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凍てる森

 夜明けとともに窪地を出た。


 眠れたのは半刻ほどだったろうか。身体の芯に疲労が沈殿し、関節のひとつひとつが錆びた蝶番のように軋んだ。口の中が乾き、唾を飲み込むと喉の奥が痛んだ。


 眷属の光は夜のうちに散った。闇が薄まるにつれて一つ、また一つと消え、灰色の朝が来たときには荒野に光の痕跡は残っていなかった。だが気配は消えていない。背中の産毛が逆立つような、微かだが確実な圧迫感。ラスラフの肌が、そう告げていた。


 ズラータが地面に手を触れた。雪の上に残る二人の足跡が、静かに消えていく。雪が舞い戻って窪みを埋めるのではなかった。足跡そのものが、初めから存在しなかったかのように平らに戻っていく。土地の記憶を巻き戻すような、不思議な光景だった。


「……足跡を消しているのか」


「痕跡を残せば追われる。追われれば死ぬ」


 ズラータの返答は簡潔だった。巫女は歩きながら、時折地面に指先を触れ、二人の通った跡をひとつ残らず消していった。その所作は繊細で、嵐の力の乱暴さとはまるで異なっていた。


 旅の三日目だった。荒野は相変わらず白く、風は相変わらず冷たい。だが歩き続けることにだけは慣れ始めていた。筋肉の奥に鈍い痛みが居座り、足の裏が水膨れで腫れている。靴の中で潰れた肉刺が靴擦れと重なり、一歩ごとに鈍い痛みが走ったが、痛みにも慣れるものだった。それでも足は前に出た。


「モコシュの力は、いつもこういう使い方をするのか」


 歩きながら問うた。足跡を消し、地面を温め、風を逸らす。派手さはないが、それがなければ昨夜を越せなかった。


「大地の声を聴くのが巫女の務めだ」


 ズラータは前を向いたまま答えた。風が彼女の三つ編みを揺らし、金色の髪に付着した霜が白く光った。


「モコシュの導きに従い、世界の傷を癒す。大地が記憶しているものを読み、大地が望むことを聞く。巫女とはそういうものだ」


 語り方は客観的だった。自分の感情をどこにも混ぜない、報告のような口調。巫女としての務めを語っているのに、まるで他人事のように聞こえた。ラスラフは横目でズラータの横顔を見た。白磁のような頬が寒気に赤みを帯び、吐く息だけが白く短く揺れている。この巫女が何を考えているのか、まるで読めなかった。


「モコシュは今もいるのか」


 ズラータの歩みが、一瞬だけ止まった。


 ほんのわずかな間だった。半歩分にも満たない停滞。雪を踏む足の拍子が乱れ、次の一歩が僅かに遅れた。だがラスラフはそれを見逃さなかった。忌み子として人の輪の外にいた年月が、他者の表情や仕草の変化に対する観察力を研ぎ澄ませていた。


「声は聴こえる」


 ズラータはそれだけ言って、再び歩き出した。その間が何を意味するのか、ラスラフには読み取れなかった。



 凍りついた川の合流地点に差しかかったのは、その日の昼を過ぎた頃だった。


 二つの川が合わさる場所で、氷の下に水の流れが閉じ込められている。透明な氷面の奥に、水紋のような模様が凍りついて見えた。耳を近づけると、氷の遥か下で水が細く流れる音がした。生きている、と思った。この凍りついた世界の下で、水だけがまだ動いている。川筋がそのまま二方向に分かれ、どちらに進むべきか判断がつかなかった。ラスラフが足を止め、ズラータが氷の面を見つめて黙り込んだとき、それは唐突に現れた。


 岩の上に、白い狼がいた。


 息が止まった。視界の中に、それだけが異質だった。霜を纏ったように白銀に光る毛並み。肩の高さが人の胸に届く巨躯。琥珀色の双眸が、二人を静かに見下ろしている。雪と同じ色をしているのに、白狼だけが周囲の白と切り離されて見えた。存在の密度が違う。雪の上に足跡はなかった。いつからそこにいたのか、どこから来たのか、何の痕跡もない。ただ在る。


 右手の痣が疼いた。じわりと熱が滲む。白狼が近くにいるときだけ、痣は冷たさの代わりに温もりを帯びる。


「北の川筋を辿れ」


 白狼の喉から、低い声が発せられた。獣の口腔から出る人語の異質さに、ラスラフはまだ慣れることができなかった。


「なぜ俺を助ける」


「おまえが目覚めることが、この世界にとって必要だからだ」


 必要。その一語が胸に刺さった。必要とされたことなど、十七年の人生で一度もなかった。


「ペルンの力について教えてくれ。どうすれば使える。どうすれば制御できる」


 白狼の琥珀の瞳がわずかに細められた。冷たい風が白銀の毛並みを撫で、一本の毛も乱れなかった。


「焦るな。時が来れば目覚める」


「いつだ。どうやって」


「おまえは多くを求めすぎる」


 答えているようで何一つ答えていなかった。行くべき方向は示す。だが理由は語らない。力について問えばはぐらかし、核心には触れさせない。白狼の言葉にはつねに穴があり、その穴の向こうにある真意が見えなかった。


 白狼が岩の上で身じろぎした。立ち上がり、北の川筋の方角に鼻先を向ける。


「北に進め。永冬以前の世界の痕跡がある」


 それだけ言い残し、白狼は岩を降りた。巨躯が音もなく動く。雪を踏んでいるはずなのに足音がない。白銀の毛並みが雪と溶け合い、数歩で輪郭が曖昧になる。


 去り際だった。


 白狼の琥珀の瞳が、ズラータに向けられた。ほんの一瞬だった。視線の意味は読み取れない。だがラスラフはそれを見た。白狼は巫女を見た。何かを確かめるように、あるいは何かを値踏みするように。


 次の瞬間、白い狼は荒野の白に紛れて見えなくなった。足跡は、やはり残らなかった。



 白狼が消えた後、二人は北の川筋に沿って歩き始めた。白狼がいた岩の上に、霜ひとつ残っていないことにラスラフは気づいた。あれほどの巨躯が座っていたはずなのに、岩の表面には爪の痕も体温の跡もない。まるで最初から何もいなかったかのように。


「あの狼を信じていいのか」


 ラスラフが問うた。眷属に追われている今、方向を誤れば死ぬ。白狼の導きに従うほかないのは理解している。だが、従うことと信じることは違う。


「あの存在は強い。少なくとも敵ではない」


 ズラータの声が低かった。語尾に確信がない。巫女の断定的な口調が、わずかに揺らいでいた。


 ラスラフはズラータの横顔を見た。三つ編みの金髪が風に揺れ、白磁の頬に影を落としている。唇がわずかに引き結ばれていた。普段と同じ無表情に見えるが、何かが違う。唇の端に力がこもっている。白狼が現れる前にはなかった緊張だった。


「何か知っているのか」


「今は歩くことだけ考えろ」


 拒絶ではなかった。話を切る口調だった。答えたくないのではなく、今は答えるべきではないと判断している。巫女もまた、すべてを共有する気はない。ラスラフに対してもそうだし、おそらく誰に対してもそうなのだろう。


 雪を踏む足音が二つ、北の川筋に沿って続いていく。凍った川面が二人の影を歪めて映し、風がその上を掃いていく。ラスラフの重い足音と、ズラータの軽い足音。二人のあいだに五歩の距離。その距離は、出発した日から変わっていなかった。


 ズラータは前を向いたまま、一度も振り返らなかった。唇を引き結んだ横顔の向こうに、巫女の沈黙が揺れていた。風だけが、二人の間を吹き抜けていった。


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