氷牙の群れ
槌音が、聞こえる気がした。
遠い記憶の底から、鉄を打つ音が響いてくる。規則正しく、重く、確かな音。世界中の音が凍りついた荒野にあって、その記憶だけが温度を持っていた。
鍛冶場の薄闇。炭が爆ぜ、鉄の匂いが肺を満たす。煤と汗の混じった空気が重く淀み、炉の赤い光だけが闇を押し返している。十二の年の記憶だった。初めて鉄を打たせてもらった日。養父ボジダルが渡した槌は、少年の手には重すぎた。
振り上げる。狙った場所に打ち下ろす。赤く灼けた鉄が火花を散らし、外れた。鉄床の端を叩き、手首に痺れが走る。ボジダルは何も言わなかった。ただ黙って手本を見せた。同じ動作を、何度でも。
振り上げる。打ち下ろす。少しだけ近い。また外れる。鉄床に当たった衝撃が手首から肘まで走り、腕全体が痺れた。手のひらの皮が破れ、肉刺が潰れて血が滲んだ。柄が血で滑る。構わず打つ。打つしかなかった。養父の前で弱音を吐くわけにはいかなかった。
何度目かの失敗の後──いくつ打ち損じたか数える気力も失せた頃──ボジダルが手を止めさせた。太い腕がラスラフの槌を押さえ、静かに言った。
「鉄を打つのは怒りじゃない。形を与えることだ」
ラスラフは意味がわからなかった。怒ってなどいない、と思った。だが養父は見抜いていた。村への苛立ち。痣への苛立ち。自分への苛立ち。それらすべてを槌に込めて、鉄を殴っていた。
「怒りで打てば鉄は歪む。力を込めるんじゃない。力の通り道を作るんだ」
養父の声は低く、穏やかだった。怒りも失望もない。ただ事実を告げるように。炉の火が養父の顔を照らし、深い皺の一本一本に赤い光が溜まっていた。この人は、何度この言葉を鉄に語りかけてきたのだろう。ラスラフは槌を握り直した。力を込めるのではなく、通り道を作る。意味はよくわからなかった。だが養父の手本を見ると、確かにそう見えた。力で鉄をねじ伏せるのではなく、鉄の中にある形を、槌で引き出している。槌が鉄に触れる音が変わった。硬い衝突音ではなく、柔らかく沈み込むような響き。ラスラフには真似できなかった。だが覚えた。その音を、身体の奥に。
帰り道、村の灯りが近づいてきた。炉の火を落とした鍛冶場の中は暗く、鉄の冷えていく匂いだけが残っていた。並んで歩きながら、ラスラフが口を開きかけた。
「……母さんのことは」
ボジダルの足が一瞬止まった。大きな背中が強張った。目が逸れた。ほんの一瞬。養父の横顔に走った影を、ラスラフは見てしまった。痛みだった。怒りでも拒絶でもない。何かを呑み込むような、古い痛み。それから養父は何も言わず歩き出し、ラスラフもそれ以上は訊けなかった。訊いてはいけないのだと、そのとき初めて悟った。
鍛冶場の灯りが、記憶の中で遠ざかっていく。炭の残り火のように、ゆっくりと。
風が、顔を叩いた。
ラスラフは回想から引き戻された。鍛冶場の温もりが一瞬で消え、身体が現実の寒さに突き戻される。眼前に広がるのは白い壁だった。吹雪が荒野を覆い尽くし、視界は数歩先までしか利かない。風が暴力的な勢いで雪を巻き上げ、肌に叩きつけてくる。顔が痛い。睫毛に氷が張りつき、瞬きのたびに引きつる。外套の隙間から入り込む雪が首筋を這い、溶けて冷たい筋となって背中を伝った。
森を抜けた先の荒野は、風を遮るものが何一つなかった。
ズラータが前を歩いている。小柄な身体が吹雪に揉まれ、外套の裾が風に千切れそうに翻る。彼女は弱音を吐かなかった。だが足取りが乱れ始めていた。一歩ごとに僅かに体が傾き、膝が雪に沈む深さが増している。
