養父の言葉
森の奥で、大きなものが動いていた。
ラスラフは足を止めた。氷結した枝の向こう、木々の隙間に影が揺れている。ズラータが片手を上げ、無言で静止を促した。二人の呼吸が白く凍り、音もなく闇に溶ける。
それは獣だった。
狼だ。だが通常の狼ではない。体長が倍以上ある巨躯に、凍りついた毛皮が鎧のように纏わりついていた。氷の結晶が背の毛に沿って連なり、動くたびに硝子を擦るような音が鳴る。青白い光はない。眷属のような冷たい輝きではなく、獣の体温が凍結した白い息だけが口元から立ち昇っている。
凍狼。永冬が変質させた、自然の獣だった。
冷たい毛皮と凍った血の匂いが、風下から微かに届いた。ラスラフの鼻腔を刺す、生々しい獣臭。鉄錆に似た匂いの中に、凍った肉の甘ったるい腐臭が混じっている。何かを食い散らかした直後なのだろう。氷を踏む重い足音が森に響き、もう一体、さらにもう一体が木々の間を縫って現れた。群れだった。
ズラータが囁いた。
「あれはマルジャンナの眷属ではない。ただの獣だ。殺す理由がない」
それは冷静な判断だった。ラスラフの力を使えば倒せるかもしれない。だが力を振るうたびに指先の感覚が遠ざかっていく。無駄に代償を進行させるわけにはいかなかった。
ズラータが静かに膝をつき、地面に掌を触れた。大地の力が足裏を通じてラスラフにも伝わってくる──微かな振動。凍狼たちの位置が、地面を伝う足音として読み取れるのだろう。ズラータの目が薄く閉じられ、眉の間に集中の皺が刻まれた。
「風下に回る。ついてきて」
二人は身を低くし、凍狼の気配を避けながら森の外縁へと迂回した。雪を踏む音を殺し、呼吸すら浅くする。ラスラフの心臓が耳の奥で打っていた。自分の鼓動が獣に聞こえるのではないかと思うほど、静寂の中でそれは大きかった。凍狼の息遣いが木々の向こうで重く響くたびに足を止め、ズラータの指示を待つ。一歩が果てしなく長い。氷の枝の下をくぐるとき、外套の裾が枝に触れた。硝子のような音が微かに鳴り、全身が凍りついた。凍狼がこちらを向いた気配。呼吸が止まる。数秒。獣は向きを変え、森の奥へと歩み去った。長い、長い迂回だった。
やがて森が途切れた。
開けた岩場が広がり、頭上に灰色の空が戻ってきた。森の闇から抜け出した瞬間、ラスラフは張り詰めていた肩の力を抜いた。膝が笑い、足の裏が脈打つように熱かった。ズラータも小さく息を吐いた。額に張りついた髪を掻き上げる仕草に、疲労が滲んでいた。
岩場の窪みに身を寄せ、夜営の支度を始めた。ズラータが大地の力で岩を温める。ラスラフは荒野で拾い集めた枯れ枝──凍った灌木の残骸を岩の上に組み、火打石を打った。何度か失敗し、やがて細い煙が立ち昇る。小さな炎が枝に移り、橙色の光が二人の顔を照らした。
旅に出てから、初めてのまともな焚き火だった。
炎の温もりが手のひらに届く。凍えた指が解けるように痛み、それから鈍い熱を感じ始めた。火の色が目に沁みた。橙と赤が揺らぎ、氷と雪しかない世界に初めて温かい色が灯っている。鍛冶場の炉を思い出した。炭が爆ぜる匂いが似ていて、胸の奥がぎゅっと縮んだ。右手は──指先だけが、相変わらず何も感じなかった。炎のすぐ傍に手をかざしても、指先には温もりが届かない。手首から先は確かに熱を感じているのに、指の先端だけが別の世界にいるようだった。ラスラフはそっと右手を膝の上に伏せた。
