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雷神の忌み子 ~五感を代償に、少年は永遠の冬を終わらせる~  作者: 蒼月よる


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夜営の火

 荒野が途切れ、森が始まった。


 だがそれは、ラスラフが知る森ではなかった。


 木々が氷の柱と化していた。幹から枝の先端まで、透明な氷が隙間なく覆い、冬の薄い光を受けて鈍く輝いている。枝についた葉は氷結して結晶と化し、風が吹くたびに硝子を擦り合わせるような高い音を立てた。凍った花が枝に張りついている。開きかけた蕾のまま、三百年。色を残したまま氷に閉じ込められた花弁が、透明な殻の中で眠っていた。薄い紅色だった。永冬の灰色の世界で、色というものを見たのは初めてだった。


 ラスラフは足を止めた。


 村の周囲の森は、樹氷に覆われた灰色の世界だった。だがここは違う。ここには凍る前の世界がそのまま封じ込められている。木々の下に落ち葉が氷結して散らばり、幹の根元には苔の痕跡が透明な膜に包まれて残っていた。根元の土が奇妙に黒ずんでいた。氷の下で変色した土が、病痕のように木の根に沿って広がっている。だが氷に覆われた光景に目を奪われ、気に留める余裕はなかった。


 森の奥に進むと、滝があった。


 崖から落ちる水が、流れ落ちる途中の姿のまま凍りついていた。水しぶきが氷の粒となって宙に固定され、光を受けて無数の光点を散らしている。滝壷には波紋が氷結し、水面が最後に揺れた瞬間の形をそのまま残していた。


 その中に、鳥がいた。


 翼を広げた姿のまま、氷に閉じ込められていた。飛び立とうとした瞬間を凍結されたのだろう。羽根の一枚一枚が氷を通して見え、小さな嘴が開きかけている。三百年前、この鳥は空へ向かおうとしていた。永冬がすべてを止めるまで。


「……まだ生きている」


 ズラータの声だった。巫女は木の幹に手を触れ、目を閉じていた。指先から巫女の力が伝わっているのか、掌の下の氷がかすかに曇る。


「木が生きている。氷の下で、かろうじて。死んではいない。止まっているだけだ」


 永冬は死ではなく凍結だった。この世界は滅びたのではない。三百年前の姿のまま、氷に閉じ込められている。生命の時間だけが奪われ、存在はそのまま残されている。


 風が氷の枝を揺らし、森全体が硝子の鈴を鳴らすように響いた。その音は高く、透き通り、どこか哀しかった。三百年前の風がそのまま残っているかのような、時間の止まった音色だった。



 森の中の開けた場所で、ズラータが立ち止まった。


「嵐の力を使う練習をする」


 前置きのない宣言だった。ラスラフが答える前に、ズラータは続けた。


「眷属はまだ追っている。次に来たとき、私の力だけでは足りない。おまえが使えるようにならなければ、死ぬ」


 巫女の判断は冷静だった。感情ではなく、生存のための計算だった。


 ラスラフは頷いた。力を制御したいという欲求は、村を出た日から消えていなかった。あの夜、雷を落としたとき、力は勝手に溢れ出した。制御などなかった。ただ衝動があり、空が応えた。それだけだった。


「指先に集中しろ。腕全体ではなく、指の先だけに電気を走らせる。小さく、正確に」


 ズラータの指示に従い、ラスラフは右手を前に伸ばした。痣が微かに熱を帯びる。意識を指先に集めた。嵐の力が身体の奥で蠢く気配がある。それを掌に導き、指先だけに通す。


 集中した。呼吸を止め、意識を右手の先端に絞り込む。痣の奥で力が蠢いている。荒々しく、熱い。炉の中の火種に似ていた。だが鉄を打つときのように狙いを定めることができない。


 力が応えた──だが、ラスラフの意図とは違う形で。


 指先ではなく、腕全体から蒼白い電光が弾けた。放電が空気を裂き、数歩先の氷に覆われた枝を直撃した。硝子のような音を立てて枝が砕け散り、氷の破片が四方に飛ぶ。焦げた匂いと、冷たい粉塵が顔を打った。


