指先の代償
吹雪が止んだ。
静かになったのではない。青白い光が四方を囲み、風そのものが眷属の気配に押し潰されたのだ。光点が一つずつ形を成していく。氷の狼。氷の猪。氷の鴉。透き通った身体の内側から冷たい光を放つ獣たちが、雪原の闇から次々と姿を現した。
十を超えていた。なお増える。雪原の四方から、青白い輪郭が次々と浮かび上がってくる。
村を襲った獣より動きが速い。体躯も大きい。氷の関節が軋むたびに硝子の砕ける音が鳴り、口腔から吐き出される冷気が白い靄となって地面を這った。靄が足元に触れると、靴の先が一瞬で白く凍りついた。金属的な叫びが重なり合い、夜の荒野に不協和音のように反響する。空気の温度が、眷属が一体増えるごとに下がっていくのがわかった。
ズラータが動いた。
地面に手を叩きつける。轟音とともに大地が隆起し、二人の周囲に防壁が築かれた。高さは腰ほど──完全な壁ではなく、視界を確保しつつ突進を防ぐ構造だった。土と石が凍った地表を突き破り、弧を描いて二人を囲む。壁の表面には大地の力の余韻が残り、茶褐色の淡い光が石の目に沿って脈打っていた。
巫女の戦闘経験が見える、冷静な判断だった。この状況でこの速さで防壁を築けるのは、戦い慣れていなければ不可能だ。ラスラフは改めて、この巫女がただの案内役ではないことを悟った。
最初の衝撃は、即座に来た。
氷の狼が防壁に激突する。透明な身体がぶつかる衝撃で防壁が軋み、土の表面に亀裂が走った。続けて猪が突進する。氷の牙が防壁を抉り、破片が飛び散る。ズラータの額に汗が浮かんでいた。極寒の中で。両手を地面に押しつけ、防壁の維持に集中している。
ラスラフは力を出そうとした。
右手の痣が脈打っている。力がある。それはわかる。身体の内側で、あの嵐が荒れ狂っている。胸の奥に熱い塊があり、腕を通って指先に向かおうとしている。だが意図的に引き出そうとすると、力は掌の手前で霧散した。水を掬おうとして指の間からこぼれるように、掴みかけた瞬間に散る。村の戦いのときは感情の爆発で無意識に発現した。今は違う。出そうとして、出せない。
拳を握る。歯を食いしばる。何も起きない。痣だけが脈打ち続け、熱だけが腕を灼く。焦りが胸を灼いた。使えないのか。この力は、自分のものではないのか。
防壁が軋む。亀裂が蜘蛛の巣のように広がる。ズラータの息が荒い。眷属が次々に体当たりを繰り返し、弧状の壁の至るところに亀裂が広がっていく。
一体が、防壁を越えた。
氷の狼が壁の低い箇所を飛び越え、音もなくラスラフの目の前に着地した。透明な牙が剥かれ、冷気の靄が吹きつける。爪が振り下ろされた。
咄嗟に左腕で庇う。氷の爪が外套を裂き、肌を掠めた。熱い。痛みではなく、灼けるような冷たさが傷口から血管を辿って腕全体に広がった。赤い線が雪の上に散る。自分の血が、白い雪の上で鮮やかに映えていた。
恐怖が、胸の底で弾けた。死にたくない。死なせたくない。
痣が白く灼けた。
光が溢れた。視界が白く焼ける。制御のきかない、圧倒的な奔流。蒼白い紋様が右手の甲から腕へ、腕から肩へと一息に広がり、ラスラフの身体から雷撃が放たれた。
空が割れた。
一条の落雷が目の前の狼を貫き、氷の身体が内側から砕け散る。だがそれで終わらなかった。雷撃は連鎖した。腕から放たれた蒼白い光が枝分かれし、次の眷属を、さらに次の眷属を薙ぎ払っていく。雷鳴が連続し、耳が聞こえなくなるほどの轟音が荒野を震わせた。
