白の荒野
夜明け前の暗闇を、低い咆哮が裂いた。
ラスラフは寝台の上で跳ね起きた。家屋の壁が軋み、天井から乾いた土埃が降る。窓の向こうに、青白い光が揺れていた。一つではない。二つ、三つ──いくつもの光が、闇の中を這うように移動している。
「ラスラフ、起きろ」
ボジダルの声だった。養父は既に立ち上がり、鍛冶場から持ち出した鉄槌を右手に握っている。炉の残り火に照らされた横顔に、恐怖はなかった。ただ、これから来るものを受け止める覚悟だけがあった。
「何が──」
「黙って俺の後ろにいろ」
問いを遮り、ボジダルがラスラフの前に立つ。分厚い背中が視界を塞いだ。鍛冶師の背中だった。鉄を打ち続けた年月が刻まれた、広く、硬い背中。
外で悲鳴が上がった。
扉を蹴り開けて外に出た瞬間、凍りつくような冷気が肌を刺した。冬の夜気とは違う。空気そのものが凍結していくような、鋭く、痛みを伴う寒さだった。鼻腔の奥に金属を嗅いだときのような刺激が走る。
村の通りを、それらが駆けていた。
狼に似た四足の獣。だが毛皮はなく、全身が透き通った氷で構成されている。関節が動くたびに硝子のような音が鳴り、口腔から白い息の代わりに冷気の靄が吐き出される。青白い光は、氷の身体の内側から発せられていた。
冬の眷属。
名は知らない。だが本能が告げていた。あれは、この世界の冬が産み落とした獣だ。
村人たちが家から飛び出し、逃げ惑っている。眷属の一体が納屋の壁に体当たりし、触れた箇所から壁板が一瞬で白く凍りつき、砕け散った。子供の泣き声。男たちの怒号。すべてが混乱の中に呑まれていく。
右手が、熱かった。
嵐の痣が脈打っている。これまで感じたことのない強さで、痣が熱を帯び、右腕全体にまで灼けるような感覚が広がっていた。身体の内側で何かが暴れている。鎖に繋がれた獣が檻を叩くように、力が出口を求めて荒れ狂っている。
だが、どうすればいい。
ラスラフは動けなかった。足が地面に縫い止められたように動かない。力がある。それはわかる。だが、それをどう解き放てばいいのか、わからない。身体が震えているのは寒さのためではなかった。
氷の獣が三体、広場に集まっていた。家畜小屋の前で立ち尽くす老人に、一体が飛びかかろうとしている。
そのとき、大地が隆起した。
広場の地面が、まるで巨大な手に掬い上げられたかのように盛り上がり、土と石が壁となって眷属の進路を断ち切った。轟音が村を震わせ、衝撃波のような振動がラスラフの足裏を叩いた。
眷属が壁に激突し、氷の身体に亀裂が走る。
壁を生み出した者が、土煙の向こうに立っていた。
女だった。長い髪が淡い金色に輝き、背に流した三つ編みが夜風に揺れている。小柄な身体に生成りの麻の衣をまとい、腰には紋様を刺繍した帯を巻いている。右手が地面に触れていた。その掌の下から、石壁の隆起が扇状に広がっている。
大地の力。嵐ではない。風でも雷でもない。地面そのものを従わせる、静かで、確実な力だった。
女が手を引くと、隆起が止まった。立ち上がり、土埃を払う。その所作に焦りはなかった。戦場に立ち慣れた者の落ち着きがある。
女の視線がラスラフを捉えた。深い緑色の瞳が、暗闇の中でもはっきりと見えた。その目がラスラフの右手──痣の刻まれた手の甲に落ちる。
「おまえがペルンの遺児か」
感情のない声だった。確認しているのではない。知っていて、来たのだ。
ラスラフは答えられなかった。目の前の女が何者なのか、なぜ自分の痣を知っているのか、問うべきことは無数にある。だが言葉より先に、新たな咆哮が夜を引き裂いた。
眷属の第二波だった。
さらに数が多い。五体、六体──村の外周から、青白い光が殺到してくる。女が再び地面に手を触れたが、石壁の隆起は先ほどより低く、遅い。力に限りがあるのだとラスラフは直感した。
壁の隙間を一体がすり抜け、広場に躍り込んだ。その先に、ボジダルがいた。鉄槌を構えて立つ養父の前に、村人が一人、庇うように立ちはだかっている。