 次の瞬間、足元が固まった。


 ズラータが地面に手をついていた。大地の力が足元から広がり、放電を地面に逃がしている。腕を走り回っていた電気が掌を伝い、足裏から地面へ吸い込まれていく。痺れが急速に引いた。


「感情で振り回されるな」


 ズラータの声は静かだった。叱責ではなかった。だが甘さもなかった。


「力は意志で動かすものだ。感情で振り回されれば、いつまでも暴発する。怒りに応えさせるな。おまえの意志で、動かせ」


 二つの力の差が、今はっきりと見えた。嵐は爆発的で、一瞬で空間を引き裂く。だが制御を失えばすべてを壊す。大地は穏やかで遅い。だが確実に地面を掴み、力の流れを正す。蒼白い雷光と、足元に広がる茶褐色の淡い光。嵐と大地。破壊と制御。


 ラスラフは息を吐いた。右腕がまだ痺れている。砕けた氷の枝が地面に散らばり、三百年を耐えた氷結の美しさが瓦礫に変わっていた。


「すまない」


「謝る暇があれば、もう一度やれ」


 ズラータの返答は容赦がなかった。だがその声の中に、ラスラフを見限る気配はなかった。自分の力について具体的に語ってくれる相手は、これが初めてだった。白狼は「時が来れば」とはぐらかし、ボジダルは力のことを知らなかった。ズラータだけが「どうすればいい」を教えようとしている。


 もう一度、指先に意識を集めた。力が暴れる。抑える。また暴れる。何度試みても、指先だけに留めることができなかった。



 練習を切り上げたのは、ズラータの判断だった。


「今日はここまでだ。消耗しすぎれば動けなくなる」


 凍った滝の前まで戻り、氷の壁を背に腰を下ろした。滝の落ちる音はない。三百年前に止まった水は、沈黙したまま壁となってそびえている。風の音だけが森を渡り、氷の枝を鳴らしていく。滝の音がない。そのことが、奇妙なほど耳についた。


 氷の中の鳥が、目の前にあった。


 翼を広げたまま閉じ込められた小さな身体。空を目指した最後の瞬間が、透明な棺に封じられている。ラスラフはその鳥をしばらく見つめていた。


「……この世界は、かつてこんなふうだったのか」


 呟きだった。問いかけではなく、自分に向けた言葉だった。花が咲き、鳥が飛び、滝が音を立てて落ちる世界。村しか知らなかったラスラフには、想像することすら難しい。永冬しか知らない。雪と氷と灰色の空しか見たことがない。だがここには、冬の前の世界がある。凍結され、止められ、それでも確かに残っている。


「滝の音を聴いたことがある人間は、もう誰もいない」


 ズラータが静かに言った。三百年。この冬が始まってから、三百年が過ぎている。滝が流れていた時代を知る者は、人の世には一人も残っていない。記憶すら凍結されている。


 ラスラフは凍った鳥に手を伸ばしかけた。


 指先が氷の表面に触れる寸前で、止めた。


 触れてもわからない。この指先には、もう感覚がない。氷の冷たさも、鳥の羽根の柔らかさも、指先は何も伝えてくれない。伸ばした手をゆっくり引いた。拳を握り、膝の上に置いた。


 冬を終わらせる。白狼はそう言った。ズラータは使命だと言った。だがラスラフにとって、それはまだ誰かに告げられた言葉でしかなかった。自分の言葉ではなかった。


 凍った鳥を見つめた。翼を広げたまま止まった姿。空を目指して、届かなかった最後の一瞬。


 この景色を、取り戻したい。


 それは使命ではなかった。理屈でもなかった。ただ、凍った翼を見て、そう思った。滝が流れ、鳥が飛ぶ世界を。誰の命でもなく、自分がそう望んだ。初めてだった。


 口には出さなかった。言葉にするには、まだ早すぎる気がした。


 森の奥から、何かが動いた。


 眷属ではなかった。もっと大きい。木々が震え、氷が軋む音が森全体に反響した。硝子の鈴が一斉に鳴り、凍った枝から氷片が降り注ぐ。地面が微かに振動していた。


 ラスラフとズラータは顔を見合わせた。巫女の緑の瞳に、初めて警戒以外の色が浮かんでいた。


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