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雷神の忌み子 ~五感を代償に、少年は永遠の冬を終わらせる~  作者: 蒼月よる


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巫女の沈黙

 白が、どこまでも続いていた。


 村を出て半日が過ぎた。ラスラフの目に映るものは、ただ白だけだった。雪原は一見して平坦に広がっているが、足を踏み出すたびに裏切られた。一歩は膝まで沈み、次の一歩は凍った硬い面に弾かれる。不規則に入り混じる雪と氷の地面に歩調を合わせることができず、何度も体勢を崩した。足首が雪に埋もれるたびに、靴の隙間から粉雪が入り込み、肌に張りついて溶けもせずに凍りつく。風は容赦がなかった。正面から吹きつける寒風が顔の皮膚を刺し、頬が痛みに灼ける。鼻の奥まで凍てつく空気が抉り込み、吸い込むたびに肺が縮む心地がした。唇が乾き、割れた皮膚に風が触れるたびに鋭い痛みが走った。


 地平線が見えない。白い大地と灰色の空の境界が溶け合い、世界が一枚の布に包まれたように方角を失っている。村の周囲の森を出てから、目印になるものが何一つなかった。ラスラフは村の外にほとんど出たことがない。世界とは村と森と鍛冶場のことだった。その外に、これほどの白があるとは知らなかった。


 永遠の冬は、村だけの話ではなかったのだ。


 足が重い。鍛冶場で炉の前に立ち続ける体力には自信があった。だがこの荒野は、力の使いどころが違った。踏み出すたびに雪が脚を絡め取り、振り払うために余分な力がいる。身体の芯から熱が奪われていく感覚が、鍛冶場で知った疲労とはまるで別のものだった。


 頭ではわかっていたはずだった。白狼の言葉──神々が死に、世界を支えていた力が失われた。それは村の話ではなく、世界の話だ。だが知識として受け取ることと、膝まで沈む雪の中でそれを身体に刻むこととは別だった。永冬は局所的な災いではない。この白が、世界のすべてを覆っている。


 数歩前を歩くズラータの背中が、雪と風の中で小さく見えた。小柄な身体に麻の旅装をまとい、淡い金色の三つ編みが背を打つ。巫女は体格こそ小さいが、雪原の歩き方を知っていた。足の運びが正確で、深雪に嵌まる箇所を避け、凍った面を選んで踏んでいく。だがそれでも深い雪に腰まで沈む場面が幾度かあり、そのたびに無言で身を引き上げていた。


 ラスラフは鍛冶で鍛えた脚で力任せに雪を踏み砕いて進んだ。体力はある。だがそれは鍛冶場の体力であって、雪原のそれではなかった。無駄な力を使い、無駄に体温を奪われている。ズラータの歩き方を真似ようとしたが、うまくいかなかった。


 互いに助けを申し出なかった。ラスラフは人に手を差し伸べる経験がなく、ズラータは他人の手を取る気配がなかった。二人の間には五歩ほどの距離があり、それは出発してから一度も変わらなかった。


 風鳴りの中に、雪を踏む音だけがあった。ラスラフの重い足音と、ズラータの軽く乾いた足音。それ以外に、何も聞こえない世界だった。静寂が、重かった。



 窪地を見つけたのは、ズラータだった。


 荒野の中にわずかに窪んだ地形があり、風が岩壁に当たって逸れる場所だった。ズラータは立ち止まり、短く「休む」と言った。


 岩陰に身を寄せた。風が頭上を吹き抜け、窪地の中だけが僅かに静かだった。岩の表面は白く霜に覆われ、触れた背中から冷たさが骨まで沁みた。焚き火を起こそうにも、白い荒野に燃やせるものは何もない。ラスラフが腰を下ろし、手をこすり合わせていると、ズラータが地面に片手を触れた。