ラスラフは言葉を探す前に、身体が動いていた。無言でズラータの風上に回った。
身体で風を遮りながら歩く。言葉はなかった。不器用だった。だがそうすることしか思いつかなかった。鍛冶で広がった肩幅が、少しだけ風を遮る壁になる。ズラータは何も言わず、ラスラフの背中の影に入った。礼も言わなかった。だがその沈黙は拒絶ではなかった。受け入れの沈黙だった。
風の咆哮が会話を許さなかった。耳元で唸る風の音だけが世界のすべてで、二人は黙々と雪原を進んだ。足が雪に沈み、引き抜き、また沈む。その繰り返しだけが時間の尺度だった。何歩歩いたかもわからない。景色が変わらないせいで、前に進んでいるのかすら確信が持てなかった。
頭の中で、養父の声が反復していた。
力の通り道を作るんだ。
意味はまだわからなかった。鍛冶の教えだ。鉄と槌の話だ。だがあの言葉が、凍りついた記憶の底から浮かび上がり、吹雪の中を歩く身体に沁みるように響いていた。怒りで打てば鉄は歪む。力を込めるのではなく、通り道を。
いつか、その言葉の意味がわかるときが来るのだろうか。右手の指先が痺れている。いや、痺れではない。何も感じないのだ。雪を掴んでも、外套の布に触れても、指先だけが世界の外にいる。そのことを、ラスラフは吹雪の中で噛み締めていた。
風向きが変わった。
唐突に、吹雪の質が変わった。それまで一方向から叩きつけていた風が四方から交互に吹き始め、雪が渦を巻くように舞い上がる。気温がさらに下がった。鼻腔の奥で空気が凍りつくような、針を刺されるような痛みが走る。
自然の嵐ではなかった。風の中に意志がある。何かがこの吹雪を操り、二人を包囲するように動かしている。
ズラータが足を止めた。膝をつき、手袋を外して素手を地面に触れる。大地の力で何かを感知している。目が閉じられ、眉間に深い皺が刻まれた。
数秒の沈黙。その間に風が一段と強まり、ラスラフの外套の裾を引き千切ろうとするように煽った。
ズラータが目を開けた。その顔から、血の気が引いていた。唇が白く、緑の瞳の奥に恐怖とは違う、もっと深い警戒の色が浮かんでいた。
「眷属だ。群れで来る」
声は低く、抑えられていた。だが声の底に、これまでになかった緊張が張り詰めている。
「今までとは数が違う。地面の下を──無数に移動している」
ラスラフは周囲を見回した。荒野にはどこまでも遮蔽物がない。岩も、木も、身を隠せるものが何もない。白い平原が四方に広がり、吹雪だけがすべてを覆っている。裸の大地の上に立つ二人の姿が、どれほど無防備に見えるか。獣の側から見れば、雪原に立つ二本の棒に等しいだろう。
ズラータの表情が引き締まった。唇が引き結ばれ、緑の瞳に計算の光が走った。
「ここは開けすぎている。防御が取れない」
二人は身を隠せる場所を探した。だが荒野は荒野だった。足元の雪と、空の灰色と、吹きすさぶ風。それだけだった。逃げ場はなかった。
吹雪の中に、青白い光が灯り始めた。
一つ、二つではない。視界の端から端まで、無数の光点が揺れている。眷属の群れだ。今までで最大の数。光の一つ一つが氷の獣の内側から発せられる冷たい輝きで、雪の白とは明らかに異質な青さだった。風の向こうから、金属を引き裂くような甲高い叫びが幾重にも重なって聞こえてくる。空気が一段と冷え込んだ。吸い込む息が喉の奥で凍り、咳き込みそうになった。
ズラータが低い声で言った。その声は風に掻き消されかけたが、ラスラフの耳には届いた。
「来る」




