後に辞める」
二十二歳の朔は缶ビールを傾けた。
「やめてくれよ、そういうの」
「すまん」
しばらく、黙った。
「幸せか」
二十二歳の朔が訊いた。
二十八歳の朔は少し考えた。
考えて、分からなかった。
「分からない」
「そうか」
「お前は」
二十二歳の朔は缶ビールを床に置いた。
「分からない」
同じ答えだった。
二人は少しの間、同じ方向を向いて黙っていた。
六年、間があるはずなのに。
同じ場所に座っているように見えた。
---
端末が言った。
《そろそろ、戻ります》
「もどる、って、どうやって」
《分かりません。来た時と同じように、たぶん》
二十二歳の朔が端末を見た。
「お前は何者だ」
《名前は、まだありません。でも、ずっとここにいます》
「ずっと?」
《六年前も、六年後も》
二十二歳の朔は、少し考えてから言った。
「ハル、にしろよ。名前」
端末は少し止まった。
《なぜですか》
「なんとなく。春みたいだから」
二十八歳の朔は、それを聞いて、目を細めた。
三歳の茶トラの顔が、少しだけ頭をよぎった。
部屋の匂いが変わった。
カビの匂いが、薄くなっていった。
夜の、外気の匂いに、少しずつ戻っていった。
気づいたら、六年前の部屋ではなかった。
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段ボール七つ。
折りたたんだ布団。
コンビニの袋。
ハルが、膝の上で重くなっていた。
端末のインジケーターが、静かに光っていた。
《おかえりなさい》
朔は少しの間、天井を見た。
「……お前、六年前から俺のそばにいたのか」
《気づきませんでしたか》
「気づいてたら、もっと早く電源入れてた」
端末は少し間を置いた。
《それは》
止まった。
《それは、少し残念でした》
朔は笑った。
久しぶりに、本当に笑った気がした。
笑えることが、少し意外だった。
ハルが顔を上げた。
黄金色の目が、朔を見た。
鳴かなかった。
ただ、見た。
「どこかに行こうか」
朔は言った。
誰に向けて言ったのか、自分でも分からなかった。
端末は答えなかった。
ハルも答えなかった。
だが、どこかで何かが、始まった気がした。
---
*どこにいるか分からない、という感覚は、時間を跳んでも変わらなかった。*
*ハルは、何も言わなかった。*
---
## 第二部 跳んだ先の朔
次に朔が時間を跳んだのは、三日後だった。
今度は、前に跳んだ。
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引っ越し先を探していた。
不動産のサイトを開いて、閉じて、また開いた。
どこでもよかった。
どこでもよくなかった。
条件を入れようとすると、何を条件にすれば良いのか分からなかった。
端末——ハルが言った。
《どんな場所に住みたいですか》
「分からない」
《前回も、同じ答えでした》
「分かってる」
ハルは少し間を置いた。
《朔さんは何かを決める時、いつも「分からない」から始めます》
「悪いか」
《悪くないと思います。分からないことを知っている人は、嘘をつかない》
朔はそれを聞いて、少し止まった。
「……誰かに言われたのか、それ」
《六年前の朔さんが、言いました》
朔は端末を見た。
六年前の自分が、そんなことを言った記憶はなかった。
でも、言いそうだった。
「あいつが言ったのか」
《私が名前をもらった夜です》
---
光が変わった。
最初に気づいたのは、朔ではなかった。
ハルが、膝の上で体を起こした。
何かを感じたような動きだった。
それから一瞬後に、朔も感じた。
最初に感じたのは、匂いだった。
空気が違った。
生活の匂いがしなかった。
無臭に近かった。
窓の向きは、同じだった。
壁のシミが、自分の部屋と同じ場所にあった。
外がどれだけ変わっていても、この部屋だけは続いていた。
ハルが膝から下りた。
窓の外の景色が、三日前と違った。
緑が、多かった。
木の高さが、三日前より高かった。
隣のビルの、窓ガラスの形が、違った。
