蛇神の影
集落を出て半日、ドモヴォイが四度目に立ち止まった。
髭が太く逆立っている。恐怖の逆立ち方だった。ラスラフはもうこの精霊の感情表現を読み違えない。ドモヴォイの大きな鼻がひくひくと動き、小さな目が左右を走った。
「囲まれかけておる」
声が鋭い。いつものぼやきの欠片もない。
「右と後ろ、もう一群は前方を回り込んでおる」
具体的な方位と数。第二十三話の遭遇では「三つ」と告げただけだったが、今は包囲の構造まで読んでいる。精霊の危険察知が本格的に機能し始めていた。
ラスラフはズラータと目を合わせた。一瞬の視線のやり取りで、方針が決まる。旅の中で培った連携だった。回避を試みる。
岩場を利用して進路を変えた。ラスラフが小さく風を操り、足跡の上に雪を吹き寄せて痕跡を消す。痣が微かに疼いたが、この程度の力の行使なら代償の進行は僅かだ。ズラータが先行し、地形を読んで死角の多い道を選ぶ。ドモヴォイが後方の気配を探りながら続く。三人のチームワークが、実用の水準で回っていた。
だが包囲網は狭まった。
雪原の向こうに、氷の光が点々と見え始めた。青白い光が地面の際を移動している。右から二つ、後方から三つ。前方にも気配がある。回避の経路が一つずつ塞がれていく。
ドモヴォイの鼻が忙しなく動く。髭が太く逆立ったまま、震えている。
「だめじゃ。前の一群が回り込みよった。逃げ道がなくなる」
ズラータが足を止め、周囲を見渡した。山裾の雪原が広がり、右手に岩壁が切り立っている。判断は速かった。
「戦うしかない。背中を壁に」
岩壁を背にした防御地形を選び、三人が迎撃態勢を取った。ラスラフが前に出る。ズラータが半歩後ろ。ドモヴォイが二人の足元で、全方位の気配を探る。
眷属の小隊が、雪煙の中から現れた。
七体。いや、八体。下位眷属が扇形に展開し、岩壁の前に立つ三人を半円状に囲んでいる。第二十三話で遭遇した三体とは数が違う。氷の身体の内部で青白い光が脈打ち、吐き出す冷気の靄が雪原を這った。
「左から四つ、正面三つ、右から一つ」
ドモヴォイの報告が、戦場の地図を描いた。声は低く正確で、恐怖を押し殺した精霊の矜持があった。
ズラータの紡錘が回転した。大地が応え、正面の地面が隆起して防壁を形成する。三体の眷属の突進を、土と石の壁が受け止めた。衝撃音が山裾に反響する。
ラスラフは左を向いた。四体が同時に迫る。痣が灼けるように光った。右手を突き出し、蒼白い稲光を放つ。第一撃。先頭の眷属の胴を貫き、氷が内側から弾けた。続いて第二撃。隣の一体の頭部を撃ち抜く。修練の成果だった。狙いが逸れない。放電の軌跡が一直線に敵を穿つ。
残り二体が左右に散った。ラスラフは右腕を振り、放電の残滓を弧に広げた。片方の脚を折り、もう片方の胴を裂く。四体が砕けた。足元に氷の破片と水が散らばる。
背後でズラータの防壁が罅割れる音がした。正面の三体が体当たりを繰り返している。防壁の上端が崩れ、隙間ができた。ラスラフは振り返りざまに隙間から右手を突き込み、雷撃を放った。閃光が正面の眷属を二体同時に焼き、砕く。残り一体にズラータが防壁の破片を蹴り込み、体勢を崩させた。ラスラフの稲光がそれを仕留める。
「右! そこじゃ!」
ドモヴォイの声。ラスラフは体を捩じった。右側から最後の一体が跳びかかっていた。ドモヴォイの声がなければ死角からの突撃だった。右腕を振り上げ、至近距離で雷撃を叩き込む。氷の獣が真正面で砕け散り、冷たい破片がラスラフの頬を切った。
静寂。
八体の下位眷属を、三人で退けた。ラスラフとズラータの二人だけの連携に、ドモヴォイの索敵が加わったことで、死角が消えている。攻撃と防御と索敵。三つの機能が噛み合い、以前より大きな戦力を相手に効率的に戦えた。
