凍れる旅人
薪が、手から滑り落ちた。
朝だった。焚き火の残り火に灰を被せ、新しい薪をくべようとして掴み損ねた。指は曲がる。力も入る。だが木の表面がどこにあるのかわからない。目で見て合わせた指先が、樹皮のざらつきを返してこない。二度目で掴んだ。力を入れすぎて、腕が震えた。
ここ数日、こういう失敗が増えていた。
革紐で荷物を縛ろうとして結び目が作れない。紐の端がどちらに折れているのか、指先だけでは判断がつかない。鍛冶場では指先の触覚で鉄の温度を読み、鉄床の上の微かな歪みを感じ取っていた。あの精度が、もうない。結局歯で革紐を噛み、不格好な結び目をこしらえた。
ズラータが焚き火の前に来た。ラスラフの不便を見ていたのだろう。何も言わず、火の番を引き継いだ。薪の配置を整え、灰を払い、乾いた枝を折って火種の近くに並べていく。手慣れた所作だった。
巫女の任務に焚き火の世話は含まれていないだろう。だがズラータは自然にそれを引き受けた。ラスラフは礼を言いかけて、やめた。言えば、彼女の静かな配慮を言葉で崩す気がした。
火が安定した。白い息を吐きながら、二人は残りの干し肉を分けて噛んだ。無言の朝食だった。
荒野に出た。
白い大地がどこまでも広がり、灰色の空との境界が溶け合っている。歩き始めて数日、景色は変わらない。雪と氷と風。その単調さの中を、二人の足音だけが刻まれていく。
足元に、何かがあった。
雪に半ば埋もれた石が三つ、不自然に並んでいる。ラスラフは膝をついた。石の一つを掘り出すと、表面に刻み目があった。ひっかき傷ではない。刃物で意図的につけた直線が二本、交差している。道標だった。
その数歩先に、焚き火の跡があった。雪に覆われてほとんど見えなくなっていたが、灰と炭の黒い染みが雪の下に残っている。一週間か、二週間か。そう古くはない。
誰かがここを通った。この荒野で火を焚き、石に印を刻んで、先へ進んだ。
ズラータも足を止め、焚き火の跡を見下ろしていた。何も言わなかったが、その目が僅かに動いた。灰の広がり方、石の配置、雪の積もり具合を読んでいる。巫女の観察だった。
永冬の荒野に、自分たち以外にも歩いている人間がいる。その事実が、白一色の世界にわずかな温度を与えた。
ズラータが唐突に口を開いた。
「ペルンの力が暴発するのは、おまえの使い方が間違っているからだ」
冷淡な言い方だった。だがラスラフは反発しなかった。ズラータが無意味なことを言わない人間だということは、もうわかっていた。
「間違っている、とは」
「おまえは力を怒りで引き出している。恐怖で。衝動で。だから力が形を持たない」
ズラータは前を向いたまま続けた。歩調は崩さない。
「嵐神は怒りの神ではない。秩序の守護者だった。雷は混沌を裂き、大地に秩序をもたらす力だ。嵐とは破壊ではなく、世界の形を正す営みだった」
巫女として伝えられた知識なのだろう。ズラータの声には、暗誦するような正確さがあった。だが言葉を選ぶたびに微かな間が入る。ラスラフの状態を見て、考えた末の言葉だった。
「秩序の守護者、か」
「怒りで振るえば力は暴れる。それは嵐ではない。ただの落雷だ。何を振るっているのか知らずに使えば、壊れるのはおまえ自身だ」
ラスラフは黙って聞いた。反発ではなかった。言葉を噛み締めていた。養父ボジダルの教えが脳裏に蘇る。力を込めるのではなく、通り道を作れ。鍛冶の教えと巫女の知識が、どこかで重なっている気がした。
二人の影が雪面に長く伸びていた。灰色の空は低く、風が絶えず永冬の平原を撫でている。単調な白の中で、ズラータの三つ編みの金色だけが鮮やかだった。
夕方、荒野の丘の上で休息をとった。
風が吹いていた。荒野を渡る風は途切れることがないが、この日の風にはいつもと違う何かが混じっていた。音ではない。温度でもない。右手の痣が、風に反応して微かに疼いた。
ラスラフは目を閉じた。
風に集中した。身体を通り抜ける冷気の奥に、もう一つの流れがある。嵐の痣が淡く脈動し、腕の内側が温かくなった。風の中に、何か──力の残滓のようなものが散っている。
かつてペルンが嵐を振るった記憶が、風の中に残されている。そう感じた。理屈ではなく、痣が反応する身体的な確信だった。三百年前に死んだ雷神の力の痕跡が、永冬の世界にまだ散らばっている。世界はまだ完全にはペルンを失っていない。
風が止んだ。
唐突だった。それまで絶えず鳴っていた風の音が消え、荒野が沈黙に沈んだ。痣が強く脈動した。全身に緊張が走る。眷属の気配ではない。もっと静かな、しかし確かな何かが、荒野の向こうから近づいている。
ラスラフは丘の上に立ち、灰色の地平線を見つめた。夕暮れの空に微かな赤みが混じり、雪原に薄い影が落ちている。
風が止んだまま、世界が息を潜めていた。