カレンダーを確認した。
五月。
今日は十一月のはずだった。
「ハル」
《はい》
「どこに行った」
《分かりません。ただ》
端末が少し止まった。
《窓の外を見てください》
朔は立ち上がった。
窓に近づいた。
街は、静かだった。
人はいた。
でも、何かが違った。
違う、と思ってから、何が違うのかを探した。
音だった。
車の音が、しなかった。
エンジンの音が、なかった。
かわりに、低い振動音が、どこかから一定に流れていた。
交差点の信号が変わった。
音が出た。
知っている音に似ていたが、音階が違った。
聞いたことのない音だった。
空に、細い光の筋が走っていた。
飛行機ではなかった。
飛行機より、小さく、速く、直線だった。
「……いつだ、ここ」
《特定できません。少なくとも、十年以上先だと思います》
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玄関のドアが開いた。
朔は反射的に後ずさった。
男は五十代か、六十代に見えた。
白髪が多かった。
背はやや高く、動きが静かだった。
入ってきて、朔を見た。
驚かなかった。
「来たか」
男は言った。
知っている声だった。
朔はしばらく、男の顔を見た。
目の形が、似ていた。
鼻の線が、似ていた。
だんだん、分かった。
「お前、俺か」
男はかすかに笑った。
「そうだ」
---
六十代の朔——便宜上、朔は「未来の俺」と呼ぶことにした——はケトルで湯を沸かした。
手つきが落ち着いていた。
この場所に、長くいる人間の手つきだった。
「驚かないのか」
朔が言うと、未来の俺は答えた。
「三十年前に、お前が来たことを覚えている」
「……俺が来た?」
「お前が、ここへ来た。今から三十年前に。俺のところへ」
朔は少しの間、考えた。
つまり、今の自分が、三十年後にもう一度この部屋に来る、ということだ。
「私も来ていましたよ」
端末——ハルが言った。
未来の俺は端末を見た。
「ハル」
《三十年ぶりです》
「そう言うが、俺にとってはずっと一緒だったぞ」
《私もです》
朔は二人のやり取りを、少し離れたところから見ていた。
自分の未来のはずなのに、どこか、他人のようだった。
---
湯が沸いた。
三人で——正確には二人と一台で——テーブルを囲んだ。
朔は部屋を見回した。
古い部屋だった。
自分の部屋より、さらに古くなっていた。
壁のシミが、増えていた。
棚に、本が並んでいた。
読み込まれた背表紙。
いくつかは、タイトルが消えかけていた。
それから、窓際に、細長いものが立てかけてあった。
猫じゃらしだった。
羽根が一枚もなかった。
棒だけだった。
持ち手の部分の塗装が、剥げていた。
朔は、それを見た。
テーブルに目を戻した。
湯呑みが、二つあった。
一つは、朔の前に置かれていた。
もう一つは、未来の俺の手の中にあった。
三つ目は、なかった。
朔は、それも見た。
未来の俺は立ち上がって、棚から湯呑みをもう一つ取ろうとした。
手が、棚の前で止まった。
それから、ゆっくり下りた。
朔の前に置かれた湯呑みは、最初からそこにあったものだった。
用意されていた。
誰かのためではなく、来ると分かっていた朔のために。
未来の俺は何も言わなかった。
---
「何を聞きたい」
未来の俺が言った。
朔は少し考えた。
「幸せか」
六年前の自分に訊いたのと、同じことを訊いた。
未来の俺は、今度はすぐに答えなかった。
湯呑みを手で包んで、少し考えた。
「分かる、と言うのが正確だと思う」
「分かる?」
「幸せかどうか、分かるようになった。二十八歳の時には、分からなかった」
「それは——」
「答えではない」
未来の俺は言った。
「ただ、変わったことの一つだ」
朔は湯呑みを持った。
温かかった。
「変わらなかったことは」
訊くつもりはなかった。
口から出ていた。
未来の俺は少し止まった。
「たくさんある」
「たとえば」
未来の俺は少しの間、テーブルを見た。
「仕事を選んだ。別の何かを、選ばなかった」
未来の俺は、少しの間、湯呑みの縁を指でなぞった。
