第六章:天界のミスター・パーフェクト
ルシアンは、きっちり3秒間、沈黙した。
その3秒間、第三支部の主任室では、時間が完全に凍りついたかのようだった。
そして、次の1秒。 天界のスーパーコンピューターとも呼ばれるルシアンの頭脳は、たった1秒で現場のカオスなパラメーター――『机をひっくり返す寸前のキレた死者』『せんべいを死守するダメ上司』『土下座するコミュ障の新人』――を完璧に入力・分析し、最適解を導き出した。
彼は魔界の土産が詰まったアタッシュケースをドア脇のソファにそっと置き、すらりとした長い脚を動かして、優雅に俺の目の前へと歩み寄った。
「そちらの殿方、あなたが佐藤誠さんですね」
ルシアンは白く細い手を伸ばし、まったくスキのない優雅な動作で、俺が今まさにひっくり返そうとしていたデスクのフチに「スッ」と手を添えた。
全く力が入っているようには見えないのに、俺は抗うことのできない山のような重みを感じた。浮きかけていたデスクは、無理やり元の位置へと押し戻されてしまったのだ。
「どうか、まずは落ち着いてください」
ルシアンは共感に満ちた、春の風のように温かいほほえみを浮かべた。その声は低く、ひどく魅力的だ。
「末端の職員の不手際と、上司の怠慢につきまして、第三支部を代表して深くお詫び申し上げます。あなたの怒りはもっともであり、完全に理解できるものです」
まるでソフトフォーカスのフィルターがかかったような完璧なイケメン顔をみて、俺は一瞬あ然とした。だがすぐに、ベテラン社畜としての防衛本能が再び作動した。
「ご、ごまかされるかよっ!」
俺は彼の手を力まかせに払い除け、その鼻先を指さして怒鳴りつけた。
「顔のいいホストを呼んで、きれいごとを並べれば済むと思うなよ!いいか、今日『無限魔力』か『神級チートステータス』をもらえねえなら、絶対にこの机をぶっ壊してやるからな!お前らみたいなお役所仕事は腐るほど見てきたんだ、アメとムチ作戦なんか俺には通用しねえぞ!」
俺の威圧的な態度を前にしても、ルシアンの顔から優しい笑顔が消えることはなかった。彼はただ、静かにため息をついた。
「……わかりました」
ルシアンはスッと背筋を伸ばした。そして、極めて唐突な行動に出た。
パリッとしたスーツのポケットから、ヤクザの兄貴が標準装備していそうな真っ黒なサングラスを取り出し、冷酷な手つきで顔にかけたのだ。 さらに両手を上げ、サラサラだった金髪の前髪を、後頭部に向かって力強くかき上げた――。
「バサッ!」
瞬間、覇気ダダ漏れの、殺気に満ちた『リーゼント』が爆誕した!
オーラが変わった。 さっきまでが「優しい保育園の先生」だとしたら、今のコイツは「歌舞伎町でみかじめ料を回収し終え、オーラだけで人を東京湾に沈められる極道の若頭」だ!
「佐藤サァン?アンタ、何かカン違いしてやしませんかねェ?」
ルシアンは少しだけ顔を下げ、真っ黒なサングラスと巨大なリーゼント越しに俺を見下ろした。 さっきまでの魅力的な低い声は、一瞬にしてヤクザ特有の「巻き舌」と、ゾッとするほどの威圧感にまみれていた。
「異世界がテメェの家の『食べ放題レストラン』だとでも思ってんのかァ!?あァ!? 『無限魔力』?多元宇宙の魔力の総量は一定だってことくらい知ってんだろうなァ!?テメェに無限の魔力をやったら、隣の宇宙の魔法少女が魔力切れで変身できなくなって、触手モンスターに食われちまうんだよ!その責任、テメェに取れんのかコラァ!!」
「えっ?い、いや、俺はただ……」
俺は滝のような冷や汗をかき、腰を抜かしそうになりながら後ずさりした。
「『神級チートステータス』だとォ? 三十年間まともに運動もしてねェ、体脂肪率オーバーで、死因が『激安の石鹸を踏んで転死』のクソダサい中年のおっさんが、神級のデータ量に耐えられるわけねェだろ! 転送された瞬間に、テメェの魂は電子レンジで温めすぎた生卵みたいに『パーンッ』と宇宙のチリになっちまうんだよ!こっちが嫌がらせでチートを渋ってると思ってんのか?テメェのそのモヤシみたいな魂を『保護』してやってんだよ、この恩知らずのすっとこどっこいがァ!!」
(キタキタキタキタァーーッ!!!ルシアン先輩の『極道モード』!!!)
カーペットに土下座したままのリリアは、恐怖でガクガクと震えながらも、脳内のツッコミ弾幕はすでに最高潮のボルテージに達していた。
(我らが天界のミスター・パーフェクトが闇落ちしましたよ!先輩、その物理法則を無視した巨大なリーゼント、どうやって作ったんですか!?さっき魔界に行ったの、ホントに出張交渉ですか?シマの奪い合いの抗争に行ってたんじゃないんですかぁ!?)
リリアは心の中でサイリウムを激しく振り回し、この生ける伝説に深い畏敬の念を抱いていた。
(佐藤さん、ケンカを売る相手を間違えてますよ!このルシアン先輩は、天界で一万年に一人の超絶エリートなんです!年齢一万歳、超イケメン、人望アツアツ、フィジカル最強、IQカンスト、まさに完璧の化身! 最高神評議会がわざわざ彼を第三支部の『実習主任』として派遣してきたのも、ウチのダメダメな部署を立て直すためなんですから! 『天使をやるべき時は天使、悪鬼をやるべき時はサタンより凶悪』ってのが彼の代名詞なんですよ!完璧なロジックとヤクザのオーラをあわせ持つ超エリートを前にして、人間界のイチ社畜が勝てるわけないです!おとなしくテトラポッドに詰められて東京湾に沈んでください!)
リリアが脳内で熱い実況解説を繰り広げているほんの数分の間に、現実世界の「純粋な言葉の暴力による鎮圧」は無慈悲にも完了していた。
俺は完全に腰を抜かし、生存本能のオートパイロットが作動したかのように、四つん這いでリリアの隣まで這っていった。 そして、両ひざをピタリとそろえ、背筋をピンと伸ばし、リリアよりもさらに美しい手本のような『正座』の姿勢で、カーペットにめり込んだ。
「ごめんなさい……俺が間違ってました……異世界は食べ放題じゃありません……魔法少女にはなりません……」
俺はうつろな目で壁に向かってブツブツとつぶやいた。 生まれてから今日まで積み上げてきたプライドも、クレーマーとしての勇気も、このド級のショック療法の前に、跡形もなく粉砕されてしまったのだ。
今、オフィスルームのカーペットの上には、巨大なリーゼント神樣におびえてウズラのようにブルブルと震える見習いと死者が二匹。 俺たちは肩を並べて正座しており、その光景はひどく悲惨でありながら、なぜか奇妙な調和を生み出していた。
俺が完全に抵抗力を失い、チワワのように大人しくなったのを見て、ルシアンは満足げにうなずき、「フンッ」と鼻で笑った。
そして、手を伸ばしてサングラスを外し、無造作に何度か髪をかき混ぜる。 すると、さっきまでの凶悪なリーゼントは一瞬にしてバラけ、元のサラサラでまぶしい金髪へと元通りになった。
イケメンホストモードへの、シームレスな切り替えである。
「素晴らしい。どうやら我々は、完璧なコンセンサスを得られたようですね」
ルシアンはデスクの前に歩み寄り、黙々とせんべいをかじり続けているレジス主任にコクリと一礼してから、床に正座する二匹のウズラ(俺たち)を振り向いた。
「リリアさん、佐藤さん。どうかそんなにかしこまらず、楽にしてください」
もちろん、俺もリリアも1ミリたりとも動く勇気はなく、床にアロンアルファで接着されたかのようにへばりついていた。
ルシアンは全く気にする様子もなく、自分のアタッシュケースを開けた。そこから黄金の光を放つ特殊な書類の束を取り出すと、ピアノでも弾くかのような滑らかな指さばきで、猛スピードで記入し始めた。
「佐藤さんが『通常のベーシックセット』にご不満とのこと。そして私もちょうど魔界での交渉を終え、手元にいくつかの『特殊なワケアリ品』を処理する権限を持っております」
ルシアンは様々な承認スタンプを「バンッ!バンッ!」と押しならが、流れるような口調で言った。
「ただいま私の実習主任の権限をもちまして、あなたに『世界を滅ぼすほどの威力を持ちながら、発動条件が理不尽の極みであり、かつランダムな副作用をともなう』という、【封印指定・ランダムガチャチート】を手配いたしました。これなら、あなたのチートのご要望にお応えしつつ、天界のエネルギー保存の法則にも違反しません」
「ターンッ!」 最後の一際大きなスタンプが押された。
ルシアンはその光り輝く転生許可証を手に取り、足がしびれて感覚がなくなった俺の目の前まで歩いてきて、書類をスッと差し出した。
全てのクレーム、大混乱、無能な上司、パニックに陥った新人……そのすべてを、彼が部屋に入ってからのわずか5分間で、極めて鮮やかに、そして徹底的に制圧してしまったのだ。
ルシアンは床に正座する俺を見下ろし、この世のすべての罪を浄化できそうな、さわやかさ200%のパーフェクトな笑顔を咲かせた。
「これにて、転生手続きはすべて完了いたしました。佐藤さんの異世界での旅が、驚きと挑戦に満ちた素晴らしいものになりますよう、心よりお祈り申し上げます」
読まなくても全く問題ない裏設定
リリアは今日この日まで、ルシアンのことをけっこう密かに尊敬していた。
しかし、「ミスター・パーフェクト」と呼ばれている彼も、バケモノぞろいの『本部』に放り込まれれば、せいぜい中くらいのレベルの神様にすぎない。
なので、先ほどのリリアの脳内での彼への大絶賛は、ちょっとだけ盛りすぎである。
純粋な仕事の処理能力だけで比べると、実はレジス主任が一万歳だった頃の全盛期には、まだまだ一歩およばないのだ。
ちなみに。
あと二万年も働けば、あの超絶イケメンなルシアンのルックスも……今のレジス主任(ぽっちゃり&ハゲかけのオジサン神様)とまったく同じ姿になる予定である。