眷属が跳んだ。冷気を纏った爪が振り下ろされる。村人の肩に触れた瞬間、衣服が凍りつき、肌が白く変色した。男が声なき悲鳴を上げ、膝から崩れ落ちる。
ラスラフの中で、何かが弾けた。
守りたい。
理屈ではなかった。恐怖も迷いも、その一瞬だけ消し飛んだ。痣が白く灼けるように輝き、右手の甲から腕へ、腕から肩へ、蒼白い紋様が脈打ちながら広がった。
空が、割れた。
一条の雷光が闇を貫き、眷属の身体を直撃した。轟音が遅れて追いかけてくる。氷の獣が内側から砕け、破片が四方に飛散した。続けてもう一条。さらにもう一条。天から降り注ぐ雷が、広場の眷属を次々に焼き払っていく。
ラスラフ自身、何が起きているのかわからなかった。力が勝手に溢れ出している。制御などできない。ただ、守らなければという衝動だけが身体を突き動かし、その衝動に応えるように空が怒っている。
最後の一体が砕け散り、静寂が戻った。
雷鳴の残響が山々にこだまし、やがて消える。焦げた氷の破片が地面に散らばり、青白い光を失って、ただの水に還っていく。
ラスラフは荒い息をついていた。痣の光が徐々に薄れていく。身体中の力が抜け、膝が笑っている。
右手の指先に、触れた。
何も感じなかった。
親指で人差し指の腹をこする。圧力はある。だが温度がない。質感がない。指先だけが、まるで他人の身体の一部になったように、触覚を失っていた。
一時的な痺れだろう。雷を落としたのだから、手が痺れるのは当然だ。ラスラフはそう結論づけた。興奮と混乱の中で、それ以上深く考える余裕はなかった。
夜が明け始めていた。東の空が鈍い灰色に白んでいく。永冬の世界に朝日は差さない。ただ闇が薄まるだけの、色のない夜明けだった。
村人たちの目が、ラスラフに集まっていた。
凍傷を負った者を抱える男。泣き続ける子供を抱きしめる母親。壊れた納屋の前で立ち尽くす老人。その全員の目に、同じ色が浮かんでいた。恐怖と、敵意。
「……あの痣持ちが呼び寄せたんだ」
誰かが呟いた。小さな声だったが、静まり返った村には十分すぎるほど響いた。
「やっぱりあいつは災いの種だ」
十七年間、ラスラフは忌み子として遠巻きにされてきた。腫れ物に触るような視線。避けるように逸らされる目。だがそれは消極的な忌避だった。今、村人たちの目に宿っているのは、明確な排斥の意志だった。
ボジダルが、ラスラフの肩に手を置いた。
鍛冶師の手だった。鉄を打ち続けて硬くなった、大きな掌。その重みと温もりを、ラスラフは肩越しに感じた。
「行け」
短い一語だった。
「おまえの居場所は、ここにはなかった」
養父の声は震えていなかった。泣いてもいなかった。ただ、十七年間この少年を育ててきた男の、すべてを呑み込んだ声だった。
「だが、どこかにはある」
ボジダルの手が、ラスラフの背中を押した。強く。一度だけ。
ラスラフは振り返らなかった。振り返れば、歩き出せなくなる。それだけはわかっていた。
村の出口で、あの女が待っていた。腕を組み、門柱に背を預けている。ラスラフが近づくと、簡潔に告げた。
「私は大地母神の巫女だ。おまえを導くために来た。永冬を終わらせる力の覚醒──それがおまえに課された使命だ」
「……名前は」
「ズラータ」
それだけ言うと、ズラータは背を向けて歩き出した。ラスラフがついてくることを疑っていない足取りだった。
村を離れ、丘を越える。振り返らない。背後に、養父が立っているのはわかっていた。だが見なかった。
眼前に広がるのは、永冬の荒野だった。果てしない白。風だけが鳴る世界。雪と氷に覆われた大地がどこまでも続き、空との境界すら曖昧に溶けている。
丘の向こうに、白い影が見えた。
狼だった。巨大な白い狼が、遠くの尾根に佇んでいる。こちらを見ているのか、いないのか。距離がありすぎて判別できない。だがその存在感だけは、白い荒野の中にあって異質なほど確かだった。
狼の足跡が一筋、雪原に続いていた。
ラスラフはその足跡を追うように、最初の一歩を踏み出した。




