吹雪の夜
白狼は、待ち構えていた。
旅路の途中、荒れた岩場の陰に入ったとき、白銀の毛並みが灰色の岩に映えて浮かび上がった。肩の高さが人の胸に届く巨躯。琥珀色の双眸が、静かにラスラフを見据えている。
今までと様子が違った。道を示すだけではない。白狼はラスラフの前に座り込み、動く気配がなかった。
「おまえの力の使い方は間違っている」
低い声が岩場に響いた。獣の喉から発せられる人語の異質さに、ラスラフはまだ慣れることができない。だが今日の白狼の言葉には、いつもの含みがなかった。直接的だった。
「ズラータにも同じことを言われた」
「あの巫女は賢い。だが知識と実践は違う。私は実践を教える」
白狼が立ち上がった。巨躯が音もなく動き、ラスラフの正面に回る。琥珀の瞳に、どこか試すような光が浮かんでいた。
「力を引き出すな。力を流せ」
「流す?」
「おまえは嵐の力を体内に溜め込み、一気に放っている。だから暴発する。力は溜めるものではない。風が木の枝を通り抜けるように、身体を導管として流すものだ。溜め込めば弾ける。流せば、形を与えられる」
言葉だけでは掴めなかった。だが白狼は言葉で終わらせなかった。
低い唸りが空気を震わせた。白狼の喉から発せられたそれは声ではなく、力そのものだった。周囲の風が一斉に方向を変えた。右から吹いていた風が白狼を中心に渦を描き、ラスラフの髪を巻き上げて左へ抜けていく。肌を叩く風圧の質が変わった。冷たさは同じだが、流れが──整っていた。
「こういうことだ。力は形を変える。だが流れを止めてはならない」
白狼の琥珀の瞳がまっすぐにラスラフを射た。
「やれ」
ラスラフは右手を前に伸ばした。痣が微かに熱を帯びる。意識を掌に集中する。力を引き出すのではなく、流す。身体を通り道にする。
養父の声が蘇った。力を込めるのではなく、通り道を作れ。鍛冶の教えが、白狼の言葉と重なった。
力が応えた。掌に電光が弾けた。一瞬で散った。制御どころか、維持すら叶わない。
二度目。力を引き出す感覚を抑え、通り抜ける流れを意識する。掌が熱を帯びた。蒼白い光が指の間に走り──皮膚を焦がした。焦げた匂いが鼻を突く。
三度目は何も起きなかった。力の加減を絞りすぎた。手の中には何もなく、痣の脈動だけが腕に残った。
四度、五度、六度。暴発か沈黙か、その二択を繰り返した。掌は赤く腫れ、指先の感覚がない部分はなおさら加減が利かなかった。
少し離れた場所で、ズラータが見守っていた。口は出さない。だがラスラフが失敗するたびに、僅かに身体が強張るのが見えた。放電の危険を察知する巫女の本能だろう。ラスラフはそれに気づいていたが、目を合わせなかった。今は、掌だけに集中しなければならなかった。
七度目か八度目だった。
掌に、小さな火花が灯った。蒼白い光が手のひらの中心で揺れている。弾けない。焦がさない。熱くも冷たくもない、流水のような圧力が掌を通過していく。
一秒。二秒。
火花が手のひらで踊り、静かに消えた。
「それだ」
白狼が短く言った。
小さな達成感が胸の内に広がった。力を「使った」のではなく「流した」。その違いが、初めて身体でわかった。ほんの二秒の、不安定な火花。だがあの暴発とはまるで別の感覚だった。
日が傾き始めた。
白狼がペルンについて語ったのは、練習の合間だった。
「あの神は強かった。だが強すぎた」
声の響きが変わっていた。事実を述べる平坦な口調の奥に、讃嘆ともつかない、悔恨ともつかない、名前のつかない色が滲んでいた。ラスラフはその一語に含まれた重さに気づいたが、意味まではわからなかった。
「強すぎると、どうなる」
白狼は答えなかった。琥珀の瞳がわずかに遠くを見た。それきり、ペルンについては何も語らなかった。
ズラータが歩み寄り、白狼に問うた。
「おまえは何者だ」
白狼の琥珀の目がズラータを見返した。巫女の深い緑の瞳と、白狼の琥珀の瞳が交差する。
「ただの老いた狼だ」
嘘ではない。だが真実でもなかった。ズラータの表情が硬くなった。唇が引き結ばれ、目に警戒の色が戻る。白狼はそれ以上答えず、身を翻して岩場を離れた。白銀の毛並みが夕暮れの灰色に溶け、やがて見えなくなった。
焚き火を囲む夜になった。炎が二人の顔を照らし、影が岩壁に揺れている。ラスラフは掌を見つめていた。あの二秒間の感覚を、まだ手が覚えている。
ズラータが小さな声で言った。
「あの狼、信じすぎないほうがいい」
ラスラフが顔を上げた。ズラータは焚き火を見つめたまま、声を落として続けた。
「教えてくれることは正しいかもしれない。でも理由が見えない」
ラスラフは答えられなかった。白狼の指導が的確なのは身体で感じた。あの「流す」感覚は本物だった。だがズラータの言葉も無視できない。教えてくれる理由がわからない。善意だけで、あれほどの知恵を授ける者がいるだろうか。
焚き火が爆ぜた。火の粉が闇に散り、夜の冷気がその隙間を埋める。
ズラータの横顔に、炎の明かりが揺れていた。警戒の色が消えていない。巫女の直感は、ラスラフの感謝とは別の場所で、何かを嗅ぎ取っている。