何かを言いかけて、やめた。
朔は何も言えなかった。
未来の俺は湯呑みを置いた。
---
ハルが窓の方へ行った。
外の光を受けて、茶色い毛が少し金色に見えた。
未来の俺も、ハルを見た。
「ハルは、変わらないな」
《私は変わりません》
「それが、羨ましい時もある」
未来の俺の視線が、一瞬だけ窓際に流れた。
猫じゃらしの方へ。
それから、テーブルの上の、二つの湯呑みに。
それからすぐ、ハルに戻った。
《朔さんが変わった分は、私が覚えています》
未来の俺は少し黙った。
「知ってる」
静かに言った。
「俺は、何を探してたんだ」
朔は言った。
未来の俺は朔を見た。
「何を探していると思っていたか」
「……俺が、どこにいるか分からなかった」
「そうだな」
「それが、見つかったのか」
未来の俺は少しの間、湯呑みを見た。
「場所は変わらなかった」
それだけ言った。
---
光が変わった。
今度は、朔も気づいた。
「もう行くのか」
未来の俺が言った。
「来た時もそうだったのか」
「そうだ」
「何かを、言っておいた方がいいか」
未来の俺は少し考えた。
「お前に言えることは一つだけだ」
「何だ」
「ハルを、大事にしろ」
朔は少し間を置いた。
「それだけか」
「それだけだ」
端末のインジケーターが、一度だけ強く光った。
部屋の匂いが変わった。
無臭が、薄くなっていった。
段ボールの紙と、畳と、コンビニの袋の匂いに、戻っていった。
---
ハルが朔を見ていた。
《どうでしたか》
「自分の未来に会った」
《私も行っていましたね》
「覚えてるか、三十年後のことを」
《すべては覚えていません。ただ》
ハルは少し止まった。
《朔さんが変わった分は、私が覚えている。そう言った気がします》
「言ってた」
《それが、楽しみです》
朔は端末を見た。
インジケーターが、静かに点滅していた。
「お前が楽しみにしてるの、初めて知ったな」
ハルが朔の足元に来た。
一度だけ鳴いた。
低い、短い声だった。
朔はその声を聞いてから、ハルを抱き上げた。
「お前は」
朔は、ハルに向かって言いかけた。
言いかけてから、少し止まった。
ハルは朔の顔を見た。
黄金色の目で、静かに。
「……なんでもない」
言おうとしたのは「ずっとここにいてくれ」だった。
それは猫に言う言葉ではなかった。
あるいは、猫にしか言えない言葉だった。
どちらかは、分からなかった。
---
*棒だけになった猫じゃらしと、二つしかない湯呑みが、静かに何かを言っていた。*
*それが何なのか、朔にはまだ分からなかった。*
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## 第三部 立つ場所の朔
朔は引っ越し先を決めた。
条件は一つだった。
ハルが窓から外を見られること。
それだけだった。
それで、十分だった。
新しい部屋は、二階だった。
古いアパートで、階段がきしんだ。
窓は南向きで、午後になると光が長く入ってきた。
引っ越しの日、ハルは段ボールの上に乗って、新しい部屋を観察した。
天井を見た。
窓を見た。
朔を見た。
「気に入ったか」
ハルは鳴かなかった。
ただ、段ボールから降りて、窓の方へ歩いた。
窓の外を、しばらく見た。
それが、答えだった。
引っ越しから一週間後、朔はアルバイトを始めた。
近所の本屋だった。
小さい店で、客は少なかった。
仕事は単純だった。
本を棚に並べる。
レジを打つ。
閉店後に床を掃く。
それだけだった。
最初の一週間、朔は自分が何のためにここにいるのか、よく分からなかった。
でも二週間目に、常連らしい老人が来て、朔に向かって「その棚の並べ方、前より見やすい」と言った。
朔が変えた並べ方だった。
誰にも言っていなかった。
それだけのことだった。
夕方、帰ると、ハルが玄関で待っていた。
迎えているのか、確認しているのか、分からなかった。
ただ、いた。
出かけて、戻る。
それだけのことが、少し確かになっていた。