焚き火の音だけが岩場に響いていた。薪が爆ぜ、火の粉が闇に散る。煙の匂いが鼻腔を満たす。岩壁に二人の影が大きく揺れていた。ズラータの影は小さく、ラスラフの影はそれよりも大きい。村を出てから初めて、自分と誰かが同じ場所にいる光景を外から見た気がした。
「……俺の痣のことだが」
自分でも驚いた。口が勝手に動いていた。ズラータが炎越しにこちらを見る。深い緑色の瞳に、焚き火の橙が揺れている。
「物心ついたときからあった。村では嵐の呪いと呼ばれた」
言葉が短く、途切れ途切れに出る。誰かにこの話をするのは初めてだった。言い方がわからない。
「子どもの頃は、自分でも気持ち悪かった。腕を布で巻いて、隠していた」
焚き火が爆ぜた。沈黙が落ちる。
「養父だけが、呪いじゃないと言った。だが……信じられなかった。村の全員が、あれは災いだと言っていた。養父の声より、そっちのほうが大きかった」
十七年分の孤立を、短い言葉の連なりで語った。饒舌とは程遠い。言葉と言葉の間に長い沈黙が挟まり、自分でも何を言おうとしているのかわからなくなることがあった。だが口を開いてしまえば、止められなかった。胸の底に澱んでいたものが、ぽつりぽつりと溢れ出していた。声が震えかけて、慌てて呑み込んだ。
ズラータは黙って聞いていた。口を挟まず、頷きもせず、ただ焚き火の向こうからまっすぐに目を向けていた。
ラスラフが話し終えた後、長い沈黙があった。薪が爆ぜる音だけが、何度か繰り返された。炎が揺れ、二人の影が岩壁に大きく伸びた。
「見せて」
ズラータが言った。焚き火の向こうから差し出された言葉は、命令ではなかった。依頼ですらなかった。ただ静かな声だった。
ラスラフは一瞬ためらった。十七年間、誰にも見せまいとしてきたものだ。布で巻き、袖で隠し、村人の目に触れないようにしてきた。だがズラータの緑の瞳に拒絶の色はなかった。それから右腕の布を解いた。蒼白い樹枝状の紋様が、焚き火の明かりの中に浮かび上がる。稲妻の形をした痣が、手の甲から腕にかけて走っている。
ズラータが手を差し伸べた。だが触れなかった。痣の数寸上に手を翳し、目を閉じる。焚き火の光がズラータの細い指を透かし、影が痣の上に落ちた。大地の力を通じて、痣に流れる力の脈動を感じ取ろうとしている。
触れてはいない。だが翳された手から、微かな温もりが痣の表面に降りてくるのをラスラフは感じた。
ズラータの目が僅かに見開かれた。それは、この旅で初めて見る巫女の驚きの表情だった。
「……脈打っている」
その声には、初めて驚きの色が滲んでいた。
「痣の中に力の流れがある。死んだ呪いの痕ではない。脈を打っている。これは──生きている」
ズラータが手を下ろし、ラスラフの目をまっすぐに見た。焚き火の光に照らされた顔に、巫女の確信があった。
「これは呪いではない。力だ」
短い言葉だった。だがその一言が、十七年間ラスラフの上に積もり続けた雪を、根元から揺るがした。
養父は「呪いじゃない」と否定してくれた。だがそれが何であるかは言えなかった。ズラータは巫女の知識で、初めて痣に名前を与えた。呪いではなく、力。
ラスラフは言葉を返せなかった。喉の奥が詰まり、何を言えばいいのかわからなかった。目が熱い。泣くわけにはいかなかった。泣いたことなどない。泣き方を知らない。だが胸の奥で何かが緩んだ。凍りついていたものが、焚き火の熱で溶け始めるように。ゆっくりと、確かに。
ズラータが手を引いた後も、痣は微かに脈動していた。焚き火が爆ぜ、火の粉が闇に舞い上がった。ラスラフは右腕を見つめた。稲妻の形をした紋様が、焚き火の明かりの中で、確かに──動いていた。




