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雷神の忌み子 ~五感を代償に、少年は永遠の冬を終わらせる~  作者: 蒼月よる


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拡がる器

 ヴェレスの右手がラスラフの胸に触れた。


 冷たくはなかった。だが温かくもなかった。人の手の温度ではない何かが、長衣の上から胸骨の中心を押していた。長い指だった。白銀の髪と同じように白い指。人の指にしては長すぎる。神の手だ。嵐の痣が脈動した。痣だけではなく、胸の奥──力の根がある場所が、ヴェレスの手に呼応するように震えた。ペルンの力と、ヴェレスの力。対の関係にある二つの力が、ラスラフの胸骨の上で出会おうとしている。


「力を流し込む。抵抗するな。受け入れろ」


 ヴェレスの声は低く、明瞭だった。修練場の中央で、二人が向き合っている。ズラータとドモヴォイは修練場の縁で見守っていた。ドモヴォイが不安そうに髭を撫で、ズラータが紡錘を握り締めている。


 力が来た。


 ヴェレスの手から、異質な力がラスラフの胸に流れ込んできた。嵐の力ではなかった。もっと古く、もっと深い。地下世界の力。蛇神の力。冷たい水が胸の中を満たしていくような感覚。だがその水は温度を持たず、重さを持たず、ただ「圧」として広がっていく。水でもなく風でもなく、存在の密度そのものが胸の中で増していく。


 胸が軋んだ。


 痛みだった。感覚のない右腕ではなく、まだ感覚のある胸の中心が、内側から押し広げられる痛みを訴えた。力が器の壁を押している。壁は硬い。押しても押しても動かない。自分の身体の限界が壁になっている。ペルンの力を受け入れるための器。その器の壁が、ヴェレスの力に押されて軋んでいる。


 だがヴェレスの力は止まらなかった。じわりと、間断なく、壁を押し続ける。水が岩の割れ目に染み込むように、力が器の壁に染み入っていく。


 ラスラフは歯を食いしばった。全身に汗が吹き出す。嵐の痣が激しく明滅し、蒼白い光が修練場に脈打つ影を落とした。痣の奥にある嵐の力が、ヴェレスの力に反応して暴れている。受け入れろとヴェレスは言った。抵抗するな。だが体が勝手に拒もうとする。異質な力を押し入れられれば、本能が抵抗する。炉に手を入れろと言われて入れられるか。入れられるとしたら、それは本能を意志で上書きしたときだ。


「抗うな。壁を感じろ。壁の向こうに、おまえの力がまだ眠っている」


 ヴェレスの声が遠くに聞こえた。痛みの向こうから。ラスラフは痛みを噛み殺し、意識を内側に向けた。壁。力の器の壁。確かにそこにあった。自分の力の限界を示す、見えない境界線。その壁の向こう側に、微かな気配がある。まだ眠っている力の残滓。嵐の力の、まだ目覚めていない部分。触れられそうで触れられない。壁一枚の向こうに、力が水脈のように流れている。


 壁が軋んだ。


 ヴェレスの力が押し、ラスラフの嵐の力が内側から呼応し、二つの力が壁を両側から挟み込んだ。壁にひびが入る感覚。実際にひびが入っているわけではない。だが器の限界が僅かに押し広げられた実感があった。壁が一歩だけ後退した。ほんの一歩。だが確かな一歩。


 力が増えた。


 胸の奥で、嵐の力の総量が微かに増していた。壁の隙間から、眠っていた力が滲み出してきている。細い水流のように、壁のひびを通って器の内側に新しい力が流れ込んでくる。指先に稲光が散り、修練場の空気が帯電した。髪が逆立ち、肌がぴりぴりと痺れる。


 ヴェレスが手を引いた。


「今日はここまでだ」


 ラスラフは膝をついた。荒い呼吸。全身の筋肉が震えている。汗が顎から滴り、岩盤の上に小さな染みを作った。だが痛みの余韻の向こうに、確かな手応えがあった。体の内側が広がった感覚。昨日までの自分よりも、ほんの僅かだが、力を受け入れる容量が増えている。器が一回り大きくなった。



 ヴェレスが修練場の石柱に背を預け、腕を組んだ。


「眠っている残りの力を目覚めさせるには、器そのものを鍛える必要がある。これを繰り返す」


 理路整然とした説明だった。力の流し込み。壁の押し広げ。それを繰り返すことで、ラスラフの身体が受け入れられる力の量を段階的に増やしていく。表面上は正当な修練に見える。ペルンの力を十全に引き出すための、論理的な段階。