ラスラフは息を吐いた。肺の奥まで冷気が染みた。右腕が垂れている。雷撃を何度放ったか。六回か、七回か。いずれも的確だった。修練の成果が実戦で出た。だが身体は正直だった。
代償は来る。
最後の一撃を放った後、ラスラフの右腕が痺れた。力を使った後に残る鈍い感覚。だが今回は痺れの質が違った。腕を振っても消えない。じんじんとした痺れではなく、感覚が「薄くなる」痺れだった。指先に続いて、手首から先が遠のいていく。砕けた眷属の破片が雪の上に散らばり、青白い光を失って水に還っていく中、ラスラフは自分の右腕だけを見つめていた。
夕暮れが来た。
戦闘の跡が残る雪原から少し離れた岩場で、ラスラフは右手の感覚を確かめていた。
親指で手首の内側を摘んだ。何も感じない。掌を握る。指が曲がっている視覚的な確認はできるが、握り込んだ感触が伝わらない。手の甲を叩く。音はする。だが痛みがない。
指先から始まった感覚喪失が、手首に達していた。
ズラータがラスラフの右手を取った。冷たい指先がラスラフの掌を開き、手首の内側を押す。ラスラフの視線がズラータの指の動きを追う。押されている。それは見える。だが肌が何も伝えない。
「力の使い方を工夫しても、代償は止められない」
ズラータの声は平坦だった。だが視線は厳しい。修練で精度を上げても、使う限り代償は進行する。そのルールが、ラスラフの身体の上で確定した。
ラスラフは右手を見下ろした。痣の蒼白い紋様が、手の甲から手首、前腕にかけて枝分かれしている。その紋様の通った場所から、感覚が死んでいく。力の通り道が、感覚の墓場になる。
養父の言葉が浮かんだ。
鉄を打つのは怒りじゃない、形を与えることだ。
ボジダルの教え。鍛冶の教え。槌を振り下ろすとき、怒りで叩けば鉄は歪む。力を込めるのではなく、鉄が求める形に導くように打つ。それが鍛冶だと、養父は手本で教えた。
力を「ぶつける」のではなく、「形を与える」。
今日の戦闘で、ラスラフは八体の眷属に対して何度雷撃を放ったか。六回か、七回か。そのすべてに全力を注いだ。だが同じ効果を、より少ない力で実現できたら。鍛冶で言えば、一打で決める鍛造。無駄な一振りを減らすこと。
代償を止められないなら、せめて進行を遅らせることはできないか。ラスラフの中で、養父の鍛冶の言葉が、力の哲学へと意味を変え始めていた。まだ仮説にすぎない。具体的な方法はわからない。だが方向だけは見えた。怒りで鉄を叩く鍛冶師はいない。形を見極め、最小の力で最善の打点を穿つ。それが鍛冶だとボジダルは教えた。嵐の力にも、同じ道理が通じるはずだ。
空に暗がりが降りていた。夕暮れの光が山裾の稜線を銅色に染め、やがて灰色に沈んでいく。ドモヴォイが焚き火の支度を始めた。枝を選り分け、組み上げ、火口を打つ。精霊の手際は相変わらず見事で、同じ薪でも炎の質が違う。温もりが焚き火の周囲に満ちた。
ラスラフが右手を握り、開いた。握った感触はない。だが拳の形は作れる。
ドモヴォイが空を見上げた。もじゃもじゃの眉の下の目が、遠くを見ている。焚き火の温もりに包まれた小さな精霊が、闇の向こうの何かを感じ取っていた。
「あの白狼が来る。何か話したいことがあるようじゃ」
ラスラフは顔を上げた。遠くの山稜を、白い影が走っていた。霜を纏ったように白銀に光る巨躯が、夕闇の稜線を駆けている。まっすぐにこちらへ向かって。その影は山の尾根を一つ越え、二つ越え、速度を落とすことなく近づいてくる。
右手の痣が微かに疼いた。白狼の接近に反応しているのか。感覚を失いつつある右手で、痣の熱だけは明確に感じ取れる。皮肉だった。触覚が死んでいく手の甲で、嵐の力の脈動だけが鮮やかに残っている。




