白狼の教え
前方に、不自然な塊があった。
翌朝、丘を下りて荒野を進む途中だった。雪原に突き出た暗い影が、距離が縮まるにつれて輪郭を結んでいく。馬車だった。荷台を引く馬が二頭、脚を上げた姿勢のまま凍りついている。
ラスラフは足を止めた。
馬車の周囲に人がいた。五人。立ったまま凍結した者、膝をついた姿勢で固まった者、何かを庇うように身を屈めた者。動作の途中で時間を奪われ、そのまま氷に閉じ込められている。氷の層は厚く、透明な殻の下に恐怖に歪んだ顔が見えた。目は見開かれ、口は何かを叫びかけた形で止まっている。
死んだのではなかった。時間ごと凍りついたのだ。
風の音だけが通り過ぎていた。匂いがない。血も腐敗もない。すべてが凍っているから、匂いそのものが存在しなかった。その無臭が、かえって背筋を冷たくした。
ズラータが無言で凍結の具合を調べていた。氷の表面に手を翳し、巫女の力で状態を読んでいる。
「相当前のものだ。数ヶ月か、それ以上か。永冬の冷気が保存している」
荷物の量から、長旅の準備をしていたことがわかった。革袋、干し肉の包み、布に巻かれた道具類。南方の織物が荷台に積まれていた。暖かい土地の染色だろう。色が鮮やかに残っている。荷の中に地図の断片があった。北を指す矢印が、荒い手書きで記されていた。
南から北へ。この人たちは、北を目指していた。
辿り着けなかった。
ズラータの手が止まった。遺品の中から木製の護符を見つけ、手に取っている。円形の木片に、大地と糸を象る紋様が刻まれていた。
「大地母神の護符だ」
ズラータの声が低くなった。表情はいつもの無愛想だったが、護符を握る手にわずかな力がこもっていた。
「モコシュの加護を持っていた。それでも、こうなった」
大地母神の護りがあっても、永冬の前では無力だった。ズラータにとってそれは何を意味するのか。ラスラフには正確にはわからなかった。だが巫女の指先が白くなるほど護符を握りしめていることは見えた。
ズラータが護符を両手で包み、目を閉じた。唇が微かに動く。祈りの言葉だった。音にならない囁きが白い息に混じり、凍った荒野に消えていく。巫女としての弔いの所作は自然で、迷いがなかった。だがその手が震えていないことのほうが、ラスラフには気にかかった。震えを許さないほどの力で、護符を握っている。
弔いが終わった。ズラータは護符を凍りついた旅人の手の傍に戻し、立ち上がった。
二人は凍結した一行を背にして歩き出した。
ラスラフの中に一つの問いがあった。自分がこの場にいたら、この人たちを救えただろうか。嵐の力があれば、迫り来る氷を砕けたかもしれない。凍える前に風で温められたかもしれない。
だが力を使えば代償を払う。指の感覚をさらに失う。
それでも、使わなければこうなる人が増えるだけだ。
使命でも命令でもない。ただ、凍りついた旅人の顔を見て、そう思った。受動的だった旅の動機に、微かな能動性が芽生えていた。誰かに告げられたからではなく、自分の意志で力を使う理由を初めて考えている。
足元に何かが光った。
ラスラフは立ち止まり、雪を払った。遺品が散らばった周辺から転がり出たのだろう。古びた銅のメダルだった。表面が緑青に覆われ、縁は摩耗している。だが表に刻まれた紋様は、まだ読み取れた。
樹枝状の稲妻の意匠。
ラスラフは右手の甲を見た。痣と、メダルの紋様が重なった。同じ形だった。嵐の痣と同じ、歪な稲妻の枝分かれ。
メダルを手のひらに載せた。感覚のない指先では表面の凹凸がわからない。手首でかろうじて重みを感じた。目で紋様を追う。細い線が幾重にも枝分かれし、中央に一つの紋章を成している。
ペルンの紋章だ。
凍りついた旅人が、なぜこれを持っていたのか。三百年前に死んだ神の紋章を、なぜ南の旅人が携えていたのか。
ラスラフはメダルを握りしめた。感覚のない指で。答えは出なかった。だが、嵐の痣が自分だけのものではないことを、このメダルは告げていた。




