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雷神の忌み子 ~五感を代償に、少年は永遠の冬を終わらせる~  作者: 蒼月よる


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2/11

出立

 雪の上に、足跡がなかった。


 昨夜見た白い獣の姿が、まだ目の裏に焼きついている。あの青白い双眸。闇の中で静かに光を湛え、こちらを射すくめるように見つめていた瞳。獣なら逃げる。人に出くわせば、森の獣はまず逃げる。あの狼は逃げなかった。


 ラスラフは夜明けとともに鍛冶場を出た。養父ボジダルにはただ「森へ行く」とだけ告げた。問い返されはしなかった。薪を拾いに行くと思ったのだろう。あるいは何も思わなかったか。養父はそういう男だった。


 村外れの森は、永冬の静寂に沈んでいた。樹氷に覆われた樅の枝が、わずかな風にも鳴らずに佇んでいる。空気が凍りついて、音そのものが死んでいるかのようだった。ラスラフの革靴が雪を踏む音だけが、ひどく大きく響いた。


 昨夜、狼が立っていたあたりに来た。雪面には自分の足跡しかない。獣の爪痕も、体を伏せた窪みもない。まるで何もいなかったかのように、雪は朝の薄明かりの下で平らに広がっていた。


 見間違いだったのだろうか。


 右手の甲の嵐の痣(ボゴヴィナ)が、微かに熱を持っていた。手袋の下で脈打つように疼く。寒さとは無関係の、内側から滲み出るような温もり。それが昨夜からずっと消えない。


 森の奥へ目を向けた。


 白い獣が、いた。


 五十歩ほど先の、折れた樅の根元。霜を纏ったように白銀に光る毛並みが、灰色の森の中で異様なほど鮮やかだった。肩の高さはラスラフの胸に届くほど大きい。狼とも、この世のどんな獣とも違う。それは何か古い時代の残滓のように、雪と静寂の中に在った。


 琥珀色の双眸が、ラスラフを捉えた。


 足が動かなかった。恐怖ではない。正確には、恐怖だけではなかった。体の奥の何かが、この獣の存在に呼応している。痣の疼きが強まった。右手が痺れるように熱い。


「──おまえか」


 声は、白狼の喉から発せられた。


 人語だった。獣の口腔から出るはずのない、低く明瞭な響き。声帯の振動とも息遣いとも違う、もっと深い場所から湧き出るような音だった。ラスラフは一歩退いた。背中が樅の幹にぶつかり、樹氷の欠片がぱらぱらと肩に落ちた。


「おまえは嵐神(ペルン)の血を引く者だ」


 白狼は動かなかった。ただ座したまま、琥珀の瞳でラスラフを見据えていた。その声には感情の起伏がなく、ただ事実を告げるように淡々としていた。


「何を、言っている」


 声が震えた。ラスラフは右手を握りしめた。痣が脈打つ。拳の中で、昨夜の放電のような痺れが走った。


「知らぬのも無理はない。三百年前、嵐神は死んだ。だが血は残る。血はいつか、器を見つける」


 白狼の言葉は断片的だった。まるで長い物語の、意図的に抜き出した数行だけを読み聞かせるような話し方だった。


「この冬が終わらぬのは、神々が死んだからだ。世界を支えていた力が失われた。おまえの痣は嵐神の力の証。呪いではない」


「……呪いではない、だと」


 十七年間、ラスラフはあの痣を呪いだと思って生きてきた。村人がそう囁き、子どもたちが石を投げ、母でもない女たちが顔を背けた。痣を見せなければ済む話ではなかった。痣のある子どもは災いを招く。それがこの村の、そしておそらく世界のどこでも変わらない常識だった。


 それが、力だと。


「なぜ俺に教える」


 白狼は答えなかった。琥珀の瞳がわずかに細められた。それが笑みなのか、あるいは別の何かなのか、ラスラフには読み取れなかった。


「おまえはいずれ知ることになる。遅いか早いかの違いにすぎん」


 それだけ言って、白狼は立ち上がった。巨躯が音もなく動く。雪を踏む足音すらなかった。霜の上を滑るように数歩進み、森の奥の灰色の闇に溶け始めた。


「待て」


 声を上げたが、白狼は振り返らなかった。白銀の毛並みが木々の間に紛れ、やがて見えなくなった。足跡は、やはり残らなかった。


 森に、ラスラフだけが残された。


 右手を見下ろした。痣が薄く蒼い光を帯びている気がしたが、瞬きをした後にはいつも通りの歪な稲妻の紋様に戻っていた。


 呪いではなく、力。


 嵐神の血。


 言葉の意味を理解しているはずなのに、胸の内で何一つ噛み合わなかった。自分がペルンの血を引くなどと言われて、それをどう受け止めればいいのか見当もつかない。そもそもペルンとは、祖母たちが炉端で語る古い神話の中の名にすぎなかった。嵐を呼び、雷で大地を裂いた神。三百年前に死んだ。それだけだ。