「毎日やるのか」


「毎日ではない。器の壁は押し広げた後、定着するまで時間がかかる。二日に一度が限界だ。それ以上やれば器が壊れる。壊れた器は二度と直らん」


 ラスラフは頷いた。ヴェレスの説明に論理的な矛盾はなかった。力の器を広げるために、外部から力を流し込む。無理をすれば壊れる。だから段階的に。鍛冶で鉄を鍛えるのと同じだ。急激に冷やせば割れる。ゆっくりと、何度も繰り返して。理にかなっている。


「この修練で、マルジャンナの先兵と渡り合えるようになるのか」


「なる。だが時間がかかる。焦るな」


 ヴェレスの声は落ち着いていた。低い声が修練場に反響し、岩壁に吸い込まれていく。ラスラフにはそれが信頼に足る声に聞こえた。ヴェレスの教えは正しかった。方向制御も出力調整もすべて理にかなっていた。この「器の拡張」も同じだろう。


 ヴェレスの琥珀色の目がラスラフを見ている。その目に何が映っているのか、ラスラフには見えなかった。師が弟子を見る目。導き手が道を示す目。その目の奥で何が計算されているのか。ラスラフはそこまで読む力を持たなかった。



 修練場の縁で、ズラータが紡錘を握り締めていた。


 ヴェレスの力がラスラフの胸に流れ込む光景を、最初から最後まで見ていた。ラスラフが苦痛に顔を歪め、歯を食いしばり、膝をつく。嵐の痣が明滅し、帯電した空気が修練場に満ちる。ヴェレスの手がラスラフの胸に置かれ、異質な力が流れ込んでいく。


 だが修練が終わった後の表情には──苦痛ではなく、充実があった。


「確かに、中が広くなった感覚がある。力の容量が増えた。壁の向こうにあった力が、少しだけ手の届くところに来た」


 修練後にラスラフが言った。疲弊した顔。汗が乾いた頬。だがその顔に浮かぶ充実感が、ズラータの言葉を飲み込ませた。


 心配だった。ヴェレスの力をラスラフの身体に直接流し込むという修練。それが正しいことなのか。ラスラフの身体に何が起きているのか。ヴェレスの力──蛇神の力が、雷神の落とし子の体に流れ込む。対の関係にある二つの力が、人間の身体の中で交わる。それは本来起きるべきことなのか。巫女の力が衰えつつある今、ズラータにはそれを確かめる手段がなかった。モコシュの声が聴こえていれば、神託がこの疑念に答えをくれただろう。だが声は遠のいたままだった。


 ラスラフの表情を見た。充実がある。手応えがある。強くなっている実感がある。その顔を見て、心配の言葉を口にする気持ちが萎んだ。彼が強くなることを望んでいる。それを止める権利が自分にあるのかと問えば、答えは否だった。


 ズラータの視線がヴェレスに向いた。黒い長衣の男が修練場の端に立ち、ラスラフの背中を見送っている。琥珀色の目。あの目に何が映っているのか。


 信じたい。


 信じきれない。


 その二つが胸の中でせめぎ合い、ズラータは紡錘を強く握った。摩耗した紋様が手のひらに食い込む。木の感触だけが、確かなものとして手のひらに残った。



 夜、ラスラフは眠りについた。疲弊した体が深い眠りを求め、意識が沈んでいく。修練の痛みの余韻がまだ胸に残っているが、それすらも眠気の重さに押し流された。


 夢が来た。


 ペルンの記憶だった。今度は断片ではなかった。


 ひとつの場面が、水面に映る景色のように広がっていく。嵐の空の下で、世界樹の根元に立つペルン。傍らに誰かがいた。白銀の髪の──蛇の鱗のような模様を纏った存在。ヴェレスだった。かつてのヴェレス。今よりも若く、今よりも力に満ちた姿。二柱の神が、世界樹を見上げている。敵意はなかった。まだ。この場面では、まだ二柱は敵ではなかった。並んで立つ二つの影が、世界樹の根元に重なっている。


 記憶の中のペルンが口を開いた。声は聞こえなかった。映像だけが流れ、感情だけが滲む。守らなければならない。この樹を。この世界を。その使命感が、前回よりも色濃くラスラフの胸に沈んだ。器が広がった分だけ、記憶が深く流れ込んでいる。


 目が覚めたとき、使命感が残っていた。


 自分のものなのか、ペルンのものなのか。


 区別がつかなかった。器が広がった分だけ、ペルンの記憶の流入も増えている。ヴェレスの言った通りだ。力の器を広げれば、力だけでなく記憶も多く流れ込む。力と記憶は同じ経路を通る。器が広がれば、その経路も太くなる。


 ラスラフは右手を見た。嵐の痣が暗闇の中でも微かに光っていた。蒼白い樹枝状の紋様。その紋様の奥に、ペルンの記憶が渦巻いている。


 力が増えた。記憶も増えた。代償も進んだ。


 天秤が、また少し傾いた。


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