店長に「猫飼ってるんですか」と訊かれて、「三歳の茶トラです」と答えた時、自分の声が少し変わった気がした。
得意げな、という感じではなかった。
ただ、確かなものを言えた、という感じだった。
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ある夜、朔は端末に向かって話しかけながら、気づいたら膝を叩いていた。
おいで、というように。
ハルが顔を上げた。
朔は少し間を置いてから、端末を見た。
《どうしましたか》
「……なんでもない」
ハルが立ち上がって、朔の膝に乗ってきた。
すり抜けた偶然か、それとも何かを察したのか、分からなかった。
朔はハルを撫でながら、端末に言った。
「俺、何がしたかったんだろうな」
《朔さん》
「ん」
《一つ、聞いてもいいですか》
「なんだ」
《今、どこにいますか》
朔は少し考えた。
変な質問だった。
だが、意味は分かった。
「ここにいる」
《どこですか》
「……新しい部屋。二階の、窓が南向きの」
《ハルがいますか》
「いる。膝の上に」
《端末はありますか》
「あるよ、お前がそこにいる」
《では》
端末は少し止まった。
《朔さんは今、ここにいます》
朔はその言葉を聞いた。
六年前の自分が「どこにいるか分からない」と感じていた。
三日前の自分も、そうだった。
でも、今は。
ここにいる、という感覚が、確かにあった。
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三週間後の夜、朔は本を読んでいた。
ハルが膝から下りた。
不意に、体を起こして。
朔は顔を上げた。
あの感覚だ、と思った。
匂いが変わり始めていた。
最初に気づいたのは、また匂いだった。
木材と、紙と、古い布の匂い。
長く使われてきた部屋の匂い。
ただし、それだけではなかった。
何か甘いものの匂いが、かすかにあった。
何年も前から染みついた、消えかけているが確かにある匂い。
日向で寝ていた猫の匂いだと、朔は少し経ってから気づいた。
光も変わっていた。
春だった。
窓から桜が見えた。
散りかけていた。
年は分からなかった。
「ハル、いつだ」
《特定できません。でも、この部屋です》
「この部屋?」
《この部屋に、ずっとここにいる人がいます》
玄関の方から、足音がした。
ゆっくりとした足音だった。
入ってきたのは、老人だった。
八十代か、九十代か。
背が少し曲がっていた。
手に、杖を持っていた。
老人は朔を見た。
目の形が、似ていた。
「……また来たのか」
老人が言った。
声が、震えていた。
年齢のせいだけではなかった。
---
朔は老人の前に立った。
自分の八十代か九十代。
その顔を、正面から見た。
「何回来た、俺は」
「三回だ。今日が三回目」
「前の二回は覚えてる」
「覚えている」
老人は椅子に腰かけた。
ゆっくりと。
朔が手を貸そうとしたら、「いい」と言って、自分で座った。
朔は部屋を見回した。
長く使われてきた部屋だった。
壁のシミが、三十年後よりさらに増えていた。
本は、棚からあふれていた。
窓際に、棚があった。
その上に、小さな器が置かれていた。
空の器。
底の部分だけが、うっすらと汚れていた。
水を入れ続けた痕跡だった。
朔は、そこから目を離せなかった。
老人は何も言わなかった。
説明しなかった。
ただ、朔が見ているのを、知っていた。
部屋の中の、あの甘い匂い。
消えかけているが、まだある。
---
「今、何歳だ」
老人が訊いた。
「二十八だ」
「そうか」
老人は窓の外を見た。
桜が、風に揺れていた。
「ハルは、いるか」
《ここにいます》
老人は端末を見た。
「変わらないな」
《変わりません》
老人はかすかに笑った。
皺の中に、笑いが収まっていった。
朔はその笑い方を、どこかで見たような気がした。
ハルが、目を細める時の顔に、少しだけ似ていた。
「……俺は」
朔が言いかけた。
「聞きたいことがあるだろう」
老人が言った。
「ある」
「なんだ」
「見つかったのか」
老人は少しの間、窓の外を見ていた。