 地面が、温まった。


 掌の下から、じわりと熱が浮き上がってくる。土の表面から微かな熱が立ち昇り、薄い蒸気が白く揺れた。岩陰の空気がわずかに緩む。ラスラフは手のひらを地面に押しつけ、そのぬくもりに息を吐いた。鍛冶場の炉とは違う。もっと静かで、もっと深い。地の底から染み出してくるような温もりだった。


「……大地の力か」


「モコシュの力だ。地面を温める程度のことはできる」


 ズラータの声に感情はなかった。力の行使を当然のこととして処理する口調だった。


 ラスラフは黙って地面の熱を受けていた。嵐の力は村を壊し、村人の恐怖を掻き立てた。目の前の巫女の力は、凍えた大地を温めている。同じ力であるはずなのに、その在り方がまるで違った。


「なぜ俺のところに来た」


「モコシュの命だ」


「それだけか」


「それだけだ」


 会話が途切れた。ラスラフは問いを重ねるすべを知らなかった。十七年間、人と言葉を交わす経験がほとんどない。沈黙が落ちると、それを埋める方法がわからなかった。ズラータもまた、沈黙を不自然とは感じていないようだった。巫女は地面に触れた手をそのまま、目を閉じて何かを感じ取るように静止していた。


 やがてズラータが目を開き、北を指した。


「北へ向かう」


「何がある」


「まず生き延びること。それが今のすべてだ」


 導かれるまま。ラスラフは自分がこの旅を選んだわけではないことを、改めて感じた。ボジダルに背を押され、ズラータに導かれ、白狼に見定められて、ここにいる。自分の意志で踏み出した一歩は、まだなかった。



 灰色が、徐々に黒に沈んでいった。


 太陽がもともと薄い光しか持たない永冬の世界では、昼と夜の境界が曖昧だった。灰色の空が少しずつ暗さを増し、やがてすべてが闇に呑まれる。それだけの変化だった。


 窪地で夜を越すことになった。ズラータが再び大地の力を使った。地面が薄く温まり、風が不自然に窪地を避けて吹き抜けていく。岩壁の向こうで唸る風の音が、窪地の中だけ遠い。巫女の力が壁になっている。


 ラスラフは毛布に身を包み、横たわった。寒さは凌げていた。だが眠りは遠かった。


 右手を毛布の中から出した。嵐の痣が、闇の中で蒼白くぼんやりと光っている。樹枝状の紋様。手の甲から指の根元にかけて走る、歪な稲妻の枝分かれ。


 左手で、右手の指先に触れた。


 何も感じなかった。


 親指で人差し指の腹をなぞる。圧力はある。指が触れているという情報は伝わる。だが質感がない。温度がない。指先だけが、自分の身体から切り離されたように、沈黙していた。


 雷を落としたときの痺れが、まだ残っているのだろう。一時的なものだ。ラスラフはそう思おうとした。思おうとして、あの夜から何日も経っていることに気づいた。痺れは引かない。感覚は、戻らない。


 口には出さなかった。まだ、一時的なものだと思いたかった。


 眠りに落ちかけたとき、目の端に光が映った。


 身を起こした。荒野の闇の向こう、遠くに青白い光が点々と揺れている。二つ、三つ、四つ。微かだが、確かに動いている。あの光を、ラスラフは知っていた。村を襲った眷属の身体の内側から発せられる、冷たい光だ。


 ズラータを見た。


 彼女は既に目を開けていた。毛布の中から闇を見据え、光の動きを追っている。


「知っている」


 短い声だった。ラスラフが口を開く前に、ズラータはそれだけを言い、再び闇を見つめた。追跡されている。いつからかはわからない。だが巫女は気づいていた。ラスラフより先に。


 青白い光は近づいてこなかった。遠くで揺れ、漂い、こちらを窺っている。窪地の中には入ってこない。ズラータの力が、ここを守っているのか。


 ラスラフは眠れぬまま、闇の中の光を見つめ続けた。風が窪地の外で唸り、その向こうに、冬の眷属の気配が這っていた。


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