天から降り注ぐ稲妻が平原に炸裂し、氷の獣たちが次々に砕ける。氷片が飛散し、青白い光が消えていく。焦げた氷の匂いが鼻腔を突き、空気が焼け焦げた金属の味を帯びた。圧倒的だった。自分の身体から放たれた力の大きさに、ラスラフ自身が恐怖を覚えた。
だが──制御が、なかった。
雷撃の余波がズラータの防壁を直撃した。地面が裂け、防壁の一部が轟音とともに崩れ落ちる。ズラータの身体が吹き飛ばされかけ、地面に手を突いて辛うじて踏みとどまった。
味方を巻き込んでいる。自分の力が、守るべき相手を傷つけている。
暴発の最中、ラスラフは奇妙な感覚を覚えた。ほんの一瞬──自分の意志ではない何かが、力の方向を微かに「導いた」感覚。まるで見えない手が雷の先端を逸らしたような。だがその感覚は暴発の混乱の中でたちまち掻き消え、把握することすらできなかった。
「ラスラフ!」
声が、暴風の中を貫いた。
名前だった。ズラータが初めてラスラフの名前を呼んでいた。感情を排した報告口調ではない。叫びだった。声が耳の奥に突き刺さり、暴走する力の渦の中に、一本の糸のように届いた。その一声がラスラフの意識を引き戻し、暴発が揺らいだ。意識が戻ってくる。自分がどこにいるのか、何をしていたのか。目の端で、ズラータが地面に手をつき、こちらを見上げていた。金色の髪が乱れ、頬に土がついている。
視界が戻る。荒野に眷属の残骸が散らばっている。だがまだ生き残りがいた。防壁の外で態勢を立て直した数体が、再び迫ってくる。
ズラータが両手を地面に突き、力を振り絞った。地面が隆起し、残りの眷属の足元を突き上げる。氷の獣たちの動きが止まった。土と石が脚を絡め取り、一瞬だけ身動きを封じている。
「今──撃て!」
ラスラフは右手を突き出した。今度は違った。暴発ではない。動きを封じられた眷属に向けて、一点に意識を集中する。不完全だった。狙いは甘く、力の流れは粗い。だが指向性があった。養父の声が頭の隅で響いた。力の通り道を作るんだ。通り道。腕を走る力に、ほんの僅かだけ方向を与える。
雷撃が走った。
一点集中の蒼白い光が、残りの眷属を打ち砕く。氷が割れる音が連鎖し、最後の一体が内側から砕け散ったとき、やがて静寂が戻った。耳鳴りだけが頭の中で金属音のように鳴り続けていた。
荒野に眷属の残骸が散らばっていた。溶けかけた氷片が雪の上で水に還り、青白い光を失っていく。焦げた跡が雪面に黒い模様を刻み、雷の落ちた場所だけ雪が蒸発して地肌が剥き出しになっていた。
二人とも、立っているのがやっとだった。ズラータが膝をつき、荒い息を吐いている。ラスラフも腕が重く、視界の端が暗い。力を放った後の脱力が、全身から気力を奪っていた。
不安定だった。危うく、脆い連携だった。だが──噛み合った瞬間があった。ズラータの大地の力が眷属の動きを封じ、ラスラフの雷撃がそれを仕留めた。偶然に近い。だが二つの力が、確かに連動した。嵐と大地。暴発と制御。違うものが噛み合ったとき、一人では成し得ない結果が生まれた。
ラスラフは荒い息の中で右手を見下ろした。痣の光が薄れていく。腕が重い。全身から力が抜け、膝が震えていた。指を握る。開く。握る。開く。
動きはする。
だが──何かがおかしい。指先が、遠い。まるで厚い手袋をしているように、触れているものの感触が伝わってこない。さっきまで感じていた寒さすら、指先だけが拾えなくなっている。
ズラータが振り返った。息を整えながら、ラスラフの手元を見ている。巫女の目は鋭かった。何かに気づいている目だった。
「……手が、どうかした?」