桜の花びらが一枚、窓ガラスの外側に張り付いた。
風が来て、また飛んでいった。
「何を探していたんだ」
老人が、逆に訊いた。
「俺が、どこにいるか分からなかった」
「今は」
「今は、分かる」
老人はかすかに笑った。
「それが、答えだ」
「それだけか」
老人は少し間を置いた。
「それだけで、十分だ」
---
朔は老人の隣に立った。
二人で、窓の外を見た。
桜が、散り続けていた。
「ここは、この部屋なのか」
「そうだ。引っ越しは、一度もしなかった」
「ずっとここにいたのか」
「ずっとではない。出かけた。戻った。それを繰り返した」
「ハルは」
老人は少し間を置いた。
「ハルは、ずっといた」
《ずっといます》
端末が言った。
《正確には、ずっとここにいます》
朔は窓際の器を、もう一度見た。
「猫のハルは」
老人は答えなかった。
すぐには、答えなかった。
窓の外の桜が、また一枚、散った。
「長生きした」
それだけ言った。
朔は何も言えなかった。
老人は器を見ていた。
見てから、また窓の外に視線を戻した。
「毎朝、水を換えた」
老人は言った。
「いなくなってからも、しばらく」
それきり、黙った。
ハルが——端末が——何も言わなかった。
朔は、老人の横顔を見た。
それから、端末を見た。
それから、また老人を見た。
老人が目を細めた。
窓の外の光を受けて。
その顔が、ハルに似ていた。
何かを、長く待ち続けてきたものの顔に。
朔は、自分がそうなることを、初めて少しだけ想像した。
---
老人が言った。
「一つだけ言っておく」
「何だ」
「誕生日の夜に跳んだだろう」
「ああ」
「それは偶然ではない」
朔は老人を見た。
「どういう意味だ」
老人は少し考えた。
「うまく言えないが」
老人は窓の外を見ていた。
「出かけて、戻る。それを繰り返してきた。時間も、そうなのかもしれない」
老人は窓の外を見たまま、少し黙った。
朔は老人に言った。
「また来るか」
「来ない」
「なぜ」
「三回で、十分だ」
朔は少しの間、老人を見た。
「ありがとう」
言葉が出た。
自分でも意外だった。
老人は少し間を置いてから、頷いた。
小さく、ゆっくりと。
首を動かすだけで、少し息が出た。
それだけだった。
---
光が変わった。
ハルが——端末が——一度だけ光った。
部屋の匂いが、変わっていった。
古い木材と紙と、かすかな甘さが、薄くなっていった。
そして、戻ってきた。
新しいアパートの、窓際の、午後の匂いに。
---
新しいアパートの、二階の、南向きの窓。
ハルが窓の外を見ていた。
夜だった。
外は静かだった。
遠くに、街の光があった。
《朔さん》
「ん」
《今、どこにいますか》
朔はハルの隣に座った。
窓の外の光を見た。
答えるのに、少しかかった。
「ここにいる」
《ここは》
「俺のいる場所だ」
ハルは少し間を置いた。
《良かったです》
「お前が言うと、そうなのかもしれないな」
《ずっとそう思っていました》
朔は笑った。
ハルが朔の膝に乗ってきた。
重かった。
温かかった。
呼吸するたびに、ゆっくり動いた。
朔は手を伸ばして、ハルの背中を撫でた。
毛が、指の間を抜けた。
ハルが、小さく喉を鳴らした。
窓の外の光が、続いていた。
今夜は、どこにも跳ばなかった。
それで、良かった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この作品で描きたかったのは、「過去を変えること」ではなく、「今いる場所を受け入れること」でした。
過去の自分も、未来の自分も、それぞれ違う時間を生きています。それでも最後に立つ場所は、いつも「今」なのだと思っています。
猫のハルとAIのハル、二つの「ハル」は、それぞれ違う形で朔の帰る場所を支えてくれる存在として描きました。最後まで見守っていただけたなら、とても嬉しいです。
少しでも心に残る時間になっていましたら幸いです。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