 その血が、自分の中に流れている。


 帰路、雪景色が違って見えた。


 見慣れたはずの凍てついた樅の森が、灰色に覆われた空が、足元で軋む雪の感触が、すべて一枚の膜を隔てたように遠い。「この冬が神々の死によるものだ」と告げられた瞬間から、ただの季節の延長として受け入れていた永冬が別のものに変わっていた。終わるはずの冬が終わらないのではなく、終わらせる力が世界から失われたのだ。


 それは途方もなく大きな話で、村外れの鍛冶屋の忌み子には何の関係もないはずだった。


 痣が、まだ疼いていた。


 村が見えてきた。雪に半ば埋もれた家々の屋根、細く昇る煙。鍛冶場の方角から、低く響く槌音が聞こえた。ボジダルの打つ鉄の音。規則正しく、重く、確かな律動。その音がいま、ラスラフの知る日常の最後の砦のように聞こえた。


 夕食は、いつも通りだった。


 粗末な木のテーブルに、根菜の煮込みと硬い黒麺麭。炉の薪が時おり爆ぜて、火の粉が闇に散る。ボジダルは大きな掌で匙を持ち、黙々と食べていた。鍛冶仕事で焼けた皮膚、節くれだった指。十七年間、ラスラフが見てきた養父の手だった。


「親父」


 ボジダルの手が止まった。ラスラフが自分から口を開くのは珍しいことだった。


「俺は、どこから来た」


 白狼のことは言わなかった。人語を話す獣のことなど、どう切り出せばいいかわからなかった。だが問わずにはいられなかった。


 ボジダルは匙を置いた。炉の火が揺れ、養父の顔に影を刻んだ。深い皺の奥にある目が、何かを量るように細められた。


「……なぜ今、聞く」


「知りたい。それだけだ」


 長い沈黙があった。薪が爆ぜる音だけが、何度か繰り返された。


「嵐の夜だった」


 ボジダルの声は低く、ゆっくりだった。言葉を一つずつ、重い鉄塊を持ち上げるように選んでいた。


「十七年前の冬。この辺りでも珍しいほどの嵐が来た。雷が何度も落ちた。翌朝、森の外れに女が倒れていた。死んでいた。その腕の中に、おまえがいた」


 ラスラフは口を開きかけ、閉じた。


「女の腕に、おまえと同じ痣があった」


 右手が無意識にテーブルの下へ引かれた。痣のある手を隠すように。


「それが、俺の母親か」


「名は知らん。どこから来たのかもわからん。嵐の夜に死んだ。それだけだ」


 ボジダルの声には、それ以上を語ることへの拒絶があった。語れないのか、語りたくないのか。ラスラフにはわからなかった。ただ、養父が十七年間この話を避けてきたことだけは理解できた。


 沈黙が降りた。炉の火が静かに燃えていた。根菜の煮込みがゆっくり冷めていく。


「おまえが何者であろうと」


 ボジダルが口を開いた。テーブルの向こう側で、鍛冶焼けした顔がまっすぐにラスラフを見ていた。


「俺にとっては息子だ」


 言葉は短かった。だがその短さの中に、十七年分の重みがあった。忌み子を拾い、育て、一度も痣のことで責めなかった男の、不器用で揺るぎない言葉だった。


 ラスラフは何も返せなかった。喉の奥が詰まるような感覚があり、ただ頷いた。一度だけ、深く。


 ボジダルは再び匙を取り、黙って食事を続けた。ラスラフもそれに倣った。煮込みはもう冷めかけていたが、腹の底にじんわりと温もりが広がった。


 夜更け。


 薄い毛布の中で、ラスラフは眠りに落ちかけていた。今日の出来事が泥のように意識の底に沈んでいく。白狼の声。嵐神の血。母親の痣。養父の言葉。それらが溶け合って、形のない重さになっていた。


 遠くから、響くものがあった。


 獣の遠吠えではない。金属を引き裂くような、甲高い叫び。森の方角から、冬の闇を切り裂いて届く異質な音。


 隣の寝台でボジダルが目を覚ました。身を起こし、窓の外を見た。凍りついた窓硝子の向こうには何も見えないはずだった。だが養父の顔は、炉の残り火に照らされて、強張っていた。